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小説・「海のなか」(21)

***


 座っているのにそれより深く、落ちて行くような感覚だった。わたしを支えるものが消えてしまった。
 図書室はいつも静かだ。わたしの知る人は、誰も来ない。だからここにいる。いつだってそうだった。わたしの中では人恋しさと孤独への欲求が並び立っている。誰にも必要とされていないから。窓から見下ろすと、遥か下に空虚な校庭が広がっている。その空白さえもが胸をざわつかせた。顔を上げると、微かに海の端が見える。凝らせば凝らすほど目を開けていられなかった。きっと強い風で渇いてしまうからだ。海から視線を逸らすとまた、身体は安定を失いゆらゆらと崩れ始める。
 一体このまま、どこまで落ちて行くのだろう。   
 ーーーここには底がないのだ。
 青と出会ってからの毎日は寝ていても醒めていても、夢の中にいるようだった。全てを曖昧に溶かしてしまう、海の底。あの場所にわたしはもうたどり着けない。青は変わらなかった。あの場所も優しいまま。ただ、わたしだけが変わってしまった。
 人は生きている限り、移ろうものだ。
 けれど、青は違う。変わらない。
 彼だけは不変だ。
 青の微笑みも美しさも冷たさも。何もかも。時が止まったようにずっと同じ。だからこそ信じられた。心から安らいでいられた。それなのに。
 ーーーまるで生きていないみたいだ、と最近は感じてしまう。
 左足に手を沿わせる。そこには溺れたあの日からただ一つの証が刻まれていた。青の実在を示す痣。ゾッとするほど深い色だ。鬱血したような痕なのに、ちっとも痛くない。あの日からずっと。この色だけでわたしを縛っている。このまま、海に行かないのなら青との繋がりは痣一つだけ。そう考えるだけで恐れが満ちて息が出来なくなった。
 青は言った。
「わたしに会いたかった」
「わたしを待っていた」
 それなのに、いつまで経ってもその理由がわからない。理由が欲しかった。わたしがあの場所にいてもいい理由。わたしがあの場所を手に入れるに足る理由が。
 寄る方を求めるように窓枠に頭を預けて視線を彷徨わせた。見える景色は反射されて、わたしの中に入ってこない。光に満ちた外界が落とした影で内部は仄暗く満たされている。
 行き止まりだった。青とわたしの関係は。青はわたしに理由のない優しさを与え続ける。わたしは奪い続ける。わたしから青に与えられるものは何もない。いつしかそれに耐えられなくなった。なんの代償もなく与えられるものなんて、信じない。わたしにとって無償で信じられるものはこの世から消えて久しいのだから。
だからこそ、青に会うたび問おうとした。いくつもの「なぜ」を。理由を知って安心したかった。できないまま、秋になってしまった。ーーー本当の意味では青に心を許していない。これまでの生き方がそれを許さなかった。何も信じなければ、裏切られることもない。関わらなければ失うこともない。今更この生き方を、変えられない。
 でも。本当はもう手遅れなのかもしれない。青にわたしは期待してしまっている。欠けているものを埋めてくれるかもしれないと。彼に会わないことで、ここまで喪失を感じている。
 わたしは執着しているみたいだ。何かに溺れることに。あの母のように。
 あの色鮮やかな世界はもう青に関わることでしか得ることが出来ない。こうしている間にも青に二度と会えないかもしれないと怯えている。
 だからこそ、今は会いたくない。
 それは呪いのような言葉だった。わたしを強くする呪い。耳元では、わたしから遠ざかる青の足音が聞こえる気がした。
 その時、背後で小さな物音がした。
 ーーー青が、去ってしまう。
 「ーーっまって!」
 それは絶叫に近い響きだった。振り向きざま伸ばした手は届かない。視線の先にある腕は褐色に焼けていて、青には似ても似つかない。強い色が目の奥まで染み込んでわたしの正気を呼び戻した。
 目の前にいるのは少女だった。妹尾愛花。
 わかった途端、顔が燃え上がるように熱くなった。羞恥と失望と安堵に境目なくかき乱される。
気がつくと、わたしは言い訳のように呟いていた。
「シフトだから、いくね」
 妹尾さんの横を通り過ぎて、図書室の外に出るまで息も出来なかった。知らないうちに足は駆け出していた。一呼吸でもしようものなら、何かが溢れてしまう。そんな予感に急かされながら。
 どこをどう走ったのか、覚えていない。誰もいない階段の踊り場で足を止めて肩で息をすると、同時に大粒の涙が溢れた。理由がわからない。泣いているわたしにさえ。
 この涙の理由は、なんだ?
 とにかく情けなくて、やるせなくて目が痛くなるまで泣いた。
 この涙と違って、青の優しさに理由があることを、願いながら。


***

第六章おわり。
海のなか(22)へとつづく。

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