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世舞ダンス

舞踏と音楽のセッション。
その一日の記録。
導入、朝、劇場はパニックだった。
 
a.m.10:00
 
ピアニスト小野優一は死に物狂いでピアノを弾いている。彼はこの三日、ピアノに触っていなかったのだ。それは惰性からくるものではなく、どうやら三日前、突然身内に不幸があったらしい。詳しくは語らないが、演奏を聴く限り彼の情緒は少し危うげだ。
 
その弟、プロデューサー名目の小野誠二は方々に電話をかけている。いつもの涼しげな表情は鳴りを潜め、確かな焦りの色が見えた。髭も剃っておらず、端正な顔も台無しだ。
 
発起人の一人、香川さんは制作と共に会場の整備に走り回る。折角のお洒落なワンピースも既に皺だらけだ。着替えは持ってきてるだろうか?ヘアアイロンも必要だろう。後で貸してあげよう。
 
斯く言う私は、ぼーっとしていた。身体を温めるにはまだ早い。舞台の構造は把握した。明かり合わせも終わっている。香川さんに手伝いを申し出たが断られた。何もすることが無い。散歩に出る事にした。
 
a.m.11:00
 
散歩から戻っても景色は別段変わらない。私は客席に座ってピアノを弾く優一を眺める。32歳、私より十も年上のこの男は、今何を考えているのだろう。「兎に角楽譜通りに」な気がする。彼の演奏は叙情的だ。感情がそのまま調べに乗る。私が言葉でなく身体が雄弁なコミュニケーションツールであるように、彼にとってはピアノがそうなのだろう。だからこそ、今の彼の演奏は良くない…本番は大丈夫だろうか?私が心配しても仕方がない。
 
p.m.12:00
 
昼食時だ。テイクアウトの牛丼が差し入れられた。私は米しか食べない主義なので肉は優一にあげることにした。楽屋のモニターには粛々とピアノを弾く優一が映し出される。私はステージに向かった。
 
するとそこには誠二もいた。そういえばこの兄弟が二人で話してるところを私は見たことが無い。どんな話をするのだろう?内容は聞き取れないが、少し口論してるようだった。興味深いが野暮だと思い、私は退散することにした。
 
p.m.1:00
 
リハーサルの事をゲネプロ、と言うらしい。その一時間前。私は身体を解して衣装を着る。衣装はダボついたジャンフランコフェレの黒上下に白のブラトップ。香川さんに選んで貰った今日の、そしてこれからの特別な衣装だ。メイクは邪魔だからしない。髪の毛だけ、動きが出やすいよう丁寧に櫛を通しておく。
 
私はステージの袖で瞑想することにした。心身を整える。私の舞の大半は即興だ。冒頭部のフレーズだけ一応振付てはいるが、本番それを採用するかは分からない。至極いい加減な言い方だが、その時の気分次第というのが一番しっくりくる。
 
今日、優一とは一度しか言葉を交わしていない。彼の謝罪と、私の生返事、それだけだ。彼は相当気に病んでるようだった。この三日、一度も彼と合わせていない。私はその事実に焦りを感じてはいなかった。共演といったってどうせ個人作業だ。二人の人間が、一つの舞台の上で、独立した作品を作る。その調和は観客に委ねるというのが当初のコンセプトの筈だ。出来る事以上の事は出来ない。結果はこれまでの人生が決める。
 
開演五分前、誰もいない客席にアナウンスが流れる。映画館で流れるようなやつだ。携帯触るな、喋るな、飲食するな…等々。どうでもいい。野外で踊ってきた私にとって、観客の見方を強制するのは奇妙な事のように思えた。まあ、劇場に根付いた暗黙のお約束というやつなのだろう。口を出すつもりはない。
 
開演時間になり、舞台監督がシーバーに指示を吹き込む。舞台が暗くなっていく。暗転というらしい。何だか子どもの頃に観た寺山修司の演劇を思い出した。
 
向こうの袖に優一がいた。子犬の様に震えていた。ゲネプロの開幕だ。
 
p.m.2:00
 
舞台の中央やや後方に一台のピアノがある。そこに絞られた光が当たる。そこに下手袖から優一が歩いてくる。ピアノに座り、楽譜を並べる。すると私が上手袖から現れ、舞台の中央やや前方に。『ああ…こういう登場だけで拍手とか起こったら嫌だな…』とそんなことを考えながら、私は聴座を作る。
 
割愛しよう。結果を言うとこのゲネプロは大失敗だった。基本、私の舞は全てを受け入れる。騒音も体調も天候も状況の何もかもを。しかしこのゲネプロだけは駄目だった。こんな経験は初めてだ。何一つ自由が無い苦難の1時間が過ぎた。『地獄』その言葉がしっくりくる。
 
