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【書評】『グレート・ギャッツビー』は年を重ねてから読むと本当に面白かった!

ロッシーです。

『グレート・ギャッツビー』を読みました。

この小説は、「米国出版社ラドクリフ選:20世紀最高の小説ベスト100」のうち、堂々の1位!です。

言うなれば、米国における本書の位置づけは、イギリスにおける『ハムレット』と同じといっても過言ではないでしょう。

昔、村上春樹の翻訳バージョンを読んだことがありますが、また読みたくなったので、今回は光文社古典新訳文庫バージョンを読むことにしました。

※村上春樹バージョンを読んだのはまだ20代のときでした(懐かしい・・・)。

当時読んだときには、

「ん? 何が面白いの、この小説・・・」

という感じでした。そう思った方は多いのではないでしょうか。

村上春樹は翻訳本のあとがきで、以下のように書いています。

もし「これまでの人生で巡り会ったもっとも重要な本を三冊あげろ」と言われたら、考えるまでもなく答えは決まっている。この『グレート・ギャツビー』と、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』と、レイモンド・チャンドラー『ロング・グッドバイ』である。どれも僕の人生(読書家としての人生、作家としての人生)にとっては不可欠な小説だが、どうしても一冊だけにしろと言われたら、僕はやはり迷うことなく『グレート・ギャツビー』を選ぶ。もし『グレート・ギャツビー』という作品に巡り会わなかったら、僕はたぶん今とは違う小説を書いていたのではあるまいかという気がするほどである

ちなみに、私はこの3冊全部読んでいます(自慢)。それはさておき、本書は、あの村上春樹がそこまで絶賛する「推し小説」なわけです。

しかし、当時の私にはこの小説の良さが全然分かりませんでした。

「村上春樹がそこまで絶賛する小説なんだから面白くないわけがない!」

と、期待値を上げ過ぎたのも原因かもしれません。

これは、例えて言うなら、エリック・クラプトンが好きなギターキッズが、エリック・クラプトンが尊敬するロバート・ジョンソンのCDを買って聞いてみたけれど、「ん??どこがいいの、この音楽?」という状態になるのと同じです(分かる人には分かる話です。ちなみに、これは私の実体験でもありますが笑)。


失礼。話が脱線してしまいました。

とにかく、若い頃に読んだときには、この小説の面白さがよく分からなかったのです。

しかし、改めて先日読み直したら・・・

めちゃくちゃ面白かったのです!

「具体的に何が面白かったの?」

と聞かれるとなかなか難しいのですが、この小説は色々な解釈をする余地があるので、読者それぞれが、自分にとっての面白さを見出すことができるのだと思います。

読む人によっては、以下のように、色々な捉え方ができるでしょう。

(以下、多少ネタバレもあるのでご注意ください)


例えば、

「もう過去のものとなった恋愛なのにもかかわらず、それをやり直すことができる!と信じ抜いたギャッツビーという人物の話」

かもしれませんし、

「トムとマートル、デイジーとギャッツビーのダブル不倫的な物語」

と読めるかもしれません。または、

幸福の追求にかけるひたむきな努力と情熱の価値の素晴らしさを描いた作品。」

なのかもしれません。より醒めた見方をすれば、

「アメリカンドリームがもはやオワコンになったことを描いた物語。成り上がるには、何か悪いことをしなければダメで、普通に頑張っているだけでは這い上がれない状況を描いている。」

のかもしれません。他には、

「流れ去った時間はもとに戻せないのにもかかわらず、それを戻そうと無益な試みをするギャッツビーと、現実的にふるまう富裕層達との対比が描かれている。ギャッツビーにとっての緑の灯火は、アメリカの建国の理念を象徴しており原点でもある。そこに帰ろうと思いつつも現実は難しい。それでもやはり理念を求めずにはいられない米国人的価値観を描いた作品。」

という見方もできそうです。これは米国という「建国が具体的にイメージできる国」だからこそ成り立つのかもしれません。

「私達はあの素晴らしい建国の理念を実現するのだ!現実には様々な問題や分断が起きているけれど、いつか我々はそこに到達することができる!」という思想です(日本だとこういう思想が成立するのはなかなか難しいですよね。)。

