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鏡、時計、文字

「わける、はかる、わかる」への投稿後の加筆が、かなり大幅なものとなってしまったので、加筆した二つの文章を独立させ、新たな記事にしました。ふらふらして申し訳ありません。

「同一視する「自由」、同一視する「不自由」」は蓮實重彥の文章にうながされて書いたものであり、「「鏡・時計・文字」という迷路」は古井由吉の『杳子』の冒頭における杳子と「彼」の出会いの場面について書いたものです。

 私は古井由吉の作品を読むときに、記憶の中にある蓮實重彥の文章の断片を思い浮かべる癖があるのですが、この記事におさめた二つの文章は、それぞれもう一方の書き手を思いながら書き進めたものです。

 そんなわけで切り離すことができません。

 以下は、この記事の前提となる私の考えです。

*はかる:人が苦手な行為。人は、「はかる」ための道具・器械・機械・システム(広義の「はかり」)をつくり、そうした物たちに、外部委託(外注)している。計測、計数、計算、計量、測定、観測。機械やシステムは高速かつ正確に「はかる」。誤差やエラーが起きることもある。

*わける:人が得意な行為。ヒトの歴史は「わける」の連続。分割、分離、分断、分類、分別、分解、分担、分裂、分配、分け前、身分、親分・子分。言葉と文字の基本的な身振りは「わける」。つかう道具は、縄と刃物とペン。線を引き、切り、しるす。

*わかる:人が自分は得意だと思っている行為。「はかる」と「わける」は見えるが、「わかる」は見えない。見えないから、その実態も成果も確認できない。お思いと同様に共有できない。行為や行動と言うよりも観念。一人ひとりのいだく思い込み。解釈、判断、判定、判決、理解、誤解、解脱、悟り。


◆同一視する「自由」、同一視する「不自由」


 鏡と時計と文字を前にしたとき、人は「同一視する「自由」」と「同一視する「不自由」」を同時に身に受けます。

・鏡を前にして同一視するのは、目の前に見えるものと「自分」です。
・時計を前にして同一視するのは、目の前に見えるものと「いま」です。
・文字を前にして同一視するのは、目の前に見えるものと「目の前に見えないもの」です。

 こうしたものを「同一視する「自由」」と「同一視する「不自由」」を身に受け、体感するのです。

 上の三つのフレーズでは、図式的に言うと、AとBを同一視しているわけですが、AもBも人にとって不明なものである点が重要です。不明なもの同士を似ていると感じて同一視しているわけです。

 同一視という行為(むしろ思い)が、不安定であり、いかがわしいものであることがうかがわれると思います。

 だから、「同一視する「自由」」と「同一視する「不自由」」という言い方になります。

     *

 鏡と時計と文字について考えるとき、私は以下の文章を思いださずにはいられません。

「自由」と錯覚されることで希薄に共有される「不自由」、希薄さにみあった執拗さで普遍化される「不自由」。これをここでは、「制度」と名づけることにしよう。読まれるとおり、その「制度」は、「装置」とも「物語」とも「風景」とも綴りなおすことが可能なのものだ。だが、名付けがたい「不自由」としての「制度」は、それが「制度」であるという理由で否定されるべきだと主張されているのではない。「制度」は悪だと述べられているのでもない。「装置」として、「物語」として、不断に機能している「制度」を、人が充分に怖れるに至っていないという事実だけが、何度も繰り返し反復されているだけである。人が「制度」を充分に怖れようとしないのは、「制度」が、「自由」と「不自由」との快い錯覚をあたりに煽りたてているからだという点を、あらためて思い起こそうとすること。それがこの書物の主題といえばいえよう。その意味でこの書物は、いささかも「反=制度」的たろうと目論むものではない。あらかじめ誤解の起こるのを避けるべく広言しておくが、これは、ごく「不自由」で「制度」的な書物の一つにすぎない。
(蓮實重彥「表層批評宣言にむけて」(『表層批評宣言』所収・ちくま文庫)pp.6-7)

 鏡と時計と文字を前にしたとき、人は「同一視する「自由」」と「同一視する「不自由」」だけでなく、「同一視する「制度」」と「同一視する「装置」」と「同一視する「物語」」と「同一視する「風景」」と「同一視する「反=制度」」もまた同時に身に受け、体感するのではないでしょうか。

