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古井、ブロッホ、ムージル(その2)

 今回は、古井由吉が訳したロベルト・ムージルの『愛の完成』で私の気になる部分を引用し、その感想を述べます。

「古井、ブロッホ、ムージル(その1)」

 以下は、「古井、ブロッホ、ムージル」というこの連載でもちいている図式的な見立てです。今回も、これにそって話を書き進めていきます。

     *

聞く「古井由吉」:ぞくぞく、わくわく。声と音が身体に入ってくる。自分が溶けていく。聞いている対象と自分が重なる。対象が染みこんで自分の一部と化す。世界と合体する。ヘルマン・ブロッホの影。

見る「古井由吉」:ごつごつ、ぎくしゃく。事物の姿と形がそのままはっきりと見えるままで異物に変貌する。異物感。異和感(古井の好む表記です)・違和感。自分が解体されていく、崩壊していく感覚におちいる。ロベルト・ムージルの影。


見る「ムージル」

◆引用『愛の完成』pp.7-8


 まず、『愛の完成』の冒頭を引用します。

 「ほんとうにいっしょに来てくださらないの、あなた」
 「それが行けないのだよ。わかるだろう。いいかげんに仕事にきりをつけてしまうようにしなくてはならないのだ」
 「でも、リリーが喜ぶわ……」
 「そう、そのとおりだ。だが出かけるわけにはいかないのだ」
 「あたし、あなたをおいて旅に出るなんてとても気がすすまない……」
 紅茶をつぎながら妻はそう言った。そして部屋の隅で明るい花模様の安楽椅子にもたれて煙草たばこをふかしている夫のほうを眺めやった。夕暮れだった。窓には濃い緑色の目隠しが表の通りを見おろしていた。同じ色をしたよその家々の目隠しと長い一列をなして、それらとすこしも区別のつかぬ顔つきで。暗く静かにおりた二つのまぶたのように部屋の輝きを隠し、その部屋の内では、ちょうど紅茶がくすんだ銀色のポットからカップに落ち、静かなさざめきをたててのぼり、やがてひとすじに静止して見えた、麦藁むぎわら色の軽いトパーズでできた透明なよじれた柱のように……。いくらかくぼんだポットの表面には緑色と灰色の影、それに青色と黄色の影がうつり、そこに流れ集まり淀んだかのように動かなかった。だが、妻の腕はポットからすっと伸び、そして夫を眺めやる視線は、夫とひとつの角度を、固いぎごちない角度をなした。
(ロベルト・ムージル『愛の完成』(『愛の完成・静かなヴェロニカの誘惑』所収・岩波書店)pp.7-8)

*視覚的描写

 会話以外の部分は、見事なくらい視覚でとらえた描写にあふれています。何もかもが「見る」ことでしかとらえられない物と事と現象だと言ってもかまいません。

 順に指摘すると、以下のようになります。

 動作、位置、明暗、模様、「眺めやった」、色、「目隠し」、「見おろしていた」、形、「区別のつかない」、「顔つき」、「二つの瞼」、「輝き」、「隠し」、「見えた」、「透明な」、「よじれた柱のように」、「緑色と灰色の影」、「青色と黄色の影」、「うつり」、「流れ集まり淀んだかのように」、「動かなかった」、「眺めやる視線」、「角度を」、「角度をなした」

     *

 どれもが視覚的に描写した要素であり、フレーズです。

 ぎゃくに言うと、音とにおいと触感・触覚と味覚が欠けてているのです。

「静かに」、「静かなさざめきをたてて」

 目に付くものとしては、聴覚的な描写である、これくらでしょうか。

     *

 レトリックとしては次の部分が目に付きますが、見落としがあればごめんなさい。

・「目隠しが表の通りを見おろしていた。」、「それらとすこしも区別のつかぬ顔つきで。」
 擬人的な描写。ただし、あくまでも日本語ではそうなっているという意味。

・「暗く静かにおりた二つのまぶたのように」、「麦藁《むぎわら》色の軽いトパーズでできた透明なよじれた柱のように……。」、「そこに流れ集まり淀んだかのように」
 比喩。

