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道玄坂をおりる/嫌な顔をされる 5

 日によってまちまちとはいえ、九時間座っていたとすれば、その内の一時間とか二時間くらい、上司は何か考え事をしているようなポーズで俺の方に顔を向けていた。上司が一番奥に座って、そこから横に並んで部下が座っているから、俺の方というよりは、部下たちの方に顔を向けているということになるのだろう。上司からすれば俺以外の部下にも不満はあっただろうから、他の人を見ながら考え事をしていることもあるのだとは思う。けれど、そのほとんどは、俺を見ていたのだと思う。
 いつだったか、隣の部署の人と話していたときに、上司が俺を睨んでいたのを見たと言っていた。俺はいつも、上司を視界に入れないように、少し前のめりになって、モニターだけを見て仕事している。俺がそうしているとき、上司が俺のことをすごい顔をして睨んでいたらしい。そして、上司のその顔が気持ち悪かったと言っていた。
 上司の顔は視界に入らないようにしているけれど、身体がどちらに向けられているかは、視界に入っている範囲でわかってしまうし、視線が向けられている気配も漂ってくる。無視しているにしても、毎日何十分を何回かそうされるから、いい加減やめてほしいなと思うこともあった。けれど、やめてほしいという話をわざわざしたいとも思えないまま放置していて、そんな感じでもう一年以上が過ぎていた。いつまでもそうやって睨んでいないで、何かあるのなら何でも言ってくれればいいのになとずっと思っていた。
 上司自体は、相手を選んでとはいえ、他人にうるさくああだこうだ言う人だった。えらそうにしたがる人だったし、人を責めたがる人で、いわゆる詰めるという感じの、相手を型にはめてダメージを与えようとするような話し方をしたがる人だった。俺の隣の席の人や、パーティションを挟んだ向こう側の席の人に、そういうふうに詰める感じで話しているのが聞こえてくると、いつも嫌な気持ちになった。
 けれど、上司は俺にはそういう話し方をしてきたことがなかった。俺にもそうやって詰めにかかってくればいいのにと思う。そうすれば、俺が思うこともいろいろ言ってあげられるのになと思う。
 社内で俺に対してそんなふうに敵意を向けてくるのは上司だけだった。他の人からすれば、俺というのは、多少関わりにくいけれど仕事は放っておいてもちゃんとやってくれる人、というくらいの存在なのだと思う。あくまで相対的なものでしかないけれど、自分はまわりの人たちよりも時間当たりの作業量が多かったし、成果物の内容や、案件を進める上での段取りや資料作成なんかも、全体的にまわりからは評価されてはいた。打ち合わせとかでも、何か話す機会があるときに微妙な雰囲気になる相手は上司だけだった。
 俺と上司は、たまに会議で話す以外には、まったく会話をすることがなかった。おはようございますと、お疲れ様ですは言っているけれど、上司の方に顔は向けていても、全体に向かって言うような感じで声を出すし、それは上司の方も同じだった。週のうち三日か四日は挨拶以外に言葉を交わすことがないまま一日が終わった。そんな状態も一年以上続いているように思う。
 もともと会話の少ない職場ではあった。不干渉とことなかれ主義が徹底されていて、できるだけ仕事をしないようにするために、やらなくてはどうしようもない状態になるまで、何事にも着手しないようにするということが部署全体で不文律のようになっている職場だった。そして、その俺の上司がまったく部下と一緒に仕事をする気がない人だった。適当に分担を決めて仕事を割り振ったあとは、進捗を確認しないだけでなく、できたものの内容もたいして確認せず、何か問題が起こったときにやっと話かけてくるという、今までに関わったことのない種類のマネージャーだった。定期的な話し合いや会議をすることもなく、何かしらの報告のメールを送っても、メールで返事をするだけで、それ以上に内容を確認しようとすることもなかった。部署がまだ小さい頃に、自分ひとりでそうやって仕事をしていたのだろう。けれど、部下が必要なくらいに仕事が大きくなって、実際に部下がつくようになっても、同じように自分の中で辻褄合わせをするばかりで、人と仕事を共有するということができていなかった。
 そして、俺はそういう仕事のやり方が嫌いだった。前の会社では、ひとりで案件を受け持つことはなかったし、上司や一緒に案件を受け持っている人と話し合わなければ何の仕事も進められなかった。だから、関係が密なぶん、自分がある程度やれるようになってからは、周囲の同僚や関連会社の人たちがいろいろ相談を持ちかけてくれるようになって、自分がやってきたことを多少は他の人にフィードバックできているのも感じられていた。そして、これが何よりも大きいのだろうけれど、俺はずっと一緒にやっていた上司のことがとても好きだったから、その上司が喜んでくれるようにしっかりやりたいなという気持ちを、いつも当たり前のように持っていられた。
