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シティポップが聴こえる

 シティポップが好きだ。

 あの洗練された、コンクリートジャングルに生きるスタイリッシュな大人たちを彷彿とさせる歌詞、そして小洒落たサウンドは、マルイのロゴマークを「オイオイ」だと信じて疑わなかった根っからの田舎者の心をむずと鷲掴み、瞬く間に大都会東京への憧憬を抱かせた。

 もっとも、かく言う自分自身はまったくもってシティポップ世代ではない。シティポップ最盛期が八十年代だとして、僕が音楽に目覚めた時期というのが九十年代末期からゼロ年代初頭。いわゆる小室ファミリーが下火になり、浜崎あゆみ、宇多田ヒカル、倉木麻衣などの新世代アーティストが続々と頭角を現し始めたあの時代である。

 そんな自称現代っ子の僕がシティポップの魅力に取りつかれるきっかけとなったのがYouTube……だった思う。正直、記憶は定かではない。曖昧模糊としている。何せもう一昔以上も前の話なのだから。

 ロックやアニソン、ボーカロイドが大半を占める青いボディのiPod nanoに、徐々に荒井由実、稲垣潤一、スターダスト・レビューなどの楽曲が増え始めた学生時分、しかし僕が人前で先のミュージシャンらの話題を出すことはなかった。

 今でさえ本家シティポップおよびネオシティポップなる新興ジャンルが若者や海外の音楽ファンの間で密かなムーブメントを巻き起こしているらしいが、僕が細眉に金メッシュ、ピタピタのVネックにシルバー925のアクセサリー群で着飾っていたゼロ年代後半、音楽シーンの主役はEXILEであり、倖田來未であり、GreeeeNだったわけで、仮に大滝詠一やら杉山清貴&オメガトライブやらの名前を嬉々として口にしたところで、まあ盛り上がるわけがなかったのだ。

 ゆえにシティポップを聴いていることは僕だけの秘密だった。

 東武東上線沿線に位置する緑豊かなベッドタウンで、東京への憧れを抱き続ける人畜無害なモブキャラ系男子。大学の同期や地元からの上京組とたまの飲み会で都内に繰り出した際には、夜闇にそびえ立つ煌々たる摩天楼を見上げながら、いつか来るべきアーバンライフに一人、思慕の念を募らせた。

 そんな生活が二年ほど続いた頃の話だ。

 大学三年の八月だったと思う。夏休みを利用し埼玉県某所の安アパートから東北の実家に帰省していた僕は、それはもう怠惰の極みたる日々を送っていた。

 家族が仕事で家を空けていることをいいことに起床はいつも昼下がり。起き抜けから冷蔵庫を漁り、室温二十五度がキープされた快適なリビングでもって好きなものを食べ、好きなものを飲む。主に焼そばバゴォーンと缶コーラ。食後はたばこで一服。くたびれたソファの上。鳴らないケータイ。二分遅れのセイコーウォッチ。窓辺から射し込む陽光。持て余す自意識。なんとなく気がふさぐ午後。ぼんやりと読み流す芸能ゴシップ。ROMる鯛男板。飽きたら外出。行き先は徒歩圏内の書店。到着と共に鼓膜を揺さぶる有線。懐メロ。山下達郎。真っ先に手に取る週刊プレイボーイ。グラビアページには名も知れぬB級アイドル。俗っぽいキャプションが躍っている。不意に視線が重なり合う。微笑んでいる。誰かに似ている。思い出せない。いや、ことさら思い出す必要もないのかもしれない――。