     *

・「同一視する「自由」」と「同一視する「不自由」」を同時に身に受ける。

 自由であって、自由ではない 
 自由であって、不自由でもある

 であって、ではない
 であって、でもある

 着地させない、宙吊りにする

 以上は蓮實重彥の文章に見られる言葉の身振りでもあります。⇒「【レトリック詞】であって、でない」 & 「でありながら、ではなくなってしまう(好きな文章・01)」

 いま述べたことは、蓮實自身の書いた文章であれ、蓮實が引用した文章であれ、センテンスレベルおよび段落レベルにおいて、以上の言葉の身振りが見られるという意味ですが、これは蓮實が言葉にそうした振りを装わせ演じさせているからにほかなりません。

 蓮實重彥は言葉の振付師なのです。

 では、まとめます。

     *

・鏡を前にして同一視するのは、目の前に見えるものと「自分」です。
・世界でいちばん大切な存在である「自分」と、それと「そっくり」な像とを、同一視する「自由」と同一視する「不自由」のあいだで揺れる。

 鏡に映っている自分の像はどう見ても自分だと人は感じます。なにしろ、「そっくり」なのです。とはいうものの、自分を直接見た人はいません。となると、「そっくり」なのかどうかは誰かに教えてもらった知識であり情報なのかもしれません。

 鏡に向って表情をつくったり、ある仕草をすると「同じ」表情と仕草をしていることが、鏡に映る像が自分である有力な根拠になります。「ああ、これはやっぱり自分なのだ」と勇気づけられます。安心もします。

 でも、冷静に考えると自分は自分で鏡のこっち側にいて、鏡に映っている像は自分とは別物なのです。こういうことは考えたくないですね。神経を逆なでする話だと言えます。

 鏡に映るのは、前に見た自分の像と「いま」見ている自分の像との「ずれ」だとも言えそうです。写真や動画で見た「前の」自分の像との「ずれ」でもあるでしょう。

「ずれ」を見ているというのは、記憶の中の像と「いま」目の前に見える像との比較とも言えるでしょう。

 視覚的に確認できる自分とは「ずれ」なのかもしれません。目に見える自分とは、いま鏡に映る像と、記憶の中の自分の像との「ずれ」だと言えそうです。

 もっと簡単に言うと、自分とは刻々と更新されつつある「ずれ」なのです。

 わたくし流に言うと、この「ずれ」とは顔にほかなりません。人は何にもまして顔を見るために鏡を見るのであり、鏡に何が映っていようと、人はそこに顔を見るのです。

     *

・時計を前にして同一視するのは、目の前に見えるものと「いま」です。
・刻々と体感しつつある「いま」と、誰もが逃れることのできない時間を表示する二本の針の形(または数字の組み合わせ)とを、同一視する「自由」と同一視する「不自由」のあいだで揺れる。

 時間そのものは見えません。時計は時を刻むと言うよりも時刻を表示しているというのが正確な言い方でしょう。

 時計は時間の代理とも言えそうです。「時計は時間の別の顔」という比喩的な表現も面白いですね。

 アナログ式の時計の場合には、長針と短針の形づくる姿(顔とか表情に見えることもあります)が、さまざまな記憶を呼び起こしてくれます。その意味では、時計は記憶再生装置なのです。

 デジタル式の時計の場合には、数字の組み合わせが、さまざまな記憶を呼び起こしてくれます。どんな時計でも(日時計や砂時計や水時計や腹時計でも)、それは記憶再生装置だと言えます。

 待っているときや退屈なときに時計を何度も見たり、じっと見つめていることがあります。時間が早く進んでくれないか、あるいは逆に遅く進んでくれないかと望む心理は誰もが経験しているにちがいありません。

