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脱学校的人間(新編集版)〈51〉

 自分のやりたいこと、あるいは夢、そういったものを結局は「仕事=職業」に結びつけていくことしか、人は他にその術を知らない。そしてそこで達成された成果を、人は「自己実現」というように呼び変えていくわけである。
 しかし、自分自身の自己実現というものは、「自分自身のみにおいて実現されている」ものでは全くなく、常に「他人の自己実現との対比」において決定されなければならないものである。そしてそれは自己と他人が「だいたい同じような人間である」ということを基準として、それを大前提に「誰もが同じように適用されている条件」なのでもある。
 このような前提条件にもとづいた、諸個人各々の自己実現に向けた自助努力への動機づけを、万人において平等に適用し担保するというようなイデオロギーがすなわち「メリトクラシー=能力・成果主義」なのである、というように内田樹は言っている(※1)。そして、世に「機会の平等」が喧しく叫ばれるのは要するにこういう事情によるものなのだ、というわけである。
 ところでこのメリトクラシーなる考え方において社会的な諸個人に保証されていることとは、個人的な自助努力を惜しまなかった者の、その社会的な階層上昇ということではむしろなくて、逆に「努力をしなかった者の社会的な頽落」の方なのであるということが見えてくるところではないだろうか。というより、どちらかといえば後者の方こそが、前者のありようを条件づけているものだと言ってもよいくらいなのだ。
 誰かが何事かを努力したことによって達成された成果というものは、実は逆に「努力しなかった誰かが達成できなかった成果に対比して見出されるもの」であるのに他ならない。もし「誰もが努力すれば必ずや成果を達成できる」という前提が、誰にでも適用されているものだとして、さらにはその成果が「個人の社会的階層上昇へと確実につながっている」ものだと考えられているのだとしたら、むしろそのことの方が矛盾というものであろう。もし本当に誰もが同じように上昇しているのだとしたら、その上昇に一体どこの誰がどうやって気づけるというのだろうか?
 しかし、誰かの成果が「個人的な達成」であるかのように思えるのは、その一方で誰かが成果を達成できなかったことのおかげなのだ。そして誰かが頽落していってくれたおかげで、あたかも自分自身は上昇したかのように「思えてくる、あるいは見えてくる」ようにもなるものなのである。

 誰もが満たしていると仮定されているような「社会的な条件」を、しかしどこかの誰かにおいては実際に満たすことができなかったという事実によって、そのどこかの誰かは間違いなく社会的に頽落していくことになる。そしてそこで実際に頽落していくのは、まさに「現実に努力を惜しんだ個人」であるのに他ならない。そのように、「彼は頽落していった」という社会的な現実の結果が、「彼は努力をしなかった」という社会的な判断による措定を、社会的な事実として決定づけてもいる。
 「努力をしなければ誰もが社会的に頽落しうる」という一つの仮定は、「どこかの誰かが事実として努力を惜しんだがゆえに社会的に頽落していった」という現実を認定することにもとづくものである。仮定が現実を条件づけるものとして成立するのは、それが必ず「現実の事態として認定されている限り」だということは、今さら言うまでもないことであろう。
 そういった、それぞれ個人による自助的な努力の成果として見出される「結果としての現実」、すなわちそれぞれ「個人」が実際に努力したのかしなかったのかという「客観的事実」は、あくまでもその現実的な成果=結果によって判定されることである。たとえどれほど「自分は個人的な自助努力をけっして惜しまなかった」と主張しようとも、結果として何ら成果を達成できなかったのならば、その努力は誰からも全く努力だとは認められはしない。
 しかし、それでも「誰もが努力しているというのだ」としたら、やはりどこの誰であれ「自分自身としても同じように、あるいはそれ以上に努力し続けないわけにはいかない」だろう。なぜなら、そうでなければ「誰からも認められない努力さえも、何もなかったことにされてしまうかもしれない」のだから。

〈つづく〉

◎引用・参照
※1 内田樹「下流志向」



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