「あのぉ……」

 今日も今日とて書店を訪れていた僕を退店間際、高いトーンの声が呼び止めた。何ごとかと思い振り向くと、そこにはつい先ほどまでレジ業務に勤しんでいた女性店員の姿が。

 一瞬にして身構える。他店での出来事ではあるものの、僕は中学時代、店側の過失により二度も万引きを疑われた過去があり、そのトラウマが秒で甦ってしまったのだ。

 年にして二十代前半。高身長かつ細身の、明るい茶髪をポニーテールに結ったエプロン女が、マスカラだらけのまつ毛を瞬かせながら、こちらをしげしげと見つめている。

 いやはや、面倒なことになってしまった。心で短いため息を一つ、ほどなく覚悟を決める。こういうときは下手に怯んではならないということを僕は経験則から学んでいた。

 長く伸ばした外ハネの襟足をいたずらにいじりつつ、いつになく強気な語気で一言、

「なんすか?」

 すると、

「リョウ……だよね?」

「はい?」

「あたしあたし! メグル!」

 この鈍りきった思考回路が事態を飲み込むまでに数秒の時間を要した。

 先輩か、後輩か、はたまた友人か。今の時点ではまったくもって定かではない。しかし、ただ一つだけ言えることは、このいかにも軽薄そうな女が、ほかでもない僕の知り合いだということだ。

「メグ……ル……?」

 初めて感情を得たロボットのような声が、ほとんど無意識のうちに己が唇からこぼれ落ちた。

 僕はわかりやすくうろたえ、まごつきながら、それでいてとっさに記憶を掘り起こす。有線からは相も変わらず懐メロが流れ続けている。そのゆったりとした調べに相反するかのように、思考は第一宇宙速度でぐるぐると回転を繰り返す。

 メグル、めぐる、MEGURU――。

「メ、メェちゃん⁉」

 直後、女が、メェちゃんが、カラコンに覆われた宇宙人みたいな瞳を三日月形に細め、よく通る声で「久しぶり!」などとのたまった。

○○○

 メェちゃんことクニサキメグルは中学時代のクラスメイトである。

 年中無休、二十四時間営業で「死亡遊戯」の頃のブルース・リー然としたヘアスタイルを保持するメェちゃんは、女子ソフトボール部に所属する活発女子で、合唱コンクールでは三年連続ピアノ伴奏を担当。聡明かつスポーツ万能、そして何よりお調子者な彼女は、その気さくな性格から男女共に好感度の高い人物であった。

 当時、異性を必要以上に意識してはあらゆるシチュエーションで痛い目に遭ってきた僕のような生徒にもメェちゃんは、ほかの生徒らと同様、対等に、ナチュラルな態度で接してくれた。そんな彼女とは中学卒業後も友人関係が続いた。一緒にどこかへ出かけるようなことさえなかったけれど、年に一度か二度メールのやり取りを交わしては、他愛ない話で大いに盛り上がった。

 一切の交流が途絶えてしまったのは、僕が埼玉に住居を移してからだった。大学生になったばかりの僕は、新たな人間関係の構築であったり周囲の環境に溶け込むことに精一杯だったわけで、それはきっと地元の四大に進んだメェちゃんも同じだった。

 というわけで今、僕たちは何年かぶりの再会を果たしている。

「──そんなこともあったけ」

 どこかしみじみとした口調でつぶやくと、ギャルメイクはその高々とした鼻から積乱雲ばりの呼出煙を吐き出した。

 数分前、これから休憩だというメェちゃんに連れられてやって来たのは、店舗裏手に設えられた簡易喫煙スペースだった。唸りを上げる小汚い室外機のそばにはアウトドア用の折り畳みチェアが二脚と、焼けたアスファルトに直置きされた灰皿代わりのクッキー缶が一つ。彼女は休憩時間になると真っ先にここを訪れ、たばこをくゆらせながら、愛用のデジタルオーディオプレーヤーでお気に入りの曲を聴いているらしかった。

 詩の一節をそのまま切り取ったかのような、たとえるならば角松敏生のCDジャケットを連想させる青空の下、僕は旧友との期せずしての再会に内心テンションが上がっていた。年に数回程度しか訪れることのない池袋や新宿、秋葉原の猥雑さについて、いっちょまえにシティボーイを気取りつつ、ああだこうだと早口で捲し立てていた。メェちゃんは興味深く話を聞いてくれているようだった。時折口元に手を添え、歯列矯正器具を覆い隠すように笑うしぐさが偉く印象的だった。

