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小説・「海のなか」(26)

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 今宵も13年前のあの日のことを語らなければならない。忘れないために。そして、叶えるために。
 13年前、あなたはあの子を抱えてここに降り立った。あの時の光景は今でも色鮮やかだ。時を切り取り保存する術があるなら、きっとそうしたことだろう。
 あの日よりもずっと前から、私はここに存在していたはずだ。それなのに、それ以前の記憶は曖昧で灰色の濃淡が敷き詰められたように漫然としている。あの瞬間から私の存在が本当の意味で肉体を持つようになったからかもしれない。
 あの子を抱きしめる、あの人の腕。優しく嫋やかな曲線。それを見た瞬間内部で何かが弾けた。あの時芽生えた感情を当時は理解できなかった。  
 けれど、今ならわかる。
 ーーーあれは、激しい羨望。
 わかった時には遅すぎた。何もかも全て。あなたもあの子もとうに「いなくなって」しまった後だった。あの日から私は待ち焦がれるようになったのだ。幻のような訪れを。
 様々なものを長い時の中で喪った。何を喪ったかも分からないほど多くのものを。あの日から私の持ち物はあの日の記憶と感情。ただそれだけ。あの日が今の私を構成する唯一の要素になった。全てを塗り替えてしまったのだ。あの子と再会する、その時までは。
 ずっと胸が疼いている。きっと何かが欠けているからだろう。それが何かは知れないが。
 同じ欠落の気配はあの子からもした。再会した時、一眼で分かった。あの子は私と同じだと。再会した時、気がつくとわたしは目覚めたあの子に微笑みかけていた。まるで空いた穴を埋めるように。その時、過去と現在が重なり合った。そうして私は決意したのだ。もう二度と間違えない。必ず手に入れてやる。
 わたしの欲しいものをあの子は持っているはずだ。彼女は忘れているだけ。ーーーあとは思い出すだけ。それこそが私の望みを成就させてくれるはずだ。


『はやくきて、夕凪』



第七章 おわり。
海のなか(27)へとつづく。

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