マガジンのカバー画像

連載小説・海のなか

53
とある夏の日、少女は海の底にて美しい少年と出会う。愛と執着の境目を描く群像劇。
運営しているクリエイター

#青春

小説・海のなか(44)

小説・海のなか(44)

次の日も、その次の日も夕凪は俺を待っていた。俺はその姿を見るたび、何か責められているように感じた。そしてようやく気がついた。夕凪がいなかったあの日、自分が傷ついていたということに。そして傷を持て余し、憤っていたということに。 
 俺は夕凪を赦したかった。もともと怒るのは得意ではない。そういえば今までまともに怒ったことがない。自身の怒りにすら遅れて気がつくのだから、当然うまい怒り方もわからなければ、

もっとみる
小説・「海のなか」(43)

小説・「海のなか」(43)

***

 境内に誰もいないことを悟った時の心情をどう言い表せばいいだろう。虚しかったわけじゃない。悲しかったわけじゃない。ただ、心底がっかりしていた。今日も当然のように夕凪がそこにいると無根拠に信じていた自分自身に。
 俺たちには約束がない。確信もない。すべて分かっていて、それでも毎晩通うと決めたはずなのに。いつの間に期待していたんだろう。夕凪が現れてから、あの場を立ち去るまでの記憶は曖昧だった

もっとみる
小説・海のなか(41)

小説・海のなか(41)

***

 あの日から毎日気がつけば境内に腰を下ろしていた。なぜかそうしているだけで息をするのが楽になる。不思議な心地だった。相変わらずすることはなかったけれど、心は穏やかだった。わたしの目は気がつくと石段の方を眺めている。そこから聞こえてくるはずの足音はいつでもはっきりと蘇ってきた。息遣いまで聞こえてきそうなほど…。
 なぜここまで夕暮れを心待ちにしているのだろう。待つのは辛くなかった。なぜか彼

もっとみる
小説・「海のなか」(40)

小説・「海のなか」(40)

***

 あの夜から毎晩夕凪に会いに行った。特にこれといった心境の変化が自分の中で起こった訳ではない。ただ、気がつくと足が神社へと向かうのだった。夕凪もまた日没の境内に毎日いた。俺を待っているのか、それとも単に他に行くあてもないだけなのか。それは定かではなかったが。顔を合わせる頻度が増したからといって、幼馴染の心の内がはっきりと読めるようになるわけでもない。そうわかっているはずなのに不安や疑念に

もっとみる
小説・「海のなか」(37)

小説・「海のなか」(37)

「ありがとう…」
こぼすように呟くと、夕凪は暗がりの中じっとこちらを見つめていた。
 「なんか変?」
 戸惑って俺は半笑いになってしまう。すると、夕凪ははっとして
「いや、本当に来てくれると思ってなくて」
 と言った。どうやらお互いに相手がいるか不安に思っていたらしい。そう考えたら、どことなく嬉しくなってしまった。
 「夕凪でもそんなこと考えるんだな」 
 「え?」
 「だって周りなんか気にしない

もっとみる
小説・海のなか(34)

小説・海のなか(34)

***

もう何度目かの物思いから回復すると、あたりは薄暮だった。つい先程までははっきりと見てとれた物の輪郭が一気に崩れ薄闇へ溶けようとしている。一瞬、自分の視力ががくんと落ちたかのような錯覚に襲われた。刻一刻と世界は曖昧さの度合いを強めていく。ふと、このまま盲目になってしまえたら、と思った。知らないということがどれほど幸福なことなのか、見えていないということがどれほど幸福なことなのか、わたしには

もっとみる
小説・「海のなか」(29)

小説・「海のなか」(29)

***
夢に出てきたと思しきそこは、海の見える窓際の席だった。その夕暮れ、マキノのアイスクリーム屋を訪れたのは、夢が忘れがたかったからだった。窓辺から見える景色の真ん中には青い帯が遠く揺らめいていた。わたしの正面にはもう一人分の空席がある。あの夢では埋まっていた席。そこにいくら目を凝らしても、何か像を結ぶことはなかった。ただ、気配だけが凝集し、何かを為そうとしている。記憶の裏側を、無遠慮に引っ掻か