 僕は密かに、メェちゃんと隣の席だったとある時期を回想し始めていた。あの頃も彼女は、オチもへったくれもない話に嫌な顔一つせずつき合ってくれていたのだ。

「…………」

 もう何本目かのセブンスターを吸い終えたメェちゃんが、ごく自然な所作で次の一本に火をつける。傷だらけのジッポライターが、ピンクベージュのワンカラーネイルが、八月下旬の太陽にきらきらと反射している。普段はチェーンスモークなんてめったにしないが、今日は特別だ。内心でぼそりとつぶやき、何食わぬ顔で真隣の彼女に倣う僕。喉の奥をガツンと刺激するメンソール。たかだか五ミリのタールが肺にいつになく重く染み渡る。思わずむせ返りそうになる。

 いつだったか、たばこを一本吸うごとに寿命が五分縮まるだとかいう噂を人づてに聞いたことがある。仮にこの俗説が事実だったとして、いやしかし旧友とのこの貴重な時間のためならば、たったの五分くらい惜しくもなんともないと僕は本気で思った。

 視線の先、ルーフキャリアにサーフボードを積んだジムニーが公道を突っ走ってゆく。

 濃厚な紫煙がゆらゆらと、隣町の休耕田まで運ばれてゆく。

 レトロなプリントが施された、吸い殻だらけのクッキー缶を間に、僕たちの会話はまだまだ続く。

○○○

「東京、行ってみたかったなあ」

 左手首に巻きつけた安物のデジタル時計が十六時三十分を表示した頃、メェちゃんがふと、こんなセリフをつぶやき落した。

 いったいどうしたというのだろう。いかにも物憂げな、湿っぽい表情である。けれど僕の網膜に、その横顔はひどく美しく、尊く映っていた。大聖堂のフレスコ画のような、あるいは銀幕を彩る若手女優のような。さながらこんなシチュエーションにこそふさわしいと言わんばかりの不可思議な趣が、このほんのり青みがかったメニコンレンズ越しの瞳には、はっきりと見て取れた。

 出会ってから一度だって拝んだことのない、元クラスメイトの意外な一面に心拍数の上昇を自覚し、それでいていったん冷静になる。

「いやいや、来ればいいじゃん。冬休みとかさ。池袋でよかったら案内できるし」

 このへんぴな田舎町から東京までの距離は、おおよそ六百キロメートル。新幹線で四時間、飛行機ならばわずか一時間程度で移動できてしまう。ちなみに、東京大阪間は約五百キロメートルである。それゆえ、まるで天竺への渡航を指しているかのようなメェちゃんの口振りの重さに、僕はそこはかとない違和感を覚えていた。

「メェちゃんが思ってるほど遠くないぞ、東京」

 するとメェちゃんは遥か遠く、喪服の一団が列をなす古びたバス停を眺めながら、

「そういう意味じゃなくて」

「え?」

「そういう意味じゃなくって、上京して、東京を生活の拠点にしたかったってこと。あたし、本当は都内の大学に行きたかったんだ。ま、お父さんがそれを許してはくれなかったんだけど」

 初耳だった。僕は言葉に詰まる。額ににじむ汗がすうっと引いていく。

「だから君が、リョウみたいにここを出て行った人間が、あたしにはとーってもまぶしく見えてさ」

「全っ然。そんなことないって。俺なんかあっちでくすぶってるだけだし」

「またまたー」

「マジマジ。卒業は危ういし、ニコ動ばっか観てるし、組んでるバンドだっていまいちうまくいってない」

 自嘲気味に漏らし、直後、フィルターぎりぎりまで吸った一本をクッキー缶に押しつける。チェーンスモークに次ぐチェーンスモークもいよいよつらくなってきた。

 僕はスキニーパンツのポケットに忍ばせていたミンティアを二、三粒ほど、たばこ代わりに口に放り込んだ。辛い。痛い。舌先の口内炎にはちょいと刺激が強過ぎたらしい。わずかばかりの後悔が瞬時に頭の中を駆け巡る。

