その印象は二度と戻ってこない。モネがとらえた全ての一瞬。
クロード・モネは、生涯、探求し続けた。
色はさまざまな照明条件で、どのように変化するのか。キャンバス上で、どのように相互作用するのかを。
1人で突然思い立って、この長い “旅” をはじめたのではなかった。
ある風景画家がモネに、屋外で絵を描くようにすすめた。伝統的なスタイルはアトリエの中で描くものだった。
アドバイスをしただけでなく。その先輩画家は一緒に外で描こうと、モネを連れ出した。
ウジューヌ・ブーダン。ノルマンディーの海岸を描いた作品の素晴らしさで、知られている画家だ。青空と白雲の表現にすぐれていたことから、「空の王者」と賞賛されていた。
後にモネは、この体験をこう語った。
彼はイーゼルを立てて制作にとりかかった。私にとって、ベールが破れるような体験だった。私が画家になれたのは、ブーダンのおかげだと思う。あれから私の目は徐々に開かれ、私は自然を理解するようになった。
想像してみた。
年上の絵描き仲間が、よく晴れた日の午後に「今から外に描きに行ってみないか」と。「今からですか」「こんないい天気だ。実際に見ながら描かないなんて、もったいないだろう」
両脇に抱えた道具がガタガタと鳴るたび、モネ少年の心も高鳴ったのではないか。
だって、新しい挑戦だ。しかも大好きなことの。私だったらすごくワクワクする。
ウィリアム・ターナーは、印象派が登場するずっと前から屋外で絵を描いていたが。モネは、ターナーの作品にも感銘を受けていたという。私も彼の作品が好きだ。
2020年から、英国の新20ポンド紙幣には、ターナーの肖像画が使われている。
Light is therefore colour. (英国だからスペルは colour)したがって、光は色である。という文言とともに。
風刺画の販売で得た貯金から学費を払い、画塾に通った。画家の友人が複数できた。
仲間とよく一緒に絵を描いていた。
この時期モネが知りあった画家仲間には、他に、ピサロやセザンヌがいた。
バティニョール派
前衛的な画家の集まりは、はじめ、こう呼ばれていたそう。バティニョールは小さな村で(かつては家賃が安く)、19世紀半ばにパリに併合された。多くの芸術家たちが住んでいた。モネもルノワールも。
カフェ・ゲルボワ
バティニョールにあったこのカフェ(カフェと居酒屋のような感じ)で、美術の議論をかわしていたという。マネやドガなど、たくさんの画家が通った。
セザンヌは後にグループから離れ、独自の絵画様式の探求をはじめた。→ ポスト印象派へ。世間が名付けたりカテゴライズしたりしているにすぎないのかもしれないが、ゴッホやゴーギャンもこれにあたる。
余談。
寡黙なタイプだったセザンヌが、一度、激怒したことがあるらしい。数分間、怒涛の如く自分の意見を述べ。その勢いで店を出ていったらしい。まわりは、まぁ……あのセザンヌだからな……と変に納得したらしい。笑
30代になったモネ。
当時のフランスの画家にとって、ほぼ唯一で最大の作品発表の機会だった、国主催の公募展(サロン)。
モネと仲間たちはそれとは距離をおき、発表の場を自分たちで設けた(1847年に第一回の印象派展)。
美術におけるサロンの独占を打破しようとした。前述したカフェで、このような企画も話しあったのだろう。
印象派は、芸術アカデミーから評価されなかった。お察しのとおりという感じ。いつの時代にも・どの業界にもある、対立系の構図だ。
印象派/印象主義という呼び方は、モネの作品名に由来する。『印象・日の出』という作品だ。
曖昧な形式だな、軽薄な筆致だなと、評論家たちから批判された。
絵画は君のお気持ちじゃないんだよ。そんなイヤミを含んだ呼び方だった。
タイトル、印象ってww
印象草。お前の印象とか知らんがなw
印象派? 印象派www
あーね、こんな感じね。
私が調べた中で一番嫌な悪口「昔の壁紙よりははるかに完成度が高い」。
モネ「私にとって風景とは、その様相が刻々と変化するため、風景として存在するのではない。周囲の環境、絶えず変化する空気や光によって、生きているものだ。その時は2度と戻ってこない。自分がとらえた印象が本当のものであったか、いつも疑問にも思う」