・上で見た「顔つきで。」と「ように……。」という句点で終わっているセンテンスは、ひょっとすると原文では一文であり、日本語の文章として読みやすくするために、古井はそれを分けて訳したのかもしれない。

 いま見た部分も視覚的な描写ですね。

*細かい描写、物語の進行

「精緻な描写」という決まり文句がありますが、まさにこの段落の描写はきわめて精密かつ緻密な描写だと思います。

「退屈だ」という感想を漏らす人がいても驚きません。私がそうだからです。「訳が分からない」という感想にも同意します。作品の冒頭で、ここまで細かく書かれるとうんざりする人がいるにちがいありません。

     *

 そこを我慢してじっくりと読みかえしてみるとしましょう。

 会話以外に物語の進行がないのに気づきます。これは困ります。小説ではストーリーが展開しないと読者はとまどってしまうからです。

 登場人物の動作とか様子とか、部屋の様子とか、そんなことはどうでもいいから、話が進行してほしいと望むのが一般的な読者(あいまいな言い方で恐縮です)の思いではないでしょうか? 私もそう思います。

 でも、そう書かれていないのです。そうなると、読まなければならない義理のない読者は読むのをやめるでしょう。

*古井由吉の筆致、ムージルの筆致

 私は古井由吉の研究者でも、ロベルト・ムージルの研究者でもありません。古井由吉がドイツ語から日本語に訳した小説を読む義理はないわけです。

 でも、読んだのです。それは古井由吉の文章が好きだからにほかなりません。ムージルには、べつだん関心はありません。

 とはいうものの、ムージルがドイツ語で書いたという文章を古井由吉が日本語で組み立て直した文章を読んでいると、古井由吉の筆遣いというか筆致というか、癖のようなものを感じます。

     *

 その筆致が、ムージルのものなのか、それとも古井のものなのかは、私には判断ができません。ドイツ語が理解できない私は、この小説の原文と古井の訳文を突きあわせて読んだわけではないのです。

 そんな訳で、言い訳になりますが、ここでは、古井由吉の訳した小説を「古井の作品」として、「古井のつくった文章」として、読んでみようと思います。

 具体的には、上で紹介したこの連載でもちいる図式のうち「見る「古井由吉」」という見立ての検討をします。

 再度ご覧ください。

見る「古井由吉」:ごつごつ、ぎくしゃく。事物の姿と形がそのままはっきりと見えるままで異物に変貌する。異物感。異和感(古井の好む表記です)・違和感。自分が解体されていく、崩壊していく感覚におちいる。ロベルト・ムージルの影。

*細かい描写のもたらす異物感と異和感(違和感)

 小説の文章を、会話と説明と描写に分けるという読み方は、広くおこなわれいます。「小説の書き方」についての文章でも、採用されている分類です。

 私はこの分け方があまり好きではありません。ひとさまに向けて書く文章では便宜上分けることがありますが、自分が楽しんで読んでいるときには考えたことがないです。

 たまに小説を書くときにも、とりたてて意識することはありません。大雑把で勘に頼る性格だからかもしれません。

 小説にはその流れに応じて細部ごとにふさわしい書き方があるというのが私の考えです。それが会話であったり、いわゆる描写であったり説明であったりするのかもしれません。

     *

 とはいえ、この文章はみなさんにお読みいただくためのものなので、いわゆる描写について思うところと感じるところを書きます。

 小説で物語の進行をとどこおらせて、長々と描写を重ねたり、細かい描写をつづけると、綴られた言葉(文字)が異物めいた印象のものに見えてくる。そんな気がします。

 まさに次のような感じがするのです。私には。

「ごつごつ、ぎくしゃく。事物の姿と形がそのままはっきりと見えるままで異物に変貌する。異物感。異和感(古井の好む表記です)・違和感。」

     *

 文字として書いてあるのですから、「事物の姿と形がそのままはっきりと見えるまま」なのです。描写が細かければ細かいほど見た目には、はっきりします。

 見た目にはっきりくっきりするのと、それがすんなりと頭や心や身体に入ってくるのとは別です。すんなり入ってこないのは、その人にとって異物だからにほかなりません(文字という見た目には、くっきりした物は、すっと入ってくることもあれば、ごつごつした異物にもなります)。