 時間は見えないし、得体の知れないものだけに、人間の呪術的な心理が働きやすい気もします。

 時計に限らず、鏡と文字も呪術の対象であったり道具であったようです。いまもそうであると私は考えています。人は太古から一貫して呪術の世界に生きているのです。

 時間が早く進むように感じられる、逆に遅く進んでいるように感じられる。これもあるあるではないでしょうか。時とは摩訶不思議なものですね。

 いま時(とき)という言葉をつかいましたが、時と時間はニュアンスというかイメージがかなり異なっていると私は感じます。

 時間がどこでも一様に進んでいるというのは体感しにくいです。教えてもらった知識と情報であると言えそうです。

 とはいうものの、「いま」というのも体感しにくいものです。時間は得体が知れないという結論に落ち着きそうです。

 人は時の流れ(もしも流れているものであればの話ですが)の中で、「ふれている」のではないでしょうか。

 振り子時計の振り子のように整然とぶらぶら「振れている」というよりも、小刻みにぶるぶると「震れている」気がします。「狂れている」とまでは言いませんが。

 ふれる、触れる、振れる、震れる、狂れる。

 時計は時刻を知るだけのためにあるのではない。人は時刻を知るためだけに時計を見るわけでもない。これは確かなようです。

 わたくし流に言うと、時計とは顔(懐かしくて親しい顔)なのです。時計の文字盤のことを英語で face と言うからではありませんが。

     *

・文字を前にして同一視するのは、目の前に見えるものと「目の前に見えないもの」です。
・苦労して何度もくり返して覚えた文字と、それとは似ても似つかない物や事や現象とを、同一視する「自由」と同一視する「不自由」のあいだで揺れる。

 文字は、その文字が指ししめすものとはぜんぜん似ていません。猫という文字と猫というものはぜんぜん似ていないという意味です。

 唯一の例外は、文字という文字と文字というものなのかもしれません。文字という文字と文字というものは「そっくり」だし「同じ」だと体感されます。

 文字を前にしての同一視については、「まったく同じもの」、「山川草木」、「たった一つのもの、同じもの、複製」、「【レトリック詞】海がそこにある世界」という見出しの文章でお話しします。私は文字について考えるのが好きなのです。

 ただし、どの文章でも、おもに活字の文字について語っています。書いた文字になると、筆跡や巧拙などややこしい問題がからんでくるからです。

 いずれにせよ、活字であろうと手書きの文字であろうと、わたくし流に言うと、文字もまた顔なのです。

 点と線からなる顔であり、見えているようで見えない模様であり、たどり着ける「いま、ここ」であり、たどり着けない「かなた」、つまり「どこでもない空間」「いつでもない時間」でもあります。

『白髪の唄』の作者は、そのように、屈折したいくえもの時間のゆきかいを語りでひとつに融合させながら、語られていることのあやうさにもかかわらず、すべてをなめらかに書きついでゆく。実際、テレビ画面が伝えていた火災の光景から、炎を避けて母親と逃げまどった空襲の晩へと藤里自身の連想が移り、進退きわまって飛び込むしかなかったという見知らぬ防空壕の中で、病身だった五歳の妹が命を落としたことまで語り始めるとき、それを記述する言葉は、朝の電話口での彼との対話や、「私」の日常化した午前中の散歩という状況からはゆるやかにそれて、どこでもない空間、いつでもない時間に書きつがれてゆく非人称の言葉のつらなりへと、いつのまにか変貌して行くかのように見える。その結果、「……と話した」や「……と打ち明けた」という間接的な言辞の律儀なまでの挿入にもかかわらず、語られていることがらは、読者としての「私」の間接的な記述というより、あるとき思いたった作者が揺るぎなく筆を進めて書きつけてゆく生まれての言葉のように読めてしまう。あるいは、書きつつあるその瞬間に生成されてゆくかのようなこうした言葉と出会うための口実として、作者が、あえて説話的な間接構造をつくりだしているかのようにみえさえするのだ。
(蓮實重彥「古井由吉 狂いと隔たり 『白髪の唄』を読む」『魅せられて 作家論集』(河出書房新社)所収pp.172-173・太文字は引用者による)

 上の引用文は、伝聞をもちいた、古井由吉に特徴的な語り方を的確に言葉にした文章だと思います。なお、古井の伝聞への傾倒については、「「鏡・時計・文字」という迷路」という見出しの文章で触れます。

     *

「同一化する」とは「似ている」もの同士を「合わせる」こと。ある「似ているもの」に別の「似ている」ものを、当てて掛け合わせ、さらには掛けようとはかる(たくらむ)こと。

 人が「わける」と同時に「名づける」ことで決めた「似ている」もの同士を、今度は人の決めた基準で「同じ」かどうかを「はかる」ために、人は自分のつくった「はかり」にその判断を委ねる。「はかり」に掛ける。

 その「はかられた」結果を、人は自分の都合でさらに「わける」、そして「わかった」とする。その「わかった」が「外れる」場合もあれば、「合っている」ように事が運ぶこともある。