40代以降のモネは、いくつかの絵画シリーズの制作に没頭した。
それらがシリーズとなった理由は(多くの作品から成る連作となった理由は)、異なる時間帯や異なる季節に、同じ主題を何度も描いたからだ。
まず、20点以上から成る「積みわら」シリーズ。
モネは、自宅近くの干し草の山を描きはじめた。さまざまな天候や季節の中、くる日もくる日も、光と大気のもたらす効果を見つめ続けた。
私たちが、気になる誰かの表情の、小さな変化さえ逃したくないと感じるように。今しかない、この瞬間の、自分の気持ちを大切にしたいと願うように。
『閃光少女』を思い出した。いい歌だ。
この新しい目標のために。モネはある意味、風景画を捨てた。彼は、風景の「断片」にフォーカスするという決断をした。
私たちも。みんな同じだ。
何かを選ぶとは他の何かを選ばないということ。人生とは、選択の連続のことでもある。
こういう話が好きな人は、この回も好きかもしれない。
印象派の画家たちは、全ての色にはその反対色があることをよく知り、それぞれの色調を強調するためにその補色と関連づけた。
目はコントラストの乱れを軽減し、相補的な色調にもとづいて、光学的混合物を操作する。目は色の混合を行うことができる。
この考え方は、フランスの科学者が理論化したもの。
同時対比の法則:色と色とが接すると、互いの色が影響しあって、本来の色とは違う色に見える現象。
朝焼け・午後の陽光・夕暮れ時・あたたかい日・いてつく寒さ・乾いた外気で、つまり「積みわら」シリーズで、モネはこの色彩理論を試したようなものだった。
印象派の画家たちは、物体のありのままの姿を忠実に描こうとはしなかった。
モネは、目の前にあるものを「色の点」として見るように、他の画家たちに助言した。
モネの技法で、物の形=物と世界の境界線は溶けてゆくことになる。
現代で「チームラボ」が提唱していることは、これに近いのではないだろうか。
以前、イーロン・マスク氏が東京をおとずれた際、これを体験しSNSに動画をあげていた。既に世界でも有名なプロジェクトだが。非常に拡散力のある人なので、さらに多くの人に知ってもらえただろう。
外国人の知人が行きたがることが多いので、私も道案内を兼ねて何度も行った。
次に、「ポプラ並木」シリーズにとりかかった。計23点。
このポプラ並木は、実は、切り倒される予定だった。
まだ描いてない季節や気候条件がある……!
モネは、ある材木商に落札価格を上回った差額分を支払うと約束し、落札してもらった。共同保有者になることで、伐採の延期を叶えた。
合唱でよく歌われる『名付けられた葉』の歌詞。
ポプラの木にはポプラの葉
何千何万芽をふいて
緑の小さな手をひろげ
一心にひらひらさせても
ひとつひとつの手のひらに
のせられる名はみな同じ
わたしは呼ばれる
わたしだけの名で朝に夕に
だからわたし考えなければならない
誰のまねでもない
葉脈の走らせ方を刻みの入れ方を
せいいっぱい緑をかがやかせて
美しく散る法を
どんなに風が強くとも
今度は、「ルーアン大聖堂」シリーズ。30点から成る。
主に、ルーアン大聖堂の西門をさまざまな角度から・さまざまな時間帯に描いたもの。
実物の大聖堂のファサードは、単色の石で彫られている。だが、モネは、ピンクやオレンジなどさまざまな色を使った。
石の表面に当たる光の雰囲気をとらえようと。
灰色のパターンもある。今日はくもり空だからやめておこう・とても寒いから明日にしようーーそんなことはなかったようだ。
「色は私にとって、一日中執着するものであり、喜びであり苦しみです」
建築における光と色彩を追求したものは、他にもある。「ロンドン国会議事堂」シリーズだ。
以下は、時系列的には前に戻る作品だが。
サン・ラザール駅もモネの探求心をくすぐった。バティニョール地区にほど近い、パリ最古のターミナル駅だ。
この場合、工業と大気や光の関係を追求した。
印象派展が3回めの開催にいたっていた頃で。美術界も、印象派を無視し続けることはできないと認識しはじめていた頃。
印象派のもつ新しい視点に感化された詩人が、こう言った。
