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道玄坂をおりる/嫌な顔をされる 6

 すれ違っていく、ぐったりした人たちのうち、どれくらいの人が、仕事がだるいという気持ちのために顔を嫌そうに歪めているのだろうと思う。けれど、そういう人たちにしても、辞める気があるわけでもない人がほとんどなのだろう。前の会社でも、だるそうにしている人は辞めなかった。あまりにも扱われ方がひどい人と、それなりに仕事をやれている感じの人ばかりが辞めていった。そんなものだったりするのだろう。言われるままに、やらされているようにして仕事をしている人ほど、だるそうに文句を言ってばかりいるものなのだ。
 歩いている人たちにしろ、自分の状況を変える気のない人ほど、実際に嫌に思っている気持ち以上に、嫌そうな顔をして歩いているのだろうと思う。そして、やらされている感覚でいるから、今の状況が自分にとって望ましいものではなかったとしても、自分で状況をよくしていこうとは思わなくて、むしろ、もっといい状況で自分にやらせてくれればいいのにと不満に思っていたりするのだろう。自分は運が悪かったというくらいのつもりなのかもしれない。
 そんなふうに考えられれば楽だろうなと思う。運が悪かったのなら、ただ仕方ないというだけになる。そうすれば、あとは何もかもを仕方がないというだけで片付けていける。仕事内容や仕事の中での人間関係のすべてを仕方ないと思って、仕事で疲れて他に何かをする気力が残らないことを仕方ないと思って、余暇も可処分所得も少ないことも仕方ないと思って、そんなふうにして、何もかも仕方ないと思っていけるのだろう。楽な思い方だなと思う。そして、楽な思い方をしている人の方が、かえってだるそうに嫌な顔をしているのだろう。頭の中で楽をして、そのぶん気持ちの中に嫌なものを溜め込んでいるのだ。自分のせいではないと思えるかわりに、他人から押し付けられたもので疲れさせられたように思って、頭の中が不平不満や自己憐憫だらけになって、そうやって汚い感情の形に顔が歪んでいくことになるのだろう。
 そんなふうに、やらされているという被害者意識に固執するのではなく、自分の今の状況に対して、これでいいのだと開き直ればいいのにと思う。努力できないし、他人に働きかけられなくて、何も変えられないのなら、そういう自分にはこの状況はしっくりきているのだと思えばいいのだ。
 けれど、そういう人たちも、自分はこんなものだと思っていたりはするのかもしれない。そして、自分はこんなものだと思ったうえで、自分は運が悪かったと不満に思っているのかもしれない。けれど、だとしたら、それもずいぶんみっともないことだなと思う。確かに運がよければ、周囲の人に合わせているだけで、状況が勝手に望ましいふうに進んでいったりもする。けれど、運が悪かったとしても、自分でどうにかしようとして何かしら行動していれば、望ましい状況になるかは別にしても、自分の行動の結果にある程度納得することはできたはずなのだ。それでも、そういう人たちは、むしろ、やらされること以外には何もしていないからこそ、自分は何もしていないのにまわりのせいでうまくいかない状況に追いやられたと思っていたりするのかもしれない。
 そうだとすれば、とんでもない勘違いだなと思う。そういう人たちは、何もしていないわけではなく、やらされているという雰囲気を充満させたやる気のない姿によって、周囲の人のやる気を削ぎ続けているのだ。そうやって集団の足を引っ張っているのに、自分が評価されていないのは運が悪かったからだと思ってすねているなんて、何がしたいのだろうと思う。
 やる気がないことでいいことなんて、やる気を出してみてもうまくいかないことに悲しくなるのを回避できることくらいしかないのに、みんなそんなにその悲しさを避けたいものなんだろうかと不思議に思う。
 それは昔から思ってきたことだった。周囲の人に対して、最低限やったと言えそうなところまでやってそれで終わりにしてしまうのはどうしてなんだろうと、たくさんの人の姿に思ってきた。もちろん、そうでない人もたくさんいたけれど、かといって、そういう人はとても多かった。

