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小説・「海のなか」(27)

第八章  「夢中と現実」

瞼が上がると、「ああ、これは夢だな」という冷めた自覚が生まれた。飽きるほど繰り返した夢だった。
 夢の中で、わたしの胸は締め付けられるように苦しい。目の前には残酷なほど美しいブルーが広がっている。口から吐き出された水泡がゆらゆらと漂うのを目で追った。
 青と再会したあの日から、毎夜海に溺れる夢を見た。いつも同じ夢だ。そして、苦しい夢だった。
 夢は夜毎妙な生々しさを伴ってわたしの中に舞い降りる。現実の海底で得られる青の優しさが現実味を欠けば欠くほど、夢は追い立てるように色濃く細密に迫ってきた。
 ふと、水中の息苦しさも忘れて視線を横へ向けた。ーーーいや、向けようとした。何かに頬が触れてそれ以上顔を動かすことができない。触れたそこからは確かな体温と拍動を感じた。青にはないものだ。気がつくと、誰かの腕でわたしは力一杯抱きしめられているのだった。苦しいのはそのためだ。よく目を凝らすと、身体を包むその手には深い皺が刻まれ、幾分骨張っている。手の甲には血管の青白い跡が見える年老いた腕だった。
 一目見て、この腕をわたしは知っている、と思った。懐かしい腕だ。
 けれど、思い出せない。
 『思い出してはいけない』
 頭の中で唱える声した。
 ああ。これ以上はいけない。行っては、いけない。
 『絶対に手を離しません』
 幼児(おさなご)の声がして、そこで意識は暗転した。


***


 目覚めると、夢そっくりに息があぶくとなって昇っていく。海面は暗い。ここへ来た時は夕暮れだったのに、もうすっかり夜になったようだ。額に載せられた冷たい手に右手を重ねると、声が聞こえた。
 「起きたのかい」
 わたしは重ねた手の滑らかな肌触りを味わいながら、またゆるりと瞼を降ろした。今は気怠いこの瞬間を味わっていたい。青の冷たい膝の上でゆっくりと寝返りを打った。
 「うなされていたみたいだね」
 青は答えを急かすことなく、指でわたしの髪を梳いている。再会した時からそうだった。青はわたしの髪に触れたがった。まるで家族が娘にそうしてやるように。
 頭を触られていると、気持ちよくていつも眠ってしまう。今や、この場所ほど深く眠れる場所をわたしは他に知らない。青の手に触れている時だけは安心できた。彼の優しさを確かなものだと錯覚できたから。
 「夢を見てたの……」
 発した声は広がって、どこかへと吸い込まれていった。
 「どんな夢?」
 「あまり、思い出せないの。でもこんな海のなかだった気がする。とっても苦しくて、それで…」
 後の言葉は続かなかった。目覚めた瞬間にはたしかに覚えていたものは、知らぬ間に闇に紛れてしまった。後には「夢を見た」ということと海の青だけが残って、記憶の上澄みを漂っていた。
 「それで?」
 青はわたしの顔を覗き込んで先を促した。見上げると、まともに目があった。この人はあの夢に出てきたのだろうか……。
 「わからない。思い出せない。いつも」
 言いながら、思い出せなくていいような気もした。夢の余韻に怯えの気配を感じたから。
 「いつも?何度も見る夢なのか」
 「同じ夢を見たってことだけ、覚えてる」
 「ねえ、夕凪」
 「なあに?」
 仰向けで見上げた青の前髪は海流に弄ばれてふわふわと遊んでいる。その下の目は今まで見たことのない、光を湛えてわたしを見つめていた。
 「夢を忘れない方法を知っているかい」
 「夢を……忘れない」
 おうむ返しするわたしの輪郭に青は優しく両手を添えた。それだけでもう身動きが出来なくなった。見据える瞳はまだ妖しい光を宿したままだ。
 「夢日記をつけるんだ」
 青は囁いた。
 妖しさに魅せられて呼吸もできない。気がつくとわたしはまた、おうむ返しをしている。
 「夢日記……」
 「そう、夢日記。枕元に紙と書くものを置いておくといい。目覚めてすぐに、書けるように」
 青はそこまで言うと、またわたしの頬をそっと撫ぜた。触れられたそこから総毛立つような感覚に襲われ、わたしは目を見開いて硬直する他なかった。
 「繰り返せば覚えていられるようになるよ。全て思い出したら語っておくれ。待っているから。何度も見るってことは、きっと君が覚えておくべき夢なんだ」
 歌うように語りかけながら、繰り返し繰り返し青の手は私の額を往復する。その動きに合わせて、また瞼は重くなっていった。
 あの日、どうやって帰ったのかをわたしはどうしても思い出せない。ただ一つ、思うことがある。


 ーーー青。
 あの人はやはり、私にとって「恐ろしい」ものなのだろうか。と。
 そんなふうに、ふと、初めて出会ったあの日を思い出してしまうのだ。


***


海のなか(28)へとつづく。

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