「はかった」(「はかり」に「かけた」)結果が「合っている」かどうかに「かかっている」。

 これは「かけ」ではないか。

 そもそも人の都合でつくった「はかり」が「合っている」かどうかは、おそらく「はかっても」「わからない」。というか「はかる」「はかり」がない。

 これは「かけ」ではないか。

「はかり」に「かける」は「かけ」。宙ぶらりん。揺れるのは当たり前。

     *

  似ている、そっくり、ほぼ同じ、同じ、同一。
 わける/わけられない、はかる/はかれない、わかる/わからない。

 あてる、当てる、当たる。
 あう、会う、合う、逢う、遭う、遇う。

 あう、合う、合っている、合わせる。
 かける、掛ける、架ける、懸ける、賭ける。

 はかる、計る、図る、量る、測る、諮る、議る、謀る

     *

 鏡と時計と文字は、「あっている」かどうかを「はかる」ために人のつくった「はかり」。

「あっている」かどうかが「わけて」も「わからない」人が、人の都合に「あわせて」つくった「はかり」に「かける」のは「かけ」。

 おそらく「はかる」のではなく「はかられている」。はからずも、はかられている。たくらむつもりが、たくみにたくまれてしまっている。

 こうして安岡的「存在」の多くは、避けようとする身振りそのものによって、避けるべき対象と深く戯れてしまうというパラドックスのさなかに生きることになる。
(蓮實重彥「安岡章太郎論 風景と変容」(『「私小説」を読む』中央公論社)所収・p.176)

 はかりながら、はかられてしまっている。
 はかる振りを装いながら、はかられる振りを演じてしまう。

 蓮實重彥の言う「安岡章太郎的「存在」」とそっくりな身振りではないでしょうか。

 宙ぶらりん、宙吊り。振り子、フーコーの振り子。
 pendulum(振り子)、suspend/suspense(宙吊りにする)/サスペンス・宙ぶらりん)、pendant(ペンダント・吊りランプ)

「ふれる」のは当たり前。「わける」「わかる」とは隔たったところで、ぶらぶらふれる。

 あう、合う、合っている、合わせる。
 かける、掛ける、架ける、懸ける、賭ける。
 ふれる、触れる、振れる、震れる、狂れる。

     *

 であって、ではない
 であって、でもある

 でありながら、ではなくなってしまう
 である振りを装いながら、である振りを演じてしまう。

 以上のような言葉の身振りに満ちた小説として古井由吉の『杳子』を挙げたいと思います。

 読むことの自由の振りを装いながら、読むことの不自由の振りをはからずも演じてしまう。読む者を、そんな振りに巻きこんでしまう作品なのです。

◆「鏡・時計・文字」という迷路


 古井由吉の『杳子』の読みにくさは、通念に抗う細部に満ちていることから来る気がします。見立てで読もうとしても、見立て倒れになります。図式的な解釈を受けつけない展開をする小説なのです。

 ぎゃくに言うとさまざまな読み方ができるとも言えます。ただし、その読み方に沿わない細部を無視して強引に読み進める鈍感さが必要でしょう。

 ある場面や部分だけを見て、そこだけの印象を述べるという方法でなら、なんとか辻褄を合わせることもできそうな気もします。それでも、なんだかしっくり来ないのは私が鈍いからにちがいないと思ったことが、しきりにあります。

 そんな目にばかり遭っていると、かえって「疑心暗鬼を生ず」的な心理になり、ムキになってやたらいろいろな解釈を試みてや挫折するをくり返すものです。私の場合がそうです。

     *

 ある例を挙げます。

 女が顔をわずかにこちらに向けて、彼の立っているすこし左のあたりをぼんやりと眺め、何も見えなかったようにもとの凝視にもどった。それから、彼の影がふっと目の隅に残ったのか、女は今度はまともに彼のほうを仰ぎ、見つめるともなく、鈍いまなざしを彼の胸もとに注いだ。
(古井由吉『杳子』(『杳子・妻隠』新潮文庫)所収・pp.12-13・以下同じ)