何故か?言い訳になるが、それは優一にある。彼の演奏は『無』だ。楽譜通りに、巧みな技巧で、ミス無く演奏しきった。しかし、無だったのだ。それはそれで構わない、普段の私なら受け入れる。でもこのゲネプロだけはそれが受け入れられなかった。不快感だけが空間に充満していた。何故か?ここが劇場だからか?この状況が私個人の意思を離れて設えられたものだからか?多分違う。『優一が』そのような演奏をしたことに理由があるのだ。
 
p.m.3:00
 
そのまま舞台監督が本番前後の流れを説明し、テクニカルに問題が無かったことを判断すると、各自解散となった。私は優一と二人、舞台に残り話すことにした。
 
「どうでしたか?」
 
優一が口を開いた。どうでしたか、何が?優一の演奏が?私の踊りが?この男はあの一時間、目の前の楽譜しか見ていなかったのだ。同じ舞台の上で、私が地獄の責め苦を味わっている時に、彼はただ目の前の楽譜だけを。私は何とも言えない、怒りとも哀しみとも似つかない、どす黒い感情を感じた。これは何だろう。言語化出来ない。でも彼は何も間違ってない。私も分かっていたことだ。これは個人作業なのだ。相手に合わせる必要はない、合わせたかったら勝手に合わせればいい、なのに…。私は口を開くことが出来なかった。
 
「こうしてほしいとかあれば、何でもやります。指摘してください」
 
優一は言葉を重ねた。でも私は彼に伝えたい言葉を抽出することが出来なかった。持ち合わせていなかったのかもしれない。「大丈夫です」としか言えず、私は優一を置いて一人楽屋に戻った。
 
p.m.4:00
 
本番まで残り三時間。小野誠二が楽屋にやって来た。
「お疲れさまです。良い舞踏でしたね、流石ヨマイさん」
嫌味だろうか、慰めだろうか、何も見ていないのか、この男の感性が腐ってるのか、もはやよく分からない。
「本当、この度は我々身内の問題で大変ご迷惑をお掛けしました」
それは今言う事か?
「前評判は凄く良いですよ。批評家は皆新しい才能に出会いたく、そしてその才能を自分の筆で世間に知らしめたくてウズウズしてるんです」
つくづく打算に塗れた男だ。私は尋ねた。
「優一は大丈夫ですか?」
小野誠二は口を噤んだ。それは想定外の質問だったらしい。
「兄は…大丈夫です。ご心配をおかけして、本当に申し訳無い」
「大丈夫ならいいんです」
「あなたは大丈夫ですか?」
「大丈夫です。元々一人なので」
小野誠二は私の言葉の解釈をあぐねているようだった。
「兎に角、公演の成功をお祈りしております」
 
p.m.5:00
 
ステージで無思慮に踊っていると、客席から香川さんが声を掛けてきた。
「ヨマイさん、大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃないです」
「一服どうです?」
劇場裏、夕暮れ階段で、香川さんは煙草を燻らせた。清楚な印象の彼女が煙草を吸うとは知らなかった。
「さっきの、観ました?」
「はい、客席から少し。作業もあったので途中からでしたけど」
「どうでしたか?」
香川さんは少し思慮して、距離感を詰めた言葉を選んだ。
「痛かった。それは、あなたにたいしての冷笑的な意味じゃなくて、私が」
「はい」
「孤独を感じた。今までのあなたの踊りは、孤独に寄り添う優しさがあった。でも今日のは…あなたが孤独に見えた。孤独の当事者として…違うな、確かに今までのあなたもそうだった。ただ今日は…あなたがその孤独にひたすらに苦しんでるように見えた」
「その通りです。私は何だか、孤独に負けました。こんなのはじめてです」
「それが悪いと言ってるんじゃなくて、ただ観ていて苦しかった。ごめんなさい、偉そうに」
「いえ…今日の公演、駄目かもしれません」
「ヨマイさんも弱音吐くんだね」
「まだ未成熟なので」
「今の弱音に、私はちょっぴり救われたよ」
…そんなこともあるのか。何かが分かりそうな気がした。でもまだ分からない。
「…ありがとうございます。一先ず、やれるだけ頑張ってみます」
「うん。知ったようなことを言ってもいい?」
「どうぞ」
「本番、ヨマイさんにとってどんな不完全な踊りになっても、私は肯定するよ。最後は誰の為でもなく、自分のために楽しんでね」
 
p.m.6:00
 
本番一時間前、私は優一と今一度話すべきだと思った。でも、彼に何を話すべきなのか分からない。考えあぐねてる内に、彼の方から楽屋に来た。
 
「ヨマイさん、今少しいいですか?」
「どうぞ」
 
髪を上げ、シックな服装をした優一は、少し小野誠二に雰囲気が似ている。
 
「昼間のゲネですけど、感じた事を教えて貰えませんか。出来るだけ正直に、言葉を選ばずに」
 
いつにない真剣な顔をしていた。こんな顔も出来るのか。彼は真摯に向き合ってきている。ならば私も答えるべきだろう。
 
「苦しかったです。死んじゃいたくなるほど。孤独でした。あなたはそこにいなかった。私は一人だった。駄目でした。辛かったです。あなたの普段のピアノは好きです。でも今日のは大嫌いです」
 
