可能なるコモンウェルス〈56〉

 ジェファーソンは、自身の唱える「反復革命」論の根拠として、その形式を規定する理念としてあるところの「人間固有の権利」に、「反乱と革命の権利」をも含めた。
 ところでこの、「反乱と革命の権利、およびその自由」という観念を、いささか狭量とも言えるような、経験論的・功利的かつ固定的な感性をもって「真に受けてしまっている」ことにより、現在のアメリカ社会において最も悩ましく人々を苦しめているところの、いわゆる「銃」をめぐる諸問題なるものもまた、如何ともし難い状況で生じているのであろうと考えられる。
 たしかに革命の現実的過程において、多少なりともその「物理的暴力の必要性」が生じうることについては、まさしく当事者であったジェファーソンとしても「経験的に」認めざるをえないところではあっただろう。しかし、彼がそれを「人間固有の権利」と見なしていたのは、むしろそういった「暴力の必要性」に対して一つの逆説のように成り立っている、「制度と形式の必要性」にもとづいた視点においてなのである。
「…区の『平和的な』性格をくり返し主張しているのは、このシステムが、彼にとっては、反復革命が望ましいとする彼の以前の観念に代わる唯一の万能な非暴力的代案であったことを示している。…」(※1)
「…後年、とくに区制(ウォード・システム)を『私の心にもっとも近いもの』として採用して以後、ジェファーソンは反乱の『恐ろしいほどの必要』についてますます語るようになった(とくに一八一六年九月五日付、Samuel Kerchevalあての手紙参照)。このように強調点が移動したのは、老年になったときの気分の変化のためだと考えるのは正当なものとは思われない。というのもジェファーソンは、他のばあいにはたとえどんなに恐ろしいものであれ必ず起る反乱に代わる唯一の可能な代案として区制(ウォード・システム)を考えていたという事実があるからである。…」(※2)
 憲法の定期的な修正による革命過程の正確な繰り返し、すなわち「反復革命」に代わるものとして、ジェファーソンが後年構想していた「区制(ウォード・システム)」についてはあらためて後述する。ここではまず、「恐ろしいけれども必要な反乱」の暴力性に代わるものとして提案された、「憲法改正による、革命の制度的・平和的な継続」とは一体どのようなことなのかについて考えてみよう。それは、前者をさらに上回って然るべき、後者の「必要性」から見られているものなのである。

 そもそも平和は、暴力に対する「代案」などではない。そしてこのことこそ、ジェファーソンの考えていた「区制(ウォード・システム)」の導入が、「恐ろしいけれども必要な反乱」以上の必要性・必然性を有していることを根拠づけるものである。この根拠に立つことにより、「反乱と暴力の必要性」は、制度も平和も成り立たないような「最悪の場合の、ありうべからざる代案」として押し止められるものとなる。
 「支配と暴政に対する反乱と革命」は、たしかに時として「恐ろしいほどの必要性を有する」もののように考えられることはあるだろう。そしてそのときそれはたしかに、ある種「人間固有の権利として自明なもの」のように見なされることになるのかもしれない。
 しかし、その必要に迫られて実際に生じる出来事を、単に「一時的で熱狂的なハプニング」としてではなく、「一定に制度化されたもの」として対応することは十分可能なことなのだと、ジェファーソンは考えたのであった。「反乱と革命」に付随する暴力は、往々にして「一時的な熱狂」を条件として生じるものであろう。逆に言えば、それを「一定に制度化する」というのはある種の不条理である。人間は、「制度的に熱狂する」などということはできないのだから。ゆえにもし、「反乱と革命を一定に制度化すること」が可能となるならば、そこに「暴力の必要性」は付随しえなくなるはずである。少なくとも、「必ずしも必要なものではない」というところに押し止めておくことはできるようになるはずだ。

〈つづく〉

◎引用・参照
※1 アレント「革命について」志水速雄訳
※2 アレント「革命について」(原註)志水速雄訳

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