 頭も体もそれを受けつけないと言えばお分かりいただけるでしょうか。

 もし、上の引用文があなたの頭や心や体にすんなりと入ってこないとすれば、それがあなたにとって異物だからではないでしょうか。私はそう思います。

 私の言う「異物感。異和感(古井の好む表記です)・違和感。」とはそういう意味です。ようするに、「異物感」には個人差があるし、人それぞれだということです。

◆引用『愛の完成』pp.8-9

 
 次に、上の引用文の続きを読んでみましょう。

 たしかに、それは誰の目にも見えるようなひとつの角度だった。しかし、それとは違った、ほとんど質感にひとしいものを、その中に感じとれるのは、この二人だけだった。彼らにはこの角度がきわめて硬い金属でできたすじかい﹅﹅﹅﹅のようにあいだに緊張して、二人をそれぞれの椅子に抑えつけ、それでいて、互いに遠く隔たっているにもかかわらずほとんど身体に訴える一体感へと結びつけるように思われた。それは互いにのみぞおちのあたりに支点をもち、彼らはそこに圧迫を感じた。その力を受けて、彼らは目もふらず眉ひとつ動かさぬまま、椅子の背にそってぎこちなく押し上げられた。それでも、その力が身にあたるところに、彼らはこまやかな動揺を、いかにもかろやかなものを感じるのだった、まるで二人の心臓がそれぞれ小さな蝶の群れとなってひらひらとまじりあうかのように……。
 ほとんど現実のものとは思えぬほどかすかではあるが、いかにもたしかなこの感じを、かすかにふるえる軸のようにりどころにして、さらにまた、この軸の支点をなす二人を拠りどころにして、部屋全体は立っていた。あたりの物たちは息をひそめ、壁にうつる光は黄金色のレースへと凝縮した。(以下略)
(ロベルト・ムージル『愛の完成』(『愛の完成・静かなヴェロニカの誘惑』所収・岩波書店)pp.8-9)

*読みにくさ

 読みにくいですね。読むとぐったりします。書き写すと、なおさら疲れます。

 細かく読む気力がないので、なぜ読みにくいかについて私の思うところを述べます。

     *

 段落が変わったとたんに読みにくくなったのは、視覚的描写ではなくなっているからです。気になる言葉と部分を断片的に引用します。

*角度

「角度」――。この言葉は、前の段落の最後のセンテンスに出ていたものです。しかも、二回もです。

「だが、妻の腕はポットからすっと伸び、そして夫を眺めやる視線は、夫とひとつの角度を、固いぎごちない角度をなした。」

「角度」という言葉は、この段落で二回出てきますが、原文でもそうなのかは知りません。いずれにせよ、キーワードでしょう。

 この文章の中での「角度」を説明しろと言われたら、私は分かりませんとしか言いようがありません。そもそも、なぜ角度にこれだけこだわるのかが不明に感じられているのです。

 なんで? なんで角度なの? という感じなのです。

*既視感

 なんで、角度なのか? と考えていて、既視感を覚えました。なんで、右なのか? なんで、左なのか? なんで、位置なのか? じつに不可解なのです。

 なんで? なんで、そうなるの?

