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古井由吉関連の連載記事、および緩やかにつながる記事を集めました。
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#杳子

木の下に日が沈み、長い夜がはじまる

木の下に日が沈み、長い夜がはじまる

 本日、二月十八日は古井由吉(1937-2020)の命日です。

 樹の下に陽が沈み、長い夜がはじまる。机に向かい鉛筆を握る。目の前には白い紙だけがある。深い谷を想い、底にかかる圧力を軀に感じ取り、睿い耳を澄ませながら白を黒で埋めていく。

 目を瞑ると、そうやって夜明けを待つ人の背中が見えます。

 合掌。

※ヘッダーの写真はもときさんからお借りしました。
#古井由吉 #杳子 #夜明け

山の記憶、「山」の記憶

山の記憶、「山」の記憶

 今回は、川端康成の『山の音』の読書感想文です。この作品については「ひとりで聞く音」でも書いたことがあります。

◆山と「山」
 山は山ではないのに山としてまかり通っている。
 山は山とぜんぜん似ていないのに山としてまかり通っている。

 体感しやすいように書き換えると以下のようになります。

「山」は山ではないのに山としてまかり通っている。
「山」は山とぜんぜん似ていないのに山としてまかり通って

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相手の言葉に染まる(錯覚について・04)

相手の言葉に染まる(錯覚について・04)

 古井由吉の小説では相手の言葉に染まっていくという身振りがよく出てきます。相手の話を聞きながら、その話に自分を同期し、さらには同化していくのです。そうした過程が快感として描かれているのが特徴的だと言えます。

 以下は、古井由吉の『妻隠』(『杳子・妻隠』新潮文庫・所収)からの一節です。

 今回はこの引用文だけに絞って話を進めます。

 以下のリンクに、「見る「古井由吉」と「聞く「古井由吉」」につ

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鏡、時計、文字

鏡、時計、文字

「わける、はかる、わかる」への投稿後の加筆が、かなり大幅なものとなってしまったので、加筆した二つの文章を独立させ、新たな記事にしました。ふらふらして申し訳ありません。

「同一視する「自由」、同一視する「不自由」」は蓮實重彥の文章にうながされて書いたものであり、「「鏡・時計・文字」という迷路」は古井由吉の『杳子』の冒頭における杳子と「彼」の出会いの場面について書いたものです。

 私は古井由吉の作

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わける、はかる、わかる

わける、はかる、わかる

 本記事に収録した「同一視する「自由」、同一視する「不自由」」と「「鏡・時計・文字」という迷路」は、それぞれ加筆をして「鏡、時計、文字」というタイトルで新たな記事にしました。この二つの文章は以下のリンク先でお読みください。ご面倒をおかけします。申し訳ありません。(2024/02/27記)

     *

 今回の記事は、十部構成です。それぞれの文章は独立したものです。

 どの文章も愛着のあるも

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まばらにまだらに『杳子』を読む(07)

まばらにまだらに『杳子』を読む(07)


反復され変奏される身振り
 あるひとつの作品のなかで、または複数の作品のあいだで、ある言葉や身振りや光景が、わずかに移りかわりながら、くり返されることがあります。

 ともにふれる、ともぶれ、共振。
 ふれる、振れる、震れる、触れる、狂れる。ぶれる。ゆれる。
 もたれあう、つりあう、釣りあう、吊りあう、釣り合い・吊り合い。

 今回は、以上の言葉の身振りとイメージが、『杳子』という言葉で書かれた

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まばらにまだらに『杳子』を読む(08)

まばらにまだらに『杳子』を読む(08)


見て見て
『杳子』の「一」を読んでいると、目につくことがあります。くり返されているし、反復されているのです。

 たとえば「見」「目」「感」という文字が頻出します。驚くほど多いのです。まるで「見て見て」と言っているように感じられるほどです。

 そう感じたら、ちゃんと見てやらなければなりません。言葉は健気だし、いとおしいものです。

     *

「見」「目」「感」を見ていて気がつくことがあり

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まばらにまだらに『杳子』を読む(09)

まばらにまだらに『杳子』を読む(09)


「彼」にとっての石ころ
『杳子』の「一」では、たぶん「石」という言葉が出てくるのは、二箇所だけです。見落としがあったら、ごめんなさい。

 これは「一」では「岩」という言葉が頻出するのと対照的です。

 かたくなにと言いたくなるほど、「岩」が多く「石」が少ないのですから、裏に何かあるのではないかと勘ぐりたくなるのが人情ではないでしょうか。

 小説を読むことは謎解きではないにしてもです。

  

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まばらにまだらに『杳子』を読む(10)

まばらにまだらに『杳子』を読む(10)


見る「彼」
『杳子』の冒頭から、視点的人物である「彼」の「見る」身振りを書かれている順に――小説ですから出来事の起こった順に書かれているわけではありません――見ていきたいのですが、とても多いので、気になる部分だけを選んで引用してみます。

(『杳子』p.8『杳子・妻隠』新潮文庫所収、以下同じ)

 上の「認めて」(見留めて)は、登山に不可欠な「見る」でしょう。このように自然のしるし(兆)を知覚し

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まばらにまだらに『杳子』を読む(11)

まばらにまだらに『杳子』を読む(11)


始まり、途中、終わり
『杳子』では、たとえば「左」「右」「上」「下」のように方向をあらわす言葉が、くどいくらいにくり返し出てきます。そうであれば、方向にこだわってみましょう。

 小説は文字で書かれています。しかも、小説の文字列は線上に進んでいて、始まりと途中と終わりがあります。つまり、進行方向があるわけです。

 私は小説の始まりと終わりだけを読むことがよくあります。これは癖と言うべきかもしれ

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『杳子』で迷う

『杳子』で迷う


謎解き
 小説を読むさいに、何らかの見立てを設ける場合があります。見立てなんて言うと、もっともらしく響きますが、図式的な先入観をもって読書に臨むことでしょう。

 ようするに決めつけて読むわけです。

 たとえば、謎解きです。ジャンルがミステリーの小説であれば、謎解きがテーマなはずですから、「正しく」謎を設定して、「正しく」解いていけば、「正しい」解にたどり着けるでしょう。

     *

 

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古井、ブロッホ、ムージル(その2)

古井、ブロッホ、ムージル(その2)

 今回は、古井由吉が訳したロベルト・ムージルの『愛の完成』で私の気になる部分を引用し、その感想を述べます。

・「古井、ブロッホ、ムージル(その1)」

 以下は、「古井、ブロッホ、ムージル」というこの連載でもちいている図式的な見立てです。今回も、これにそって話を書き進めていきます。

     *

*聞く「古井由吉」:ぞくぞく、わくわく。声と音が身体に入ってくる。自分が溶けていく。聞いている対

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