 以上の箇所に、私は鏡を前にしたときの自分の体験を重ねないではいられません。

【※以下の「顔」という記事は、フィクション(掌編小説)とエッセイ的な散文をコラージュ(パッチワーク)的に織り込んだもので、本記事の片割れのような文章です。】

     *

 上の引用箇所の続きです。

 気がつくと、彼の足はいつのまにか女をよけて右のほうへ右のほうへと動いていた。彼の動きにつれて、女は胸の前に腕を組みかわしたまま、上半身を段々によじり起こして、彼女の背後のほうへ背後のほうへと消えようとする彼の姿を目で追った。
 女のまなざしはたえず彼の動きに遅れたり、彼のところまで届かなくなったり、彼の頭を越えて遠くひろがったりしながら従ついてきた。彼の歩みは女を右へ右へとよけながら、それでいて一途に女から遠ざかろうとせず、女を中心にゆるい弧を描いていた。そうして彼は女との距離をほとんど縮めずに、女とほぼ同じ高さのところまで降りてきて、苦しそうに軀をこちらにねじ向けている女を見やりながら、そのまま歩みを進めた。
(p.13)

「細長い軀の」(p.22)「男」が「右へ右へと」動くさまは、時計まわりに動く長針のように感じられます。そう考えると「女」は短針に思えてきます。長針と短針との類似に合わない「男」と「女」の描写の細部を無視した読みです。

     *

 さらに上の引用箇所の続きです。

 その時、彼はふと、鈍くひろがる女の視野の中を影のように移っていく自分自身の姿を思い浮べた。というよりも、その姿をまざまざと見たような気がした。
(p.13)

 ここでまた、鏡の比喩を連想してしまいます。「影」は映る「姿」でしょう。

 そう考えると、

・「女の視野の中をのように移っていく自分自身の姿を思い浮べた。」

・「女の視野の中を影(=姿・像)のように映っていく(うつっていく・写っていく・移っていく)自分自身の姿(=影・像)を思い浮べた。」

という類推が浮びます。

「かげ」の多義性と「うつる」の多義性が、この言葉(文字)の身振りにあらわれているように見えてくるのです。

 鏡と文字の類似にも思いがおよびます。鏡は、人にとって「似ている」もの同士を同一視する場です。

 いっぽう、文字は、読み書きの学習の成果として、人にとって「似ていない」にもかかわらず、「似ていない」もの同士を同一視する場だと言えます。

     *

 一センテンスを飛ばして、引用します。

 漠とした哀しみから、彼も女を見つめかえした。すると女の姿も彼のまなざしにつなぎとめられずに表情をまた失い、はっきりと目に見えていながら、まわりの岩の姿ほどに訴えてこない。彼はすでに女の姿を背後に打ち捨てて歩みさるこころになった。
(pp.13-14)

 見えているようで見えていない。そう言わざるをえません。彼は女(杳子)を見ているようで見ていないとも言えます。

 目は開いているが、視界に入っているものを認めていない(見留めていない)とか、思いの中に沈んでいるという解釈ができるかもしれません。

 私だけの感覚なのかもしれませんが、私は鏡に映った自分の顔が見えません。はっきり見えるのですが、見留めることができないのです。

 目の前にありながら、目の前に見えていながら、目に留めて、認識できないというか。たとえば、その場で目をつむると、いま見たはずの鏡の中の顔を思い浮かべるのにとても苦労するのです。

 そうした個人的な感覚と重ね合わせて読んでしまうのです。

 さらにこじつけると、自分の書いた文章が読めないというのにも似ています。

 自分で書いたにもかかわらず、そして目の前に文字と文字列としてあるにもかかわらず、自分で書いたという思いが邪魔をして、その文が頭に入ってこない感じです。

 そんな感覚と、この引用文に書かれている文字(言葉)の身振りはよく似ているような気がします。

     *

『杳子』の「一」という章では、一行空けが二箇所あります。第一の一行空けから以下に引用する部分は、谷底での二人の出会いを、視点的人物である「彼」が、後に杳子から聞いた話をまじえての伝聞によって再構成するという形で書かれています。

 つまり、「彼」の視点からの二人の出会いが、杳子の視点から「再現」されるかのような展開になるのですが、杳子の口調はいかにも頼りないものとして描かれます。

 後になって、お互いに途方に暮れると、二人はしばしばこの時のことを思い返しあった。二人はそのつどそのつど、この奇妙な出会いをきれぎれな言葉で満たしあった。
(p.15)

 次の箇所からは、上で引用した「彼」の視点からの描写を、時を経て、まるで鏡の向こうから彼の動きを見ているような描写で、読者に見せる形式を取ります。

 簡単に言うと、杳子から見た(つまり伝聞による)「彼」の動きの描写なのですが、それがいかにも頼りないものなのです。

 足音が近くまで来てんだ時、その時はじめて、杳子はハッとした。誰かが上のほうに立って、彼女の横顔をじっと見おろしている、その感じが目の隅にある。たしかにあるのだけど、それが灰色のひろがりの、いったいどの辺に立っているのか、見当がつかない、見当はつかないから顔の動かしようもわからない。
(p.15)