 古井由吉の『杳子』を読んでいて、この問いを何度つぶやいたかしれません。

『杳子』のなかで「右」と「左」が頻出することと、人や物の位置関係へのこだわりがあることについては、「『杳子』で迷う」「まばらにまだらに『杳子』を読む(11)」に詳しく述べていますので、興味のある方はぜひご覧ください。

 簡単に言うと、たとえば人と人が並んだときに右か左かが気になる、歩くときに前を行くか後ろを行くかを気にする。石や食器が積み上げてあるとその形と積み上げ方に見入る。

 階段や道や橋があると、その上り方やたどり方や渡り方について考えこんでしまう。物事をおこなう手順にこだわる。

 といった具合です。

     *

 話を整理します。

 古井由吉の訳したロベルト・ムージル作『愛の完成』のある部分に、部屋にいる登場人物の夫婦をめぐって「角度」という位置関係が、執拗に書かれているという話をしていました。

 これは、古井由吉作『杳子』における、つねに密室にいる感のある男女をめぐっての記述に「左右」という方向および位置関係が、執拗に書かれているという言葉のありよう、言葉の身振りによく似ていると私は思います。

 これを、この連載でもちいている見立てにある「ロベルト・ムージルの影」と見るかどうかは別にしてです。

 作品の一部だけを取りあげて、しかもその細部の類似を指摘しているのですから、研究者ではない私だからこそ吐ける感想でしょう。

     *

「しかし、それとは違った、ほとんど質感にひとしいものを、その中に感じとれるのは、この二人だけだった。」

 この部分も、『杳子』の「二人」を連想させます。

*解体し崩壊する感覚

 この段落では、その前の段落の視覚的な描写とは異なる表現が連続し、そのために私は揺さぶられるような気持ちにおちいります。大げさに言うと、自分がばらばらになっていくような感覚なのです。

 私の見立てにある「事物の姿と形がそのままはっきりと見えるままで異物に変貌する。」とは異質の衝撃度を感じます。

・「彼らにはこの角度がきわめて硬い金属でできたすじかい﹅﹅﹅﹅のようにあいだに緊張して、二人をそれぞれの椅子に抑えつけ、それでいて、互いに遠く隔たっているにもかかわらずほとんど身体に訴える一体感へと結びつけるように思われた。」 

 この一文にある「それでいて」と「にもかかわらず」に注目したいです。この言葉をつかえば描写というよりも説明になる気がします。

 ……であって、それでいて(それにもかかわらず)……
 Aであって、それでいて(それにもかかわらず)B

 矛盾とか相反するとか、相容れない要素を並べるときにつかう言い回しだという意味です。このような話の流れに私は惹きつけられます。

 私が古井由吉と蓮實重彥の文章が好きなのは、まさにこうした流れのセンテンスに満ちているからです。 ⇒ 「でありながら、ではなくなってしまう(好きな文章・01)」

 ただし、このような書き方がしてあれば、読むほうは混乱するでしょう。ついていくのに苦労するに決まっています。好き嫌いがはっきり分かれそうな言い回しです。私は好きです。

 話や記述がある方向へ行こうとしているときに、いきなり、「悪い、そっちじゃなくて、こっち」と言われるようなものです。意表を突く言葉の身振りと展開は書き手による意識的なものだと私は思います。

     *

・「その力を受けて、彼らは目もふらず眉ひとつ動かさぬまま、椅子の背にそってぎこちなく押し上げられた。それでも、その力が身にあたるところに、彼らはこまやかな動揺を、いかにもかろやかなものを感じるのだった、」

 このつながりの「それでも」も同じです。上の「「それでいて」と「にもかかわらず」の仲間だと言えます。

・「ほとんど現実のものとは思えぬほどかすかではあるが、いかにもたしかなこの感じを、」

 この「かすかではあるが」と「いかにもたしかな」でも、相容れない要素を並べています。

     *

 こうした矛盾した形容は、古井の文章によく見られるものです。『杳子』ではそれが顕著に見られます。

 なぜ、こう書かれるのかというと、おそらく、現実を言葉に置き換えようとするさいに齟齬をきたしているです。

・現実と言葉が噛み合わない、
・現実を言い表す決まり文句では収まりがつかないから、定型ではない言い回しをつかわざるをえなくなっている、
・紋切り型の言い回しや文の流れに異議を唱えている、
・通念にさからっている、
・現実や現実にまつわりつく表現を通常とは違う表現や流れで言い換えることで異化している、
・言語に対する深い不信感がある、