 粒のほとんどが溶けかかった頃、僕は努めて呑気な口調で言った。

「就職、あっちでしたらどうよ」

「ううん」

「どうして?」

「なんていうか……東京はもうすっかりテレビとかネットの中だけの世界って認識になっちゃったんだよね」

 あたしには、このつまんない街がお似合いなんだっ。

 旧友のおどけた調子を前に、僕は黙したまま、その横顔に何か言いようのない悲壮感のようなものを感じ取る。

 メェちゃんにとって東京は六百キロメートル以上の、それこそ天竺ほどの果てしない距離があるのだと、このとき悟った。

「なあ、一つ聞いていい?」

「何?」

「メェちゃん、この街、嫌いか?」

 するとメェちゃんは一呼吸置き、すこぶる凛とした声でもって、

「もちろん! マジ、ファッッック!」

 と断言した。

○○○

 陰気で、自殺率が高く、風が強く、また曇り空が多いこの街を、しかし僕は愛している。心底から愛している。過疎化や高齢化が叫ばれて久しい、いずれひっそりと滅びゆくだけの一地方都市とはいえ、腐っても故郷なのだから。

 もっとも、それでいてこの窮屈な片田舎に骨を埋める気もさらさらなかった。生まれてから死ぬまで大して登場人物の変わらないであろう土地で過ごす何十年という途方もない月日。そんな日々をふと想像したとき、己が脳髄に住まうヘドロ色のいびつな球体Xが突として爆ぜ、勢いよくしぶきを上げたかと思うと、やがて全身に鋭い悪寒を走らせた。夢も希望も見出すことのできない未来ならばいらないと、この瞬間、思春期の不安定な心ではっきりと自覚した。だから、というべきか、大学進学を口実に僕は、この要塞を抜け出した。何者かになるという漠然とした野望を胸に飛び出した。両親はそんな息子を快く送り出してくれた。

 無論、一方でメェちゃんのような人間がいることも忘れてはならない。彼女はもともと東京都内の国立大を目指していたのだという。しかし夢は、ついに叶わなかった。女に学は必要ない。平たく言えば、そんな時代錯誤も甚だしい言葉を実の父親から吐き捨てられたのだ。母親も味方になってはくれなかった。たび重なる説得の末、地元市内の大学ならば考えてもいいと父親は言った。夏で、十七歳だった。たばこと飲酒に手を染めたのは、ちょうどこの頃だったと思う。彼女はどこか遠い目をして、幾分静かなトーンでそうのたまった。

「ふう……」

 書店員の形のいい唇から、ため息混じりの吐息が漏れる。

 時刻は十六時四十分。気づけば二人の頭上に沈黙の帳が下りている。

 不意に、なめらかな風が辺りを吹き抜けて、僕らの素肌を優しくなでた。木々の梢がささやくように揺れた。クッキー缶の縁には一匹の赤とんぼ。視覚が、聴覚が、触覚が、早くも秋の訪れを感じ取る。

 東北の夏は短命だ。現に暑さの盛りはとうに過ぎていて、気温はもう真夏のそれではなかった。エアコン、いや扇風機さえ必要のない夜が、間もなくやって来るだろう。そんなどうでもいいようなことを頭の片隅で思いながら、沈黙を破ったのは僕のほうだった。

「最近、どんな音楽聴いてるの?」

 これといって共通点のない二人をつなぐもの、それは音楽であった。メェちゃんは、間違ってもミュージックステーションに出演することはないであろうエキセントリックなバンドの数々を僕に教えてくれた、言わばロックの師匠のような存在だった。その趣味趣向は年の六つ離れたバンドマンの兄の影響らしかった。

 正直なところメェちゃんが手放しで推すアングラバンド群は、僕の理解の範疇を超えるものばかりだった。けれど同時に、聴き続けるうちに、彼らの紡ぎ出す難解かつ奇っ怪な世界観にそれまでの自分の中の常識みたいなものをことごとく覆されていったこともまた事実だった。もはや理屈でどうこう語れるものではなかった。空き缶が散乱する四畳半の狭き城にフルヴォリュームのロックンロールは鳴り響き続けた。

「ええと……」

 僕の何気ない問いのあと、メェちゃんがエプロンのポケットからおもむろに取り出したのはiPod classicだった。純正品とは異なるスカイブルーのイヤホンが、経年劣化でくすんでしまったシルバーの本体に巻きついている。よく見ると液晶の端にヒビが入っているではないか。