 杳子にも、見えているようで見えていなかったと言わざるをえません。さきほど引用した「彼」の「見えているようで見えていない」振りとそっくりなのです。

 このように、古井由吉の小説では視覚の機能不全とも言えそうな状況がよく出てきます。とはいうものの、誰もがこうした失調をかかえているのではないかという気もします。

 人は「見る・見える」という言葉で想定されるほど、じっさいには見ていないし、見えていないという意味です。「見る」には「見落とす、見損じる、見誤る、見ない、見えない」が含まれると言えばわかりやすいかもしれません。

     *

 ……そのとたん、杳子の目は男の姿をはじめて視野の中心にとらえた。男は二、三歩彼女に向ってまっすぐに近づきかけて、彼女の視線を受けてたじろぎ、段々に左のほうへれていった。男は杳子から遠ざかるでもなく、杳子に近づくでもなく、大小さまざまな岩のひしめく河原におかしな弧を描いて、ときどき目の隅でちらりちらりと彼女を見やりながら歩いていく。
(p.22)

 さきほどの「彼」の視点からの描写を、まるで鏡の向こうから眺めたような描写がつづきます。

・彼の視点:「右のほうへ
・杳子の視点:「左のほうへ

・彼の視点:「それでいて一途に女から遠ざかろうとせず、女を中心にゆるい弧を描いていた。そうして彼は女との距離をほとんど縮めずに、女とほぼ同じ高さのところまで降りてきて、苦しそうに軀をこちらにねじ向けている女を見やりながら、そのまま歩みを進めた。
・杳子の視点:「男は杳子から遠ざかるでもなく、杳子に近づくでもなく、大小さまざまな岩のひしめく河原におかしな弧を描いて、ときどき目の隅でちらりちらりと彼女を見やりながら歩いていく。

 さらに言うなら、左右が逆である描写は、鏡で時計の針の動きを見るような印象を覚えずにはいられません。

     *

《いるな》と杳子は思った。しかしいくら見つめても、男の姿は岩原に突き立った棒杭ぼうくいのように無表情で、どうしても彼女の視野の中心にいきいきと浮かび上がってこない。《いるな》という思いは何の感情も呼び起こさずに、彼女の心をすりぬけていった。杳子は疲れて目をそむけた。それから、視線がまだこちらに注がれているのを感じて、また見上げた。すると、漠とひろがる視野の中で、男の姿がついと動き出した。そのとたんに……
(p.22)

「棒杭のように」という「彼」の印象は、時計の長針のように感じられます。「彼」は痩せてぼーっとした風貌の男として描かれています。

 ここで、さきほどの「彼」の視点からの描写を再度引用します。

 漠とした哀しみから、彼も女を見つめかえした。すると女の姿も彼のまなざしにつなぎとめられずに表情をまた失い、はっきりと目に見えていながら、まわりの岩の姿ほどに訴えてこない。彼はすでに女の姿を背後に打ち捨てて歩みさるこころになった。
(pp.13-14)

 驚くべき対称が見られます。同じ場面を異なる視点から見た描写ですから身振りや動作が対称をなすのは当然ですが、心理的にも似通っています。

 ここで顕著な、見えているようで見えていない、見ているようで見ていない状態というのは、相手が見てわかる「身体的な動作」ではなく、「心の動き(心理)」なのです。

 映っている(おそらく移ってもいる)のは、心の中だと言いたいほどです。心を映す(移す)鏡に向きあっているかのような描写ではないでしょうか。

 目、視野、視線、まなざし、見つめる――こうした言葉が頻出しますが、向きあって相手の瞳に見入り、そこに映った自分の顔を目にして戸惑っている二人を連想してしまいます。

 二人は似たもの同士なのです。ここで描かれている二人は距離を置きながらも、かなり似通ったメンタリティを示している気がします。心理的に近いのです。近しいのです。

 この場面の描写は心理的な鏡のようだという感じがします。

     *

 彼が右肩をさし出すと、杳子は自然に彼の右腕につかまってきた。彼は黙ってすぐに歩き出した。
(p.24)