とも言えそうです。

     *

 もしそうであれば、これは読む側にある種の解体を要求するのと同じです。聞き慣れた、あるいは読み慣れた言い回しや展開に「それは違う」と言っているわけですから。

 大げさな言い方をすれば、読者に崩壊感覚を強いているのです。こんな文章にまともに付きあっていれば、疲れるに決まっています。

 途中で投げ出す人は賢明な選択をしているとまでは言いませんが、読むのを中断する人を責める気には私はなれません。

 過酷な言語体験と読書体験にいざなう作品であることは確かでしょう。

*力を感じる

 この段落のはじまりの部分に出てくる「角度」が「力」へと転じていく展開にも、『杳子』の冒頭とよく似たものを感じます。

たしかに、それは誰の目にも見えるようなひとつの角度だった。しかし、それとは違った、ほとんど質感にひとしいものを、その中に感じとれるのは、この二人だけだった。彼らにはこの角度がきわめて硬い金属でできたすじかい﹅﹅﹅﹅のようにあいだに緊張して、二人をそれぞれの椅子に抑えつけ、それでいて、互いに遠く隔たっているにもかかわらずほとんど身体に訴える一体感へと結びつけるように思われた。それは互いにのみぞおちのあたりに支点をもち、彼らはそこに圧迫を感じたその力を受けて、彼らは目もふらず眉ひとつ動かさぬまま、椅子の背にそってぎこちなく押し上げられた。それでも、その力が身にあたるところに、彼らはこまやかな動揺を、いかにもかろやかなものを感じるのだった、まるで二人の心臓がそれぞれ小さな蝶の群れとなってひらひらとまじりあうかのように……。
(太文字は引用者による)

 太文字の部分に注目すると、「角度」という位置関係が、「力」へと転じ、それを二人だけが感じ取るという展開になるのですが、そこには動きが乏しいという特徴が見られます。

 力と緊張がみなぎっているのに、そしてそれは二人以外の人には見えないのに、二人は力を感じ取り、動揺し、物理的に動くのです。

・「彼らは目もふらず眉ひとつ動かさぬまま、椅子の背にそってぎこちなく押し上げられた。」
・「その力が身にあたるところに、彼らはこまやかな動揺を、いかにもかろやかなものを感じるのだった
、」

 この動きはいかにも静寂です。

     *

 静かななかで、位置関係に力を感じ取り、動きの乏しいなかに緊張がみなぎる描写がつづく。この光景は、『杳子』のたとえば次の部分に似ています。

河原に立ったとき、彼女は谷底にのしかかる圧力を軀にじかに感じ取ったという。
(『杳子』p.16『杳子・妻隠』新潮文庫所収)

 詳しくは、物に方向性のある力を「感じ取る杳子」について論じた「まばらにまだらに『杳子』を読む(10)」「まばらにまだらに『杳子』を読む(07)」をお読み願います。杳子が方向性の力を感じ取る対象は、石、岩、積み上げられた物です。

*物が立つ、物に感じる、物が働きかけてくる

『杳子』では、杳子(後には杳子の姉も)が物とその位置関係に力を感じ、物に働きかけられる形で反応し、それにSがつられるという身振りが作品をとおして見られます。

 古井訳の『愛の完成』には、「物(たち)」が「立つ」という言い方と、「物(たち)」を主語にしたフレーズやセンテンスが目立ちます。

 無生物を主語にして「立つ」というのはドイツ語の慣用的な言い回しにも思えますが――「立つ」に相当するドイツ語の stehen には、たとえば、物が立ち止まった状態で「ある」という意味で日常的にもちいられていると習った記憶があります――いま私が目にしているのは日本語で書かれた文章です。私は古井の選んだ言葉(日本語)に付き添いたいと思っています。