 今の上司はまったく部下と一緒に仕事をしようとしないし、部署内の他の人たちにしても、こちらの仕事に興味がないだけでなく、自分たちの仕事にもあまり興味がないようだった。だから、誰からも期待もされないし、干渉されることもなくて、今の会社に来てからは、まったくやりがいのようなものを感じたことがなかった。何をやっていても、結局は、できるだけ何もやりたくない人たちが、仕方なくやることになった案件を進めているだけだったし、ただできあがりさえすればいいものを、ただできあがらせたというふうにしか思えなかった。
 入社して数週間で、上司に対しても、他の部署の人たちに対しても、この人たちはそういう人たちなんだなと思った。本人が最初からそんなふうに働くことを望んでいたわけではなかったのかもしれないけれど、他の人たちに合わせたなり、部署の規定路線に合わせたなりして、こんなふうにいい加減に仕事することをよしとしている人たちで、そして、これからもそうやって楽に働いていたいと思っている人たちなんだなと思っていた。そして、しばらくは俺も自分なりに思うことを言ってみたりしていたけれど、何を言ってもたいした反応をもらえるわけでもなく、一年くらい経って、もう何を言ってみたところでバカらしいだけだなと思うようになって、何か聞かれたりするまでは何も言わないようになった。
 そういうふうに、どんどんとうんざりしていく中で、だんだんと発言しなくなって、会社にいる時間の大半をうんざりした気持ちで過ごすようになった。いかにもうんざりしている顔をわざわざしてはいなかったけれど、うんざりしていることを取り繕おうとはしていなかった。そうしているうちに、上司との関係も徐々に気まずい雰囲気になっていった。会話は白々しいものになっていって、仕事中に何か言いたそうにこちらを見ていても、声をかけてこないのであれば無視していたから、会話自体が減っていった。
 上司はいろいろと俺に言いたいことがあるのだろうなと思う。何かきっかけがあってそうなったというわけでもなく、なんとなくだんだん話をしなくなっていっただけだったから、溜まりに溜まったものがいくらでもあるのだろう。自分もこの環境に満足しているわけでもないし、こいつもこの環境ではこの環境なりに頑張るというふうに気の持ちようを変えてくれたらいいのに、とでも思っているのかもしれない。もしくは、もっと単純に、どうして部下からそんな態度をとられないといけないんだと思っているのかもしれない。
 そして、毎日何時間もそういうことを考えているのだろうに、いまだに上司は何も言ってこない。そして、何も言わないくせに、いつまでも飽きることなく俺の横顔を睨んでいる。俺がずっと無視し続けて自分の方を見ることがないことを前提にして、まわりの人に気持ち悪いと思われるような顔になるまで、気持ちを乗せて俺を睨み続けている。俺の方としては、何かあれば聞くし、言わないのならそうやってずっと睨んでいればいいと思っているだけだった。そして、考えているふりはいいから手を動かして仕事を進めろよと、そのたびに思うだけだった。
 俺にしてみれば、今の職場に自分が合わないというだけだった。楽をしたい人ばかりがいる場所は、どうしたところで自分に合わない。楽をするために自分の仕事にも他人の仕事にも興味を持とうとしない人たちの中で、むなしくならずに仕事することはできない。だから、さっさと辞めるしかないというだけだった。今、仕事にうんざりしているのだって、もう会社で何をしたいというわけでもなく、自分が辞めるのを自分で待っているような状態だからなのだと思う。
 そのうち辞めると思っていると、会社の中で起こることに対して、あまり何も思えなくなっていく。同意しかねる感じに仕事が進んでいても、この人たちがそうしていたいのなら、そうしていればいいと思ってそこで終わってしまう。求められたことを、文句を言われないようにやって、あとは辞めるまでおとなしくしているだけだと思っていて、ここにいることを楽しもうという気持ちは、もうまったく残っていなかった。嫌な気持ちになりに会社に行って、嫌な気持ちになって帰るということを繰り返しているだけだった。とりあえず三年は働こうかと思っていたけれど、二年が過ぎてから、このまま三年まで待つことも耐え難いことだなと思うようになってきた。
 けれど、三年と思っていたからといって、よくそんなところに二年もいるものだと思う。こんなふうに自分で自分をバカにするようなことをしていてはいけないなと思う。今の会社にいる限り、割り振られた仕事を黙って片付けていくだけでしかない自分の仕事ぶりに、バカだなという以外に何も思いようがないのだ。
 今の会社が取り立てて悪い会社だというわけではなかった。客はそれなりについていて、しっかりと利益を上げている会社ではあった。労働環境としても、暴力的な人もいないし、理不尽に感じるようなことをやらされることもない。競争意識は希薄だし、要求水準も低いうえに、労働時間も長くない。ここしばらくは、多少残業が多かったりするけれど、それは俺が勝手に残っているだけで、みんなは早く帰っている。残業代は全額出るから、多少残業してしまえば、ひとりで生活しているにはかなり余裕のある給料になってしまう。楽ではあるのだ。自分にしても、今の仕事に変わってから、疲労がそこまで溜まらなくて、体調がよくなった部分はあった。前の会社にいた頃のように、毎日遅くまでくたくたになりながら働きたいとは思わないし、そういう意味では希望どおりの職場ですらあった。