 彼は杳子の手を右腕からほどいた。すると、杳子は岩の間にかがみこんでしまい、うらめしそうに彼を見上げた。彼はかまわずに杳子に背を向けて登り出し、そして十メートルばかり登ったところで振り返って、あごを軽くしゃくり上げ、従いてくるよう促した。杳子は黙って頭を横に振った。だがもう一度頭を振りかけて、彼女は彼の目を見つめた。その目をとらえて、彼は鋭く見つめかえした。すると杳子はゆっくりと腰を上げ、視線をたぐり寄せるようにして登ってきた。
(p.25)

 この視線と視線の織りなす濃密な関係ドラマから、二人がともぶれ(共振)しはじめた印象を私は受けます。この小説での後の展開を知っている読み手には、共依存とも言える関係性の萌芽を見るのではないでしょうか。

 見つめる、見つめかえす。二人はたがいに見入り見入られるどころか、魅入られているかのようです。たがいに魅入られていると言うべきでしょう。

 自と他が交錯しはじめているのです。

 鏡を見てください。覗きこむという意味です。そこにはがあるはずです。そこには自分あなた=eyeという他者自分=memeが映っているはずです。 
 瞳は鏡。
 ひとみは人見。ひとみは日止視。※諸説あり。
 自分あなたeye
 他者自分meme
 ※めめ、meme(英語の「ミーム」)、même(フランス語の「メム」:……自身・同じ・同一)
(拙文「ガラスをめぐる連想と思い出(言葉は魔法・04)」より)

 距離を置きながらも、二人はまるでたがいに瞳に魅入っているかのようです。

 この小説の描写は写実ではないのです。描写されている二人をめぐる風景と状況は現実とは思えません。

     *

『杳子』の読みにくさは、視覚機能の不全とも言える失調が描写されていることから来る。そんな気がします。

 文字は見るものです。見て読むものなのです。描写とは見ているように文字が描かれていなければなりません。

 描写の対象が視覚機能の不全を起こしているとすれば、読みにくい文章になるのは必然でしょう。

・信頼できない視覚(視覚への不信感)
・信頼できない視点(小説における描写への懐疑)
・信頼できない視点的人物および語り手

 以上の三つの「信頼できない」「視(見る・見える)」が古井の小説には見られる気がします。短絡的に言うとそうなります。

 直接的な視覚的描写を避けて、伝聞、説話、翻訳された文章、古典の文章という「他者の言葉(文字)」をなぞり、それに自分の言葉(文字)を重ねる方向へと傾いていく。そんな古井の軌跡の底には「信頼できない視覚・視点・視線的人物および語り手」へのまなざしがある気がします。

 また、古井の後期の一人称の語りによる小説では、回想の描写と、伝聞による描写と、音の記憶の描写が増えてくる印象を受けます。「いま、ここ」が過去と重なったり交錯する形で語られるのです。

 そうなると描写は視覚的なようで視覚を信頼していない語りへと変質します。見えるように書かれていているようで、いざその言葉を視覚化しようとすると見えないのです。

 はっきりくっきりと文字で書かれていながら、その文字が異物に見えてしまうというか、文字の異物性が露呈してしまう感じです。

 いま私の頭の中にあるのは、以下の引用文にある太文字の部分に見える「どこでもない空間、いつでもない時間に書きつがれてゆく非人称の言葉のつらなり」というフレーズです(文脈を無視し蓮實重彥の言葉の断片を自分の都合で勝手に自分の文章の文脈でもちいているという意味です)。

『白髪の唄』の作者は、そのように、屈折したいくえもの時間のゆきかいを語りでひとつに融合させながら、語られていることのあやうさにもかかわらず、すべてをなめらかに書きついでゆく。実際、テレビ画面が伝えていた火災の光景から、炎を避けて母親と逃げまどった空襲の晩へと藤里自身の連想が移り、進退きわまって飛び込むしかなかったという見知らぬ防空壕の中で、病身だった五歳の妹が命を落としたことまで語り始めるとき、それを記述する言葉は、朝の電話口での彼との対話や、「私」の日常化した午前中の散歩という状況からはゆるやかにそれて、どこでもない空間、いつでもない時間に書きつがれてゆく非人称の言葉のつらなりへと、いつのまにか変貌して行くかのように見える。その結果、「……と話した」や「……と打ち明けた」という間接的な言辞の律儀なまでの挿入にもかかわらず、語られていることがらは、読者としての「私」の間接的な記述というより、あるとき思いたった作者が揺るぎなく筆を進めて書きつけてゆく生まれての言葉のように読めてしまう。あるいは、書きつつあるその瞬間に生成されてゆくかのようなこうした言葉と出会うための口実として、作者が、あえて説話的な間接構造をつくりだしているかのようにみえさえするのだ。
(蓮實重彥「古井由吉 狂いと隔たり 『白髪の唄』を読む」『魅せられて 作家論集』(河出書房新社)所収pp.172-173・太文字は引用者による)