ほとんど現実のものとは思えぬほどかすかではあるが、いかにもたしかなこの感じを、かすかにふるえる軸のようにりどころにして、さらにまた、この軸の支点をなす二人を拠りどころにして、部屋全体は立っていた。あたりの物たちは息をひそめ、壁にうつる光は黄金色のレースへと凝縮した。

 古井の小説だけでなくエッセイでも、物が立ち、物がそこにあるかたちで、登場人物(小説の場合です)や、古井(エッセイの場合です)に働きかけてくるという言葉の身振りが見られます。

 誤解を生じかねない言い回しなので、付け加えますが、古井の文章における物が立つとか、物が人に働きかけてくるというのは、超常現象や神秘的なエピソードのたぐいではありません。

 生きていない物(たち)に、人が一方的に共振する、つまり、人が物に勝手に振れているだけなのです。

 そこには擬人(文字どおり、生きていない物を人に擬するという意味です)があり、呪術の要素が見られますが、あくまでも人の都合による勝手なのです。

 私は以上のように古井の物に対する、ともぶれ(共振)を受けとめています。受け止め方は人それぞれです。

     *

 上でも触れましたが『杳子』では、杳子が、立っている物(たち)を見つめ、その物(たち)のありようや位置関係から、方向性のある力を感じ取る身振りがくり返されるのも興味深いです。

 私がいちばん気になるのは、ずばり「物に立たれて」という文章です。いちばん好きな古井の文章でもあります。

 物に立たれそうな、目つきをしたものだ。枯木の幹が何かに見えたのではない。ましてまばらな雪が、物の姿をうかべたわけでもない。(……)
 物に立たれたように、自分が立つ。未明の寝覚めとかぎらず、日常、くりかえされることだ。
(古井由吉「物に立たれて」(『仮往生伝試文』講談社文芸文庫)所収・p.268・丸括弧による省略は引用者による)

 引用文は、日記体の文章の一部なのですが、そこだけを抜きだすといかにも唐突で誤解を招きやすい断片です。

 ぜひ、原文でお読みいただきたいと思います。

 この文章については、あらためて記事にする予定でいます。

*ともぶれ

 ともにふれる。
 ともぶれ、共振れ、共振、共鳴、シンクロ、同期、同調。

 私が古井由吉の小説が好きな理由の一つが、ともぶれなのです。

 人と人、人と物、人と事・現象、人と世界――とのあいだで、人が相手や対象とともに「ふれる」さまが、じつにリアルに描写される。私はその筆致にふれたくて古井の作品を読むと言っても言い過ぎではありません。

 ふれる、振れる、震れる、触れる、狂れる。ぶれる。ゆれる。

(以上は、拙文「まばらにまだらに『杳子』を読む(05)」からの引用です。)

     *

 さきほど述べたように、ともぶれ(共振)は「人が相手や対象とともに「ふれる」」と言っても、あくまでも人が勝手に「ふれている」だけです。その意味では「狂れている」がもっともふさわしい表記かもしれません。

 今回見ているムージル作『愛の完成』には、ともぶれが多いどころか、ともぶれだらけだという印象を私は受けます。しかも、そのほとんどが視覚とかかわっている気がします。視覚や像が誘発する感じです。

*似ている

 似ています。似ているのです。

 今回の記事を書いていて、古井由吉の訳したロベルト・ムージル作『愛の完成』と古井由吉のある種の小説、たとえば『杳子』と『親』はよく似ていると、あらためて思いました。

*メモ

 以下は、『愛の完成』を読んでいて気になった箇所です。その多くが、古井の小説を連想させる細部です。「ああ、ここはあそこに似ている」と私が感じたフレーズとも言えます。