言葉を選ばな過ぎたかもしれない。優一は沈黙した。かなり長い時間。そしてはっきりとした口調で断言した。
 
「俺、頑張ります。死なないでください」
「それは例えです」
「本当にすみません。俺達二人で、絶対、いい作品にしましょう」
 
随分男らしい事を言う。似合わない。その違和感に、もっと早く気付くべきだったかもしれない。私たちはその足でステージに向かった。其々の袖に分かれる際、柄にもない握手をした。彼の手は熱かった。彼の瞳は冷たかった。彼の心は、分からなかった。
 
p.m.7:00
 
優一の演奏は壮絶だった。ジェフスキ作曲『不屈の民変奏曲』心根からの叫びを表明するような激しい情念の溢れる出だしから、物語を丁寧に単純に理性の名のもとに紡いでいく。優一はリリシストだ。奏でる演奏にはいつも優一の心情が背中合わせで付きまとう。私は彼の素直な演奏が好きだった。心情豊かな演奏が豊かな想像力を掻き立てる。彼の演奏は雄弁なのだ。赴くまま、素直に、歌うように。
 
形容しえない彼の演奏に私の心は沸き立った。能動的な感性が私を突き動かす。何もない劇場の風景がまるでモンタージュのように、時に言葉が、時に景色が空間に浮かび上がる。観念が具現化し、私に纏わりつく。怒りに満ち、悲しくも、優しさに溢れた観念だ。その観念に私は踊らされる。この間僅か90秒。この90秒の間に私は確信した。優一は最高のピアニストだ。そして今日は人生において最良の一日になるだろう。
 
序奏を終え、物語は静かな語りに入っていく。繊細に、雄弁に、複雑に…その筈だった。
 
演奏は終わった。
 
……何が起こったのだろう?どうしたのか?そんな疑問が会場に充満したのが分かった。優一は僅か90秒鍵盤を弾いた後、動かなくなってしまったのだ。客席からざわめきが聞える。優一は腕をだらりと垂らし、目を見開いたまま、活動を停止している。意識はあるようだ。胸は上下している。ただ彼は、何かに絶望していたのだ。その具体性は分からない、だが私は身体のプロだ、絶望の状態は良く分かる。私は彼の状態を頗る冷静に、平坦に眺めていた。
 
意外なことに、私は動揺しなかった。何の不安も無く『ああ、優一は演奏をやめた。そして深く絶望している』そんなことを理解したまま、私は私の踊りを続けていた。観念は鳴りやまない、余韻は続いている、優一の想いが残響している。そして優一は確かに同じ舞台で、圧倒的な絶望を放ちそこにいる。それだけで、私の想像は循環する。身体に、心に、空間に。
 
次第に客席のざわめきが収まるのが分かった。観客も理解したのだ。舞台の上では確かに何かが起こっている。そしてその何かに触れに、自身は劇場に足しげく通っているのだと。
 
踊りながら私は考えていた。思考の中ではなく、身体の中で、骨髄の中で。『孤独とは何か』そして『何故私は踊るのか』
 
昼間のゲネで私は孤独に負けた。嘗てない孤独を感じて。何故か?孤独なんて慣れっこだった筈だ。むしろ私は望んで孤独を選んできた。なのに何故?今、優一は孤独を感じているのだろうか?心の底は分からない。でも確かに分かる事がある。優一は活動を停止した今も、絶望の底に座る今も、私を感じている。ならば届くはずだ。拾えるはずだ。私も優一を感じている、ということを。
 
そこで私は気付いた。何故、私は昼間嘗てない孤独を感じたのか。優一がいたからだ。『孤独とは何か』その答えは一生をかけて探していくことになるだろう。でも今、表現者として確かに分かったことがある。『本当の孤独は一人じゃ描けない』
 
何故私は一人で踊るのか?存在証明、自己満足、社会奉仕、どの言葉も正しいし間違っている。私はきっと、孤独と友達になりたかったのだ。そして人類全員が、孤独と友達になればいいと、そう思っていたのだ。「君は一人じゃない」物語によく現れるその言葉は私を救ってくれなかった。『私は一人だ』そう考える私を否定されてるように聞こえたから。『私たちは皆一人だ。何が悪い。孤独の何が悪い。私の大切な友人を、孤独を、悪く言うな!』私はずっと、そう表明したかったのだな。口下手な私が踊りを通して、一人で舞うことで伝えたかったこと。それはきっと私以外に、そして、私自身に。
 