 そうした古井の作風が「読みにくさ」につながるのは当然でしょう。ただし、文体の論理性は維持されていると私は思います。うんと我慢すれば、辻褄が合っているのが得心できる書かれ方をしているという意味です。

 だから、私は古井の作品を読むのです。

     *

 なお、「信頼できない視覚(視覚への不信感)」というのは、エッセイ「実体のない影――或る数学入門書を読んで」(1966年・同人誌『白描』七月号)(『言葉の呪術』(作品社)所収)と、「ムージルと虚なるもの」(河出書房版「特性のない男3」月報・昭和40年11月)(『日常の"変身"』(作品社)所収)を読んでの私の感想です。

 ここでは立ち入る余裕がありませんが、人の視覚的なイメージではすくい取れないイメージがあるという古井の思いと、確信の萌芽が感じ取れます(私の思い違いである線が濃厚ですけど)。

 視覚的にすくい取れないものを言葉(文字)にして「見る=読む」ことができるでしょうか? 文字とは視覚的なものです。

「実体のない影」は古井自身による年譜にも記述がある論考なので、古井にとってはかなり重要な文章であったと想像します。

そればかりか、もしもわれわれが投影というイメージに固執するならば、無限に拡がる二つの面が光源をはさんで対応することもあるのだから、われわれは《実体――光源――影》という途方もない関係につまずかなくてなるまい。
古井由吉「実体のない影――或る数学入門書を読んで」(『言葉の呪術』(作品社)所収・p.124)

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『杳子』の読みにくさを目の前にして、杳子は小説の比喩なのではないかとか、杳子は文字の暗喩なのではないかと言いたくなったことが何度もあります。

 けっしてたどり着けないものを目ざすいとなみ。

 向こうにあるものを目ざして、(時計の針や振り子時計の振り子のようにえんえんと)迂回して近づく振りを装い演じつづけるしかないものとしての文字――。その文字からなる小説を書くいとなみ、という意味です。

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 見ているようで見ていない。
 見えているようで見えていない。

 読むようで読んでいない。
 読めるようで読めていない。

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 であって、ではない
 であって、でもある

 でありながら、ではなくなってしまう
 である振りを装いながら、である振りを演じてしまう。

 古井由吉の『杳子』は、以上のような言葉の身振りに満ちた小説、つまり「いま、ここにある言葉」として、読む者の目の前にあります。

 読むことの自由の振りを装いながら、読むことの不自由の振りをはからずも演じてしまう。読む者を、そんな振りに巻きこんでしまう作品なのです。

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 鏡という迷路、時計という迷路、文字という迷路。

 真っ直ぐに進む視線、真っ直ぐに進む時間、始めと途中と終わりがあって直線状に進む小説。

 こんな安易な連想による見立てを笑うかのように、『杳子』という作品はつねに「いま、ここにある言葉」として「ある」のです。

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そして読むとは、もっぱらその一瞬ごとの現在を生きようとする試みにほかならない。というのも、人は、いま、ここにある言葉しか読むことができないからである。
(蓮實重彥『「私小説」を読む』(中央公論社)p.10・太文字は引用者による)

 鏡と時計と文字を目の前にする行為は「いま、ここ」と出会う体験です。

 ただし、「いま、ここ」を「まともに目にする」のは人にとって過酷な体験であるため、人は目を開いたまま「思いに沈む」ことでその体験を回避する。そんなふうに考えています。

 人は「何か」と「出会う」ことを避け、迂回し、振れつづけ、迷路で迷うことを選ぶのです。

 鏡を前にしての見えない自分の「顔」とのあやうく不穏な出会い、時計という「顔」との刻々と更新されるしかない不可解な出会い、「いま、ここ」には会えず「かなた」をのぞむしかない文字という「顔」とのいかがわしい出会いは、いずれも避けるほうが人として賢明な選択だからかもしれません。

※ヘッダーの写真はもときさんからお借りしました。

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