 私は直感と「似ている」という感覚を信じ重視する人間です。それ以外のものに頼ることはまずありません。今後、万が一この作品全体について記事を書きたいと思うことがあれば、参照するつもりです。

     *

・夕べの部屋の中にひとつの孤独が、はるばると冷えて真昼のように明るい孤独が生じた。(p.12・太文字は引用者による、以下同じ)
・五感のまわりを、ひきつづき物がかすかにさざめく渦を巻いて飛びすさっていく。(p.25)
・この途方もない鮮明さにおののくひと時の中にあって、もの言わぬ従順な物たちがいきなり二人から離れ、奇妙なものになっていくかに感じられた。物たちは薄い光の中に屹立きつりつし、まるで冒険、まるで異国のたち、まるでうつつならぬ者たち、いまにも響き消えてきそうにしながら、内側ではなにやら不可解なものの断片に満ちていた。(p.29)
・気がついてみると、彼女は幾度か男を見つめて、その顔かたちを確かめようとしていた。もはや顔かたちだけが問題であって、そのほかのことはすべて決定しているとでもいうように。だが男はいっこうに明瞭な姿をとらず、誰でもかまわなぬ一人の男、漠とした疎遠さのひろがりのままでいる。そのことを彼女は感じ取って喜んだ。(p.38・特性のない男。形だけ、姿だけ、輪郭だけ。)
明るい無邪気な顔で(p.40)
しらじらと意識した。(p.40)
・それは蒼白い、あまりにも透明なとも言えそうな意識の明るさであり、その中では何ひとつとして夢の曖昧あいまいさへ沈むことなく(p.40・明視感)
現実のかたちを巨大でおぼろげな第二の輪郭へとふくれあがらせる目に見えぬ霧の中を、(p.40)
・いかに自明にひとつの出来事がもうひとつの出来事につらなり、(p.41)
自分自身からはるか遠く離れて立っている心地がした。(p.44)
・無表情に、せ細って、物たちはゆらめく火のひろげるさむざむとした薄明かりの中に立ち、(p.45)
・pp.49-51・力と五感、忘我感、夢、現実、現在、空間、遠く
・窓の外が明るく、不安げになり、(p.53)
・戸外はひろびろと、灰色の雪あかりとばりをかけられ煙って見えた。(p.56)
・ときおり、病気が最後の峠にさしかかる直前、こんなふうに冷ややかな、無責任な鮮明さの中に身をおくことがあるものだ。(p.60)
・そして突然、またたくまに明るんだ意識の中で、彼女は自分の全生涯がこの不可解な、たえまない心変わりに支配されているのを見た。(p.61・明視・明るさのなかにある闇)
・この感情が、(……)その奥底も露わなまでに透明な光をひろげる(p.62)
・次の瞬間には、明るく煙りながら消えていくものだけがあたりにのこった。(p.69)
・そして彼女は自分がどこか遠くで明るく張りひろげられた思いの中から答えるのを耳にした、(……)(p.79)
・自分のからだがあの男のからだの下に横たわるさまを、ほそい流れのようにあらゆる細部にまで分け入る想像の鮮明さで、思い浮かべた。(p.86)
・軽い夕食をとって早めに床についた。(p.93・ラスト・夕方)
・「……狭い峠道を越えていくときに似ているわ。獣も、人間も、花も、何もかも変わってしまう。自分自身もすっかり違ってしまう。(……)でも、あたしはいよいよ色あせていくのでしょうね、人間は死んでいく、いいえ、しぼんでいくのでしょうね、樹木も鳥も獣たちも。(……)(p.96)
・そのとき、彼女は自分の肉体があらゆる嫌悪にもかかわらず快楽に満たされてくるのを身ぶるいとともに感じた。(p.97・嫌悪・杳子)

 以上です。

     *

 長い文章をここまでお読みいただき、ありがとうございました。

(つづく)

※ヘッダーの写真はもときさんからお借りしました。

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