道玄坂をおりる/嫌な顔をされる 7
街を歩いていたり、電車に乗っていたりして、たまにふと気が付くと、そこにいる全員が、その人に対して何も興味の持ちようがないような、いっさい見所がない人たちであるかのように見えてしまうことがある。そして、そう思って、そこにいるひとりひとりを見ていくと、誰にも何も感じなかったりしてしまう。
別に俺は何か特別なものを感じ取ろうとしているわけではなかった。電車で向かい側の席に子供が何人か座っていて、ゲームで遊んでいたり、本を読んでいたとして、その子供たちが読んだり話したりに一生懸命な感じだったり、何かに驚いていたり、わくわくしていたりする感じが伝わってくれば、楽しそうだなと思って、見ていて安心したりする。けれど、それくらいのことを、そこにいる誰にも感じられなかったりすることがあるのだ。子供にしても、そんなふうに感じられない子供も多い。都心の電車で、親と一緒に座っていたり、ひとりで本を読んでいる子供がいて、その子供が何か喋っていたり読んでいたりする顔を見ていても、感情の動きのようなものがまったく見えなかったりする。大人や老人はその確率がもっと高い。友達と一緒でも、カップルでいても、言葉を交わしていたり、携帯を見ていたりしても、何も見ていない目をしたままで、何も感じていないように見える人たちがたくさんいる。そして、本人が何も感じていないから、その人を見ていても、その人が何を感じてどんな気分なのかが伝わってこない。そんなふうに、そこにいる誰を見ても何も感じられないと、気味が悪くなってくるのだ。
最初に、みんながみんな、見るにたえなかったり、何もポジティブなものを感じない顔をしているということに気付いたのは、大学四年くらいの頃だったと思う。中野駅北口のサンモール商店街を通り抜けながら、すれ違う人の顔を片っ端から見ていったことがあった。商店街の端から端まで、何百人とすれ違ったけれど、ひとりの格好いいと思える人も、かわいいとかきれいだと思える人も、いい顔をしているなと思える人すらいなくて、それにずいぶん驚いた。
そんなふうに人の顔を見てみようとしたのは、その頃一緒に住んでいた友達と家で話していて、高円寺にはきれいな人や格好いい人をよく見かけるのに、中野ではそういう人を全然見かけないという話になったことがあったからだった。中野は中野の住民ばかり歩いていて、高円寺はそこに遊びに来る人もいるからだろうとか、高円寺にはフリーターやひとり暮らしの人が多いからだろうとか、中野で多少きれいにしようとしている感じだと、キャバクラの人っぽい格好だったりするし、そういう人にしても、高円寺で見かけるきれいな人と比べれば、たいしてきれいというほどでもないとか、そういう話をしていたのだ。
そのとき、中野ブロードウェイを出て、駅に続く商店街に入り、人の顔を見ながら、なんとなくその話を思い出して、本当にきれいな人や格好いい人がいないのか探してみようとしたのだ。駅からブロードウェイの方に歩いて行く人たちの顔をほとんど全員見たように思う。二百人とか、三百人以上の顔を見ながら歩いて、商店街を抜けたけれど、そのうちの、ひとりの男の人も格好よくなかったし、そのうちのひとりの女の人もきれいでもかわいくもなかった。
やっぱり中野にはきれいな人がいないんだな、ということを思っていたのは、商店街の半分を過ぎたくらいまでだった。人々はきれいだったり、格好よかったりしないだけではなかった。ほとんどの人たちが、ぼんやりとした感じで、どんよりとした顔をしていた。そして、その内の少なくない人数が、はっきりと醜かった。半分を過ぎたところからは、格好のいい人でなくてもいいから、いい顔だなと思えるような人はいないのかと思いながら歩いていた。リラックスした感じで、楽しそうだったり、うれしそうだったりしている人たちはいないか、そうでなくても、しっかりとした目つきをしている人はいないかと思いながら歩いた。けれど、そういう顔をひとつも見ることないまま、商店街が終わった。
その日は土日の休日で、きっと昼過ぎくらいだったのだと思う。サンモール商店街はかなり多くの人が歩いていて賑やかだった。アーケードに覆われて開放感はないし、パチンコ屋なんかもあってうるさい場所ではあった。四方を人に囲まれながらうるさくて狭い場所を歩いている時間というのは、人によってはあまり気分のいいものではなかったりするのかもしれない。だとしても、休日の昼間の商店街で誰一人としていい顔だなと感じられるような顔をしていないというのは、異様なことに思えた。そして、休日に気を抜いた感じにくったりとしているのだとしても、ほとんどの人が気持ちよさそうにリラックスしているようには見えなくて、力なくしぼんでいるくらいの感じにしか見えない顔をしていた。