前世代は森や川で詩を見つけたが、我々世代は駅で詩を見つけるようになるのだな。
絵画の印象派に影響を受けたのもあり、印象主義音楽が生まれた。
本人は、印象派と呼ばれることを強く拒否したそうなので、ここで取り上げるのは忍びないのだが。ごめんね、ドビュッシー。
『海 管弦楽のための3つの交響的素』は、ドビュッシーが1905年頃に作曲した、管弦楽曲だ。
楽譜の表紙には、葛飾北斎『富嶽三十六景』の『神奈川沖浪裏』が用いられた。
親しい女性彫刻家から北斎について教わる中で、すごく好きになったという。
自室にて撮影されたドビュッシー(左)。後ろに『神奈川沖浪裏』が飾ってある。
ドビュッシーが、『ペレアスとメリザンド』というオペラの楽曲を手がけた時。熱狂的なファンがつき、続編 (?) が待望された。
しかし。ドビュッシーは、「私がペレアスからぬけ出せないと期待している人々の目は、閉じられている。最も遺憾なことは決まった型を繰り返すことだ、と私は考えている。そうともなろうものなら。私はすぐさま自室でパイナップルの栽培でもはじめるだろうということが、彼ら彼女らにはわからないのだ」と発言した。
過去の栄光にすがるくらいなら、パイナップルでも育てた方がましだっつーの!
ドビュッシーこんな人だったんだ(いいね)笑笑。
彼は、音楽家でなかったら船乗りになっていたと言うほど、海が好きだった。
波は絶えず、寄せては返す。永続的な繰り返しに見えるが。その実、全く同じ波は1つとしてないのだろう。自然界の無数の要因から影響を受け、常に変化し続けているのだろう。
ドビュッシーの好きなことがどんなことか、わかったような気がする。モネと似ている部分がある気がする。
1853年以降、ヨーロッパにジャポニズムの波が押し寄せたことがあった。
旅行者たちが帰国する際、日本の版画や衣服をもち帰ったのがきっかけ。
日本文化はモネも魅力していた。
『ラ・ジャポネーズ』。着物を羽織った妻のカミーユを描いたもの。床材も、い草のように見える。
カミーユは、モネと幼な子を残して、若くして亡くなっている。彼が、経済的に最も困窮していた時期に。
子どもを養うために、モネは一時だけ方針を変えた。印象派展への出典を辞退し、当時のメジャーにあわせた商業的な作品をサロンに出した。
結果は成功。作品は高値で取引きされ、クロード家は経済苦から逃れることができた。
日本美術の膨大なコレクション(浮世絵など)を所有することも、お金がなさすぎたら、できていなかっただろう。
最後は、約250点から成る「睡蓮」シリーズ。
作品数からも歴然だが、これが、モネの最後にして最大のプロジェクトだった。
どなたかがまとめてくださってる。見やすい。
私は、「睡蓮」シリーズではこれが好き。
自ら設計して、郊外の自宅に庭をつくった。藤でおおわれた日本風の橋、睡蓮の池、枝垂れ柳、竹林……モネは日本庭園をつくった。
そして、それを20年以上描き続けた。
このあたり、おだやかに流れる時間を想像したいところなのだが。現実がそうでないのだから、仕方ない。
決して筆を休めない男は、できあがっていく庭をしみじみと眺めて、待ったりはしなかった。その間はロンドンに戻って、また多くの作品を生み出していた。ヴェネチアにも描きに行っていた。
「睡蓮」シリーズ当初は具象的だった絵が、次第に、抽象的になっていった。
1900年頃に描かれた庭園と、1920年頃に描かれた庭園を見比べると、よくわかる。
モネは白内障をわずらい、視力を失いはじめていたのだ。
長年提唱してきた風景画のビジョン。つまり、形も細部もない色彩のパッチとして、環境を観察すること。それがどんどんできるようになっていったのだ。
見えなくなるほどに、見えてくるものか。いい話だな。
私が表現しようとしているのは、私とモチーフの間で展開されるものなのだ。
このように述べていたモネが視力を損なっていくことは、一般に私たちが視力を損なうこととは、また違ったものだったのだろう。
後世、モネは言い直した。「私は、花のおかげで、画家になれたのかもしれない」
〜 僕がギターを思うように弾けなくなっても
心の歌は君で溢れているよ 〜