もっとみる
小説・「海のなか」(27)

小説・「海のなか」(27)

第八章  「夢中と現実」

瞼が上がると、「ああ、これは夢だな」という冷めた自覚が生まれた。飽きるほど繰り返した夢だった。
 夢の中で、わたしの胸は締め付けられるように苦しい。目の前には残酷なほど美しいブルーが広がっている。口から吐き出された水泡がゆらゆらと漂うのを目で追った。
 青と再会したあの日から、毎夜海に溺れる夢を見た。いつも同じ夢だ。そして、苦しい夢だった。
 夢は夜毎妙な生々しさを伴っ

もっとみる
小説・「海のなか」(26)

小説・「海のなか」(26)

***


 今宵も13年前のあの日のことを語らなければならない。忘れないために。そして、叶えるために。
 13年前、あなたはあの子を抱えてここに降り立った。あの時の光景は今でも色鮮やかだ。時を切り取り保存する術があるなら、きっとそうしたことだろう。
 あの日よりもずっと前から、私はここに存在していたはずだ。それなのに、それ以前の記憶は曖昧で灰色の濃淡が敷き詰められたように漫然としている。あの瞬

もっとみる
小説・「海のなか」(25)

小説・「海のなか」(25)

 付き合い始めたからといって、ほとんど変化はなかった。変わったことといえば、必ず待ち合わせて帰るようになったこと。それから時々手を繋ぐようになったこと。それだけだ。付き合っていると見せかけるために必要なことだった。
 行為に意味などない。そう言い聞かせていても、心が揺れてしまう時が殊更辛かった。愛花との関係が偽りだと痛感してしまって。
 時折愛花の何かもの言いたげな視線を感じたが、無視し続けた。曖

もっとみる
小説・「海のなか」(24)

小説・「海のなか」(24)

***

もう秋になり始めた頃のことだった。秋といってもまだまだ残暑は厳しい。言い訳のように頭上では鱗雲が透き通り、もう秋だと主張していた。
 放課後を俺はまた愛花と過ごしていた。この頃は帰りが一緒になると、アイスを交互に奢るのが習慣になっていた。涼しい店内に人は少ない。昔からある有名な店だが、テイクアウトして外で食べるのが主流なせいかもしれない。奥の席を選べば、話を聞かれる心配もない。俺たちに

もっとみる
小説・「海のなか」(23)

小説・「海のなか」(23)

***

例の一件から、愛花は何かと俺に話しかけてくるようになった。俺はといえば、美しい猫が俺にだけ特別なついたかのような、幼い優越感を感じて日々を過ごしていた。実際、あの日から愛花の鋼鉄の扉はほんの少しだけ開いたようだった。
 愛花は実際付き合ってみると、見た目の華やかさに反してかなり捌けた性格のようだった。何かにーーーいや、誰かに粘着したり執着することを嫌う性格。だが、一方で夢中になれるもの

もっとみる
小説・海のなか(22)

小説・海のなか(22)

第七章  「追憶」


 愛花と出会った時から、きっともう手遅れだった気がする。
 今から思えばあれが、一目惚れというやつだったのかもしれない。もう昔すぎてよくは覚えてない。けれど、いくつかの場面が断片的に焼き付いている。特に、中一のあの瞬間のことだけはやけに鮮明で今でもくっきりと思い出すことができた。愛花を初めて目にした瞬間の印象。
 あいつの笑ったうっすらと赤い口元とか。綺麗な、そのくせ人を

もっとみる
小説・「海のなか」(21)

小説・「海のなか」(21)

***


 座っているのにそれより深く、落ちて行くような感覚だった。わたしを支えるものが消えてしまった。
 図書室はいつも静かだ。わたしの知る人は、誰も来ない。だからここにいる。いつだってそうだった。わたしの中では人恋しさと孤独への欲求が並び立っている。誰にも必要とされていないから。窓から見下ろすと、遥か下に空虚な校庭が広がっている。その空白さえもが胸をざわつかせた。顔を上げると、微かに海の端

もっとみる