 前から歩いてきた女の人が、少し目を伏せたまま、俺を避けて道の端に寄っていく。自分の身体を重たそうにして歩いていて、この人も同じ感じだなと思った。疲れていて身体が気持ち悪いことに不安な気分になっているような顔をしている。もしくは、嫌なことをされていて、それに不服だというような顔にも見える。そして、自分にしか意識がいっていなくて、何も感じていないように見える。だるくて苦しい自分のことしか感じられなくなって、人のことを気にすることもできなくて、顔がほったらかしになっている。
 簡単なことなのになと思う。しんどいのは仕方ないと開き直って、顔が崩れないように少し気をつけるだけで、そこまでひどい顔にはならずにすむはずなのだ。それなのに、どうしてこんなにもたくさんの人がひどい顔をしているのだろうと思う。
 前に、女の人と話していて、朝の通勤中の人々の顔がひどいという話をしていたことがあった。そのとき、その人から、「朝は仕方ないよ。勘弁してあげて」と言われた。その女の人自体は、俺にとっては、そういうひどい顔をしない人だった。朝一緒に歩いていても、だるそうに歪められた醜い顔をすることはなかったように思う。せいぜい、なかなか抜けていかない疲労にうっすらといらついた顔をしているのを見たことがあるくらいだった。
 その人は、自分の仕事をとても大切にしていたし、毎日の仕事を楽しんでいる人だった。そして、確かな手応えを日々感じてもいたのだろうと思う。望まない疲れを押し付けられているわけではなかった。けれど、その人が朝ひとりで歩いているところは見たことがないし、ひとりで歩いているときには、それなりにぐったりと歪んだ顔をしていたのかもしれない。
 みんながひどい顔をしているというのも、通勤途中というのはだいたいひとりでいるからというのがあるのかもしれない。すでに疲れた状態で、歩きたいわけでもない場所をひとりで黙って歩いていると、気持ちが沈んでいったりもするのだろう。そうしていると、いつの間にか息が浅くなって顔がほったらかしになってしまったりするのかもしれない。息を深く吸うには、誰かに何かを話していたり、誰かが何か言ってくれているのに笑ったりだとか、そういうことが必要だったりする。あの人が疲れた朝でも汚い顔をせずに歩いていったのは、俺と一緒にいたからなのかもしれない。
 道玄坂をぐったりした顔で登っている人たちにしても、会社に着けば、別の顔に切り替えるのだろう。そして、ある程度気持ちが乗ってくれば、楽しげな雰囲気の中で、近くの人と笑顔を交わしたりして、そのときはもっとまともな顔になるのだろう。単純にそれだけのことで、あの人が言っていたように、俺が他人の朝の顔にどうこう思うのは、勘弁しなくてはいけないことにいちいち文句を言っているようなことなのかもしれない。
 けれど、会社なり他の場所では違ったとしても、この人たちは、ひとりになれば今しているようなひどい顔になってしまうような人たちでもあるのだ。ひとりでいるからといって、どれだけ疲れているからといって、それくらいのことでそんな顔をしてしまうような人たちではあるのだ。
 朝はそれがあからさまだなと思う。他人と一緒にいれば、その相手とのいつものパターンに引っ張られて、なんとなく今までどおりの顔をしていられるのだろう。そして、そういうものなしには、まともな顔をしていられないのだ。何かをしていないと、気持ちの中に何もなくなってしまうのだろう。そして、身体の中にはだるさだけがあるのだ。ただ歩いているだけでは、自分の中で間がもたない人たち。ひとりになって、疲れたなと思いながら、これからしなくてはいけないことを面倒に思うたびに、そんなふうにぐったりとした顔になってしまったりするような人たち。そんな人があまりにも多いんだなと思う。


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