「あ、これね、兄貴の形見なんだ」

「形見?」

 しかしメェちゃんは、僕の言葉を無視、あるいは聞こえていないかのような素振りで、ほら、とイヤホンの片方をこちらに差し出してきた。

 兄貴の形見――その言葉が鼓膜にこびりついて離れない。たぶん、おそらく、いやきっと聞き間違いなんかではない。僕はひたと硬直したままイヤホンを受け取れずにいる。

 三秒が経った。四秒が経った。

 やがて痺れを切らしたのだろう。メェちゃんは折り畳みチェアごと一歩ほど距離を詰め、いとも容易くパーソナルスペースを侵略したかと思うと、次の瞬間には僕の右耳に問答無用でイヤホンをねじ込み、余ったほうを自身の左耳に装着した。

 クリックホイールに触れたネイルの親指がくるくると滑らかな円を描き、そして、

「……おお」

 イントロの、短いエレピサウンドのあとに聴こえてきた語りかけるような歌声は、ジャパニーズポップス界の重鎮、山下達郎のものにほかならなかった。

「達郎じゃん」

「正解」

「メェちゃん、こういうジャンルも聴くんだ」

「ドライブ中にたまたまラジオから流れてきて、それきっかけですっかりハマッちゃったの。意外だった?」

「意外もいいところだって。俺はもうてっきりアングラバンドが流れてくるものだと……」

「あはは」

 このとき、初めて口元に手を添えず、メェちゃんが歯列矯正器具むき出しの笑みを湛えた。心臓が喉の奥で一度、ドクンと大げさに跳ねた。何せ今日イチの、輝くばかりの、屈託のない笑顔だったのだから。中学時代となんら変わりのない、かつて少女だった者の懐かしい表情が、そこにあったのだから。

 僕らは黙って、その抒情的な男性ヴォーカルにゆらりと身をゆだねた。

 この曲が店内で流れていたものと同じだということに気づいたのは、Bメロからサビへの扉が開かれた瞬間だった。

 僕は尋ねる。

「この曲、タイトルなんていうの?」

 メェちゃんが答える。

「さよなら夏の日」

 心地のいい旋律は続く。

 今、この世界には僕たち二人しか存在しない。ゆったりとした時の流れの中、気づけばそんな奇妙な錯覚にとらわれている。この頃にはもう形見だとかなんだとかいうワードはきれいさっぱり頭から抜け落ちていた。

 大サビの途中、メェちゃんがふと、まるで独り言のようにつぶやいた。

「夏、終わっちゃうね――」

 思えば、異性と一つのイヤホンを分け合い、高層ビルの一棟もないような田舎でシティポップを聴いた夏は、あとにも先にもこの一度っきりだ。

 山下達郎を立て続けに二、三曲聴いたあと、僕らはバイバイをした。

 別れしな、ほんの少しの名残惜しさを覚え、メェちゃんをダメもとで翌日開催予定の花火大会に誘ってみた。けれど案の定、返事はノー。清々しいほどの即答だった。明日は朝から心療内科の定期カウンセリング、そして午後からは集会があるらしかった。集会とはつまり宗教関係のそれを指していた。もしよかったら一緒に行く? ナチュラルにそんな誘いを受け、しかし僕はきっぱりと断った。彼女は眉尻を下げ、あからさまに残念そうな顔をしていた。

 自宅方向を目指しながら、一歩、また一歩と乾いたアスファルトを踏みしめる。真っ赤なコンバース・オールスターが控えめな足音を奏でる。どこか遠くのほうではヒグラシが鳴いている。金色の陽射しを浴びた見慣れた書店が徐々に遠ざかる。

「リョウ!」

 と、そのときのことだ。後方十数メートル。くるりと踵を返した僕に向かって、ギャルメイクが大仰に右手を振った。

「あっちでもがんばりなよー!」

 直後、タールにまみれた不健康な肺の隅々にまで酸素を行き届かせ、

「メェちゃんもなー!」

 二人の間に、もうそれ以上の言葉は必要なかった。

 やがて急ぎ足で店内に消えて行った旧友を僕は最後まで見送った。

 胸の奥底で静かに鳴り続けるシティポップ。尽きせぬ想いにそっとフタをする。

 もう二度と同じ夏は巡って来ない――。

 過ぎゆく季節に潔く別れを告げた僕は、そして今、再び光の中を歩き始めた。

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