どのくらいの時間が経っただろう?一分の様な、一日の様な、刹那の様な無限の様な時間を過ごした。観念の楽想が私に伝える。クライマックスだと。優一の90秒をもう一度、更に掘り下げて、心根の底まで、地の底まで、空間の果てまで。私の孤独の思索は結末を迎えた。終幕、おしまい、さようなら。

あとは、沈黙。
 
…私は日常の身体感覚で、客席を見やる。ぽつぽつと拍手が鳴り出した。それは徐々に熱狂を帯びて、大きな歓声になる。奇跡の様な時間だった。正直、評価なんてどうでもよかった。それでも、この拍手は、私の思索を肯定してくれてるように聞こえた。少しセンチになってるな、らしくない…そう思いながら顔を赤らめた。優一を見る。彼は…
 
p.m.8:00
 
楽屋に香川さんが来た。
「お疲れさま、凄く良かったよ。お疲れのところ悪いけど、着替えたらロビーに出て貰える?紹介してほしいって人が何人もいて」
香川さんの表情を見る限り、きっと客観的にも良かったのだろう。私は私服に着替え、表に出る。香川さんの紹介で何人もの大人に話しかけられる。批評家だったり評論家だったりプロデューサーだったり演出家だったり…名前なんて覚えてられない。名刺を貰い、儀礼的な挨拶をして、早く帰りたい、そう考えていた。
 
視界の先で小野誠二が頭を下げる姿が見えた。恐らくあちらは音楽関係の人々なのだろう。優一の演奏の評判は…耳に入る限り、辛辣なものだった。一人のプロデューサーが言った。「ヨマイちゃん、今度はちゃんとした演奏家をつけてあげよう。君の才能に見合うレヴェルの人材を」なんだこのおっさんと言おうとしたところ香川さんが体よく制してくる。どうやら私と優一の評判には雲泥の差が生まれたらしい。納得いかない。あの奇跡のような時間は、私と優一で作り上げたものなのに。何故それが分からないのだ?
 
次第にロビーは閑散としていき、関係者を集めて打ち上げ会場に向かうことになった。荷物をまとめ、劇場を出たところで、香川さんに聞いてみた。
 
「優一、大丈夫でしょうか」
「ああ…まずいだろうね。優一さんも、何より誠二さんも」
「誠二さんも?」
「もともと彼のごり押しで決まった企画だから。それに身内を推挙して…信用されてたからね。でも今回のは…うん。今向こうの編集部は大騒ぎだよ」
 
そこに渦中の小野誠二が現れた。
 
「ヨマイさん、お疲れさまです。すみません、兄は…打ち上げに参加しません。まだ家庭内のごたつきが残っており…本日は我々兄弟が本当にご迷惑をおかけしました。兄の分も謝罪致します。ヨマイさんの舞踏自体はとても素晴らしいものでした。今はそれを何よりに思います。ありがとうございました。それでは」
 
小野誠二は足早に劇場内に戻っていった。やらなきゃいけないことが山積としてるらしい。私は香川さんに先に行ってもらい、優一の楽屋に向かった。
 
p.m.9:00
 
優一はまだ衣装のまま放心している。きっと今の優一に私の言葉は届かない気がする。でも私は苦手な言葉を使って、想いを伝えることにした。
 
「優一さん、ありがとうございました。謙遜なく素晴らしい演奏でした。音が鳴った90秒も無音の59分も。私たち二人で、奇跡のような時間が生まれた。そして私は優一さんに学びました。『本当の孤独は一人じゃ描けない』ということを。そして私が舞う理由を。本当にありがとうございます」
 
優一は、涙を流していた。そこに感情は無く、身体の作業として泣いている。美しいな…私はそう思った。きっと私の言葉も彼には届いていない。今はそれでも構わない。
 
踊る事は、祈る事に似ている。本質は同じなのだ。私はこれからも祈り続ける。一人が祈り続ければ、人の間に響きがつらなり、いつか優一にもきっと届くだろう。
 
一人の祈りで、世界を変えることは可能か?可能だ。人間の強さは共振することにある。孤独も、共振することが出来るのだ。だから孤独は悪くない。孤独は人の繋がりになる。繋がった孤独は絆になる。私たちは皆一人だ。だから孤独なのだ。だからこそ孤独じゃないのだ。孤独は絆の形である。私はそんな孤独を胸に一人世に舞う。

『世舞ダンス』私は自身の舞をこう形容することにした。

この日の記録はこれでおしまい。あとは、沈黙。ありがとうございました。

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