つまり、「過去はやり直せない!」と言うニックと、「過去はやり直せるさ!」というギャッツビーは、現実と理想の立場の違いを描いているわけです。

そういう思想的な面だけでなく、価値観の対立構造としても読むことができると思います。例えば、

「イーストエッグ(西海岸的価値観)とウェストエッグ(東海岸的価値観)との対立構造、つまり新興企業や成金という時間軸の短い存在と、財閥、エスタブリッシュメントや伝統的保守層(時間軸が長い)との価値観の対立が描かれている。」

なんていう捉え方もできるでしょう。実際、米国では東海岸と西海岸では、かなり文化や価値観が違いますからね。

これが横の対立構造だとすれば、縦の対立構造としては、

「何世代もの富を過去から蓄積しており、絶対にかなわない富裕層に対して、それでも階級闘争を挑んだ象徴としてのギャッツビーが、最終的には滅びる物語。(マートルの亭主ジョージはテロリズムで挑んで自爆)」

ということになるのかもしれません。階級社会の対立構造というのはこの小説の通奏低音なのかもしれませんね。

「2つの裕福な地域にはさまれた灰の谷(Wasted Landの象徴)に住み、大富豪に搾取されるのが、マートルとその亭主ジョージ(マートルは身体的に搾取されている)。彼らは下層階級の象徴でもある。マートルは上流階級の人間に最終的には殺されてしまうが、ジョージは復讐としての殺害を果たす。しかし、ジョージが殺害したのは皮肉にも搾取していた上流階級側ではなく、そのシステムに反抗&憧れていたほうのギャッツビーだった。つまり、結局上流階級はうまくやるし、負けることはないという構造を暗に示している。ギャッツビーが死んだ後に、何事ももなかったように旅行に出かけたトムとデイジーがその象徴。」

という見方もできそうです。


とにかく、これ以外にも色々な見方ができる小説ですが、若い頃にはそういう見方はできませんでした。

おそらく、「社会には見えない壁があり、それを壊すのは容易なことではない。」ということが、若い頃には見えていなかったのかもしれません。

年齢を重ねるにつれ、社会について学ぶことで、色々な見方ができるようになったともいえるでしょう。

そう考えると、自分自身がちょっと成長した気がして嬉しいですが、それは一面的には成長でもあり、かつ退廃なのかもしれませんね。

もっと年齢を重ねたら、さらに違う見方ができるのだと思うと楽しみです。


そういえば、若い頃に読んだときに、この小説の冒頭に出てくるニックの父親のセリフについて「いいこと言うな~」と思った記憶があります。

「ひとを批判したいような気持が起きた場合にはだな」と、父は言うのである。「この世の中の人がみんなおまえと同じように恵まれているわけではないということを、ちょっと思いだしてみるのだ」

しかし、今はちょっと違います。

誰かを批判をしたくなったとき、「私はその人より恵まれているから」と考えるのは、一方的な見方だと思うからです。

それって、「私はあなたよりも恵まれている」という決めつけになってしまうのではないでしょうか。言い換えれば「上から目線」です。小説でトムがニックやギャツビー達のような「成りあがり者」に向けていた視線と同様に。

私が批判される側の人間だったら、「おいおい、勝手にこっちが恵まれていない側って決めつけないでくれよ!」と思うでしょう。

そんな勝手な決めつけに基づいて批判をしないという態度をとることは果たして良いことなのか疑問です。批判をすべきときには批判をしないといけないのではないでしょうか。

今の私は、そんな風に思うのです。


昔読んだ小説を、年月がたってから読み返すと、いつも新たな発見があります。

新しい読み方ができれば、その小説はいつまでも新しい小説なのでしょう。出版年月日に関係なく。

そういう新たな発見を今後も重ねていきたいと思います。

若い頃に読書をしておいて良かったな~と改めて思いました。

皆さんも、ぜひ『グレート・ギャッツビー』を読んでみてください。

まだ読んでいない方も、ぜひチャレンジしてみてください。


最後までお読みいただきありがとうございます。

Thank you for reading! オールド・スポート!

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