 自分にとっても、三年と思いながらずるずる働いていられたのは、条件面でいろいろと都合がいい会社だし、他人を傷付けるような人がいないからというのはあるのだと思う。他の人たちにしても、いろいろ不満はあるにしても、それなりに満足して働いていたりするのだろう。俺の隣の席に座っている人も、仕事をしていて楽しそうには見えないけれど、なんだかんだ満足しているのだと思う。その人は三十五歳で、入社五年以上は経っていたから充分に中堅社員といった感じだったけれど、俺からすると、かなりやる気なく働いていた。言われたことだけをやるようにし、できるだけ発言しないようにして、できるだけ仕事をしなくていいようにしている感じだった。その人は、今の会社にいられてラッキーだと思っているのだろうと思う。やる気がないから、周囲からもやる気のないやつとして見られているし、何かにつけて軽く扱われて、本人もそれには軽く嫌そうにはしている。本当はもっと仕事で充実できればいいとは思っているのだろう。けれど、今までもたいして頑張ってこなかったのだろうし、いまさら頑張り方もわからなかったりするのだろう。そして、周囲からもっと頑張って働くことを求められているわけでもないのだ。だから、辞める気もないのだろうし、自分の仕事ぶりや、他人からの扱われ方についても、そのままでいいと思っているのだろう。上司にしてもそうだけれど、その人を見ていると、この会社に入れて、楽ができてよかったねと思う。このまま会社が順調で、できるだけ長く楽ができるといいねと思う。だからなのか、自分が仕事をしていて、もっとこういうやり方にした方がいいんじゃないかというようなことを思っても、そういうことを言うのはまわりの楽をしたい人たちにとっては迷惑なのだろうと思って、言わずにおいてしまうこともよくあった。
 俺の場合はどうしようもないのだろうと思う。今の会社のメンバーがそんな感じだということを受け入れて、そのうえで前向きに自分にできることをやっていこうというような気持ちにはなれなかった。これからそういう気持ちでやっていきたいとも思っていない。今いる場所に不満なところがあるのではなく、そこにいるのが嫌だと思っているのだ。だから、辞めると生活がどうなるかわからないとか、今の会社は条件的に悪くないとか、そういうことを考えてみても、どうにもならないのだ。
 仕事でも人間関係でも何でもそうだけれど、辞めない方がいい理由というのは、損得を計算し始めればいくらでも考えられるものなのだろう。そして、辞めた方がいい理由も、損得を計算し始めればいくらでも考えられるのだろう。けれど、自分がこれを続けてたくないと思っているなら、辞めた方がいい理由も、辞めない方がいい理由も、考えても仕方がないことなのだ。そういう理由は、辞めても辞めなくてもどっちでもいいときに考えるもので、自分の気持ちがこれを続けたくないと思ってしまっているのなら、本当はそこで結論が出てしまっているのだ。自分の中にはっきりした気持ちがあるのに、それとは別のものを優先するというのは、不自然で異様なことだろう。単純に、自分が望まないことをし続けることなんて、誰も俺に要求してはいないのだ。それなのにそんなことをしているのなら、自分とはいったい何なのだろうということになる。自分も含め、誰もそれを続けることを望んでいないのに、毎日の大半の時間を自分がやりたくないと思っていることに費やしているのでは、鎖もなく主人もいないのに、ひとりで奴隷のように振舞っているようなものなのだ。自分のことを、そんな不気味なものに思いながら生きていたいわけがないだろう。
 続けたくないと思ってしまって、その気持ちがそこから動かないのなら、あとはもう辞めるしかないのだ。俺にしても、今すぐに辞めようとしているわけでもないのは、どっちでもいいと思っているからなのだろう。今の状況が嫌なだけで、今すぐに別のところでまともに仕事をしたいというわけではないのだ。そして、昨日耐えられた苦痛には、今日はもっと簡単に耐えられてしまう。もちろん、苦痛に慣れていっても、バカらしさには慣れていかないし、だんだんと耐え難い気持ちが大きくなっているようにも感じている。遅くても三年で辞めるのだろう。そう思っていることは、ここにずっといるようなバカな自分にはならないという約束のようなもので、ここでの仕事に合わせて自分が嫌な働き方をしてしまわないための支えになっていたりもするのだと思う。けれど、そう考えると、自分が今のところ毎日それなりに疲れてまでやっていることのすべてが、無駄なことのように思えてきたりもする。けれど、きっと辞めたときには、無駄だったなと感じてしまうのだろうなと思う。


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