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人の人生に介入する

幸福に輪郭があれば。
幸福を象る事が出来たなら。

窓から射す夕焼けの証明が、俺に時間を告げる。そろそろ誰もいない家に帰る時刻だ。だが帰宅する意欲が湧かない。屋上で一服する事にした。

手摺に凭れて大空を仰いだ。ハイライトの煙が茜色に溶けてゆく。都会を吹き抜けてゆく突風が煙草の炎を盛り上げる。俺はその一本を眼前に翳し、それが尽きてゆく姿をじっと眺めた。フィルターを残し、葉は塵となった。俺はそれを握りしめ、僅かな残熱を確かめる。

「もう、ただのゴミだ」ポツリと口に出たが、俺の思考はまるで動かない。屋上のドアが開き、同僚の香川陽子が姿を見せた。俺は手にしたゴミを灰皿に捨てる。

「お疲れさまです。凄い風ですね」
「そうですね、それじゃあ」
「あ、すみません、一本いいですか」
「どうぞ」

俺は彼女が咥えたハイライトに火を点ける。

「サンキュです。いやぁ、夕日綺麗ですね」
「ああ、確かに」
「こういう空模様の時って、何か昔の事思い出しません?」

彼女は俺に会話を促す。仕方なく俺はもう一本吸うことにした。

「確かに、ノスタルジーに夕焼けは付き物ですしね」
「何思い出しました?」
「あー、なんでしょう。特に何も。香川さんは」
「青春の思い出ですね。当時好きだった男の子とか…甘酸っぱいなぁ」

俺は吐き出す煙で返事する。

「今、どうでもいいって思いました?」
「まあ、はい」
「おいおい!こらこら!興味持て他人の話に」
「あの、要件があるならどうぞ」
「あ、はい、すみません。…最近大丈夫ですか?」
「大丈夫ですよ」
「あ、はい」

暫く無言で煙草を吸う時間が過ぎた。

「…いや、何か余計なお世話だと思うんですけど、近頃変ですよ」
「そうですか?」
「だらしないというか、無気力というか…勤務態度もちょっと、上司の目につくところがあるかもです」
「すみません、迷惑でしたね。気を引き締めます」
「ほら、そういう生返事とか。何かありました?」
「別段何も」
「お兄さん、お元気ですか?」
「さあ、元気なんじゃないですかね」

そこで煙草の火が消えた。

「それじゃあ」
「あ、もう一本付き合ってくれません?」
「ヤニクラしてます」
「もっとクラりましょう」

彼女は自分の懐からキャメルを取り出し、俺に咥えさせる。

「香川さん、時々強引ですよね」
「内心ウザいって思いました?」
「はい、まあ」
「傷付くなぁ」

彼女は自分の煙草に火を点け、その先端を俺の咥える煙草に押し付けた。彼女の火が、俺に移ってゆく。

「ドキドキしました?」
「正直引きました」
「え?嘘でしょ」
「距離感間違えてますよ」
「私、好きなんですよ、距離感間違えるの。人の人生に介入するの大好きなんです」
「質が悪いですね」
「自分でも思います。人の人生に影響を与え、人の人生に影響を与えられる、そんな関係を実感した時、あー、自分生きてるなぁって感じますね。先輩はどういう時、俺は生きてるって感じます?」
「僕は…」

俺は思考を停止した。

「煙草吸う時ですね」
「それ、侘しいですよ」

彼女は手摺に凭れ、都会の喧騒を見下ろす。

「あー可愛い。私にもあんな頃あったなぁ」

俺は彼女の視線の先を見やる。

「セーラー服ですよ。私ブレザーでしたけど。憧れたなぁ」

会社の前に一人の少女が立ちすくんでいた。俺はその姿に見覚えがある。俺が嘗て住んでいたマンションの隣家の住人…あの忌まわしき少女だった。

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