中野のサンモール商店街は、気を張ってしっかりとした顔をして歩こうと思うような場所ではないのだろうけれど、だとしても、二、三百人のうちに一人も目を引く人がいないということは、自分にとってひどくショックを受けることだった。もちろん、その日のその時間にいい顔をしている人が一人もいなかったというのは、単なる偶然なのだろう。きれいな人がいないことはあっても、いい顔をしている人くらいは混じっているはずなのだ。けれど、タイミングによってはその数がゼロになってしまうというのが、すでに異常なことだろう。自分が生活している場所というのは、見ていても仕方のない人や、見るにたえない人が圧倒的に多数を占める場所なのだということを、それまで自分はわかっていなかったのだと思う。
よくある言い回しで、サラリーマンたちが同じようなスーツを着ながら、みんながみんな、死んだ魚のような目をして歩いている、というような表現がある。生きている魚にしても、哺乳類基準からすると死んでいるような目をしていたりするけれど、死んだ人間や動物の目はあまり見る機会がなく、死んだ魚の目はスーパーに行けば並んでいるから、生気がない目というか、死んでいるみたいで、何かを感じているように見えない目というのを、わかりやすくそういう言い回しで表現しているのだろう。その言い回しを、俺は小さい頃から何度も読んだり聞いたりしていたはずだった。そして、二十一歳とかで、中野の商店街でそう思うまでに、俺は生まれ育った神戸でも、東京でも、電車でも、街でも、みんながみんな見るにたえない顔をしているという景色に何度も繰り返し出くわしていたはずだった。けれど、俺はそれまで、自分が目にしていた景色に対して、確かにみんながみんな死んだ魚のような目をしていると思ったことがなかったのだ。目の前の景色がそんなものであることを当たり前のように思っていて、目の前の景色をまともに見てみようとしたことがなかったということなのだろう。まともに見てみたときに、それがどんなふうに感じるものなのかを知らないままで、俺はずっと生きてきたのだ。
今思うと、あの日そういうことを感じたのは、自分にとって大きなことだったと思う。そういう人たちが多数者なのだということを俺はわかっていなかった。その顔を見ていても、特に何も感じられないような人たち。何も見ていない目でぼんやりとしているばかりの、何事に対しても興味のなさそうな人たち。自分のせいで疲れているのだろうに、自分が疲れていることに迷惑そうにしている人たち。そういう人たちが圧倒的多数で、そういう人たち向けの商売で、世の中が成り立っているということをわかっていなかった。人がなんとなく「みんなそうなんだ」というようなことを言うときの、その「みんな」が意味しているものは、こういうものなのだということを、俺はわかっていなかったのだ。
あの頃、自分はまだ気楽な大学生で、狭い人間関係の中で好き勝手しているばかりだった。まったくといっていいほど勉強しないまま、無知を恥じもせずに思いたいことを思いたいように思っていた。一緒にいたい人とだらだらと一緒に過ごして、したいことをして、しなくてはいけないことは何もなかった。そんなふうに、何を我慢していたわけでもなかったその頃の自分は、しょぼくれた顔はしていなかっただろう。けれど、世の中という、その頃まだ自分がまともに参加していなかった場所は、みんながみんなしょぼくれている場所なのだということを、その頃の俺はまだわかっていなかったのだ。
あまり意識していなかったけれど、俺は今まで、何かにつけて、みんなと同じではダメだと思っていたように思う。まわりのみんなよりも仕事をしっかりたくさんやろうとしていたり、まわりがどうであれ、まともな格好をして、まともな顔をしていようと思っていた。そして、まわりより仕事をする量が多かったり、まわりより集中して仕事をやってくたくたになっていても、それが当たり前だと思っていた。自分はみんなよりたくさんやるものだと、当たり前のように思っていた。そして、それについてまわりから褒められたりしても、自分の方が真面目に時間をかけてやっているのだから当たり前だろうと思って、たいしてうれしくも思っていなかった。ここはしっかりした人が集まっている場所ではないからそう言われているだけだと思っていたし、しっかりした人の集団に所属できていない自分をザコだと思っているだけだった。
そんなふうに思っていたのは、そもそも俺が、多くの人と同じということを汚らわしいことのように思っていたからなのかもしれない。そして、自分がみんなと同じように見られたり、同じように扱われたりしたくなくて、むきになって一緒ではないことを主張していたのかもしれない。それは、バカにされたくないということだったのだろう。そして、今、会社ではバカにしてくる人はいないし、しょぼいやつとしても扱われていないし、軽くも扱われていない。会社でなくても、友達にしても、知り合いの知り合いだったり、お店の人であったり、どこであっても、バカにされた感じで扱われたりはしていないように思う。けれど、結局バカにされていないというだけなのかもしれない。バカにされていないという以上に、他人から見たときに自分に何があるのだろうかとは思う。そして、むしろ、たまに嫌な顔をされたりするのだ。
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