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小説・「海のなか」(25)


 付き合い始めたからといって、ほとんど変化はなかった。変わったことといえば、必ず待ち合わせて帰るようになったこと。それから時々手を繋ぐようになったこと。それだけだ。付き合っていると見せかけるために必要なことだった。
 行為に意味などない。そう言い聞かせていても、心が揺れてしまう時が殊更辛かった。愛花との関係が偽りだと痛感してしまって。
 時折愛花の何かもの言いたげな視線を感じたが、無視し続けた。曖昧な関係を曖昧なままにすること。それが俺の目的だった。目的は達したはずだった。それなのに、どうしてかちっとも達成感がない。嬉しいとすら、思えなかった。代わりにやってきたのは、強烈な虚しさと後悔だった。
 俺と愛花の関係はあの時を境に、決定的に変わってしまった。温く柔い関係は触れれば壊れてしまうものだった。俺は、それに気がつくのが遅かった。
 悔恨に苛まれながら、それでもどうしようもなかった。愛花との関係をこのまま進めることはできない。そんなことをしても何も手に入らないことはもうとっくに知っていた。かと言って後に戻ることも、もうできない。俺は愛花を手放すことができなくなっていた。今のままなら、形だけでも恋人として存在していられる。だが、恋人という肩書きを失ったその後は?愛花にとって俺は一体何になるのだろう。元通りに戻れるとは限らない。考えるだけで足がすくむほど恐ろしかった。これ以上、臆病で惨めな自分を知るのが怖い。
 手詰まりだ。なぜ最初に気がつかなかったのか。俺の望みは、叶うはずのないものだと。関係性を永遠に保存し続ける術を俺は持たない。あの頃は、そんな都合のいい方法がどこかに転がっているものと思い込んでいた。今はまだ知らないだけだ、と。そんなわけがないのに。このまま大人になったってそんなもの、この先一生手に入らない。俺たちは生きている。変わるのは必定だ。
 終わりを待ち続けていたら、いつのまにか半年が過ぎて、俺たちは中学3年になっていた。3年になったその日、俺は恋人の役を降りることになった。
 あの日、俺を呼び出して愛花は言った。
 「もう、付き合うふりはやめにしない?元に戻ってもきっと、噂されないと思う」
と。それは遊びの予定をキャンセルするような軽い口調だった。だが、待ち侘びていたものに違いなかった。
 「……そろそろだろうと思ってた」
 返答は予め用意されていたかのようにするりと口から出ていった。そんなはずはないのに。俺は望みながらずっと恐れていた。こんな日が来ることを。
 それからのまいに毎日は、お互い化かしあっているのかと思うほど、元通りだった。あの半年間など存在しなかったようだ。少なくとも、愛花の中では終わったことになっているようだった。いや。それでいい。それが正しい。あの関係は嘘だったのだから。それが解消されたのなら、元に戻るしかない。
 何度言い聞かせても、俺の心が晴れることはなかった。心が楔で打ち付けられていて、同じところに戻ってしまう。毎日呼吸を禁じられたかのように苦しかった。
 高校は地元の工業高校に決めた。もともとそうするつもりだった。いろいろなものを作ったり手を動かしたりするのは昔から好きだった。それでも進路選択の時、愛花のことが頭を過らなかったといえば嘘になる。思えば俺は、彼氏のフリを始めた時から終わりに向けて準備を始めていた。認めたくはないが。
 俺はメールを立ち上げるともう一度文面に目を走らせた。
 『今度の土曜って空いてる?話があるんだけど。昼から会える?待ち合わせはいつものアイス屋で』
  素っ気ない一通のメッセージは愛花から先日送られてきたものだった。頻繁にあいつから連絡があるのは珍しい。つい先日、愛花とは会ったばかりのはずだ。俺はスマートフォンを尻ポケットに仕舞うと、再び歩き出した。
 あの時は今の比じゃない程驚いた。今から1年以上前、高校に上がってしばらくした頃だ。愛花から一通のメールが届いた。
 『明日の夕方、船着場まで来て』
 書いてあるのはそれだけだった。
 あの瞬間の驚きと戸惑いは今でもはっきりと甦る。高校に進学した時に、俺たちの縁は切れたものと思っていた。俺も一切連絡しなかった。このメッセージがなければ、きっとその通りになっていただろう。
 待ち合わせは、よく放課後を過ごしていた船着場だった。暑くない時期は、ここでダラダラと時間を潰すのが常だった。
 当日行ってみると、愛花は既に腰を下ろして待っていた。久しぶりに見るその表情は、俺の知るものとは少し違ってみえた。数ヶ月の間に、愛花の中で何かが起きたことは確かだった。当初、俺は何か用件があるのだと思っていた。それを伝えるため、呼び出したのだと。結局その日、愛花の話が核心に触れることはなかった。高校に入ってからの出来事を語り合っただけ。まるで、空白の時間を埋めるように。
 去っていく愛花の後ろ姿を見送りながら、一つの考えが浮かんだ。愛花が俺を呼び出した理由。
 ーーーただ俺に会いたかっただけ。
 とは考えられないだろうか、と。
 また傷つきたいのか、と冷静な部分が叫ぶ。期待して裏切られるのはごめんだった。けれど、もう一度チャンスがあるなら。再びこの関係を修復することができるなら。そう考えてしまった。
 その日から俺は、決して自分から愛花に連絡を取らないようにした。時には愛花から呼び出しがあっても他の予定を優先したりした。何年か付き合ってきて、愛花の性格をよく知っていたからだ。あんな面倒で厄介で碌でもないやつを、俺は他に知らない。愛花は手に入らないものほど欲しくなるという性質を持っていた。あいつは簡単に手に入るものなんて、欲しがらない。だからこそ、気のない素振りを続けた。「以前は付き合っていたが、今はなんとも思っていない」というふり。どちらにせよ、この演技は必要だった。これからも愛花と関わり続けるのであれば。
 本当はあいつから離れて楽になりたかった。けれどそれを俺自身が許さなかった。呪いのように愛花への想いは、いまだこの胸に居座っている。いつかこの胸中を知ったなら、愛花は俺を手放すかもしれない。得体の知れない強過ぎる思いを宿主でさえ、「怖い」と感じるのだから。
 待ち合わせの店前に人影が見えた。ポニーテールに結った髪が風にサラサラと流れている。その姿を目にした瞬間、声が蘇った。
 『好きな人ができたみたい』
   今日、やっと終わらせられるのかもしれない、この関係を。自分の気持ちがわからない。俺はこの賭けに勝ちたいのか。この苦しみから逃れたいのか。
 愛花は俯き、どこか虚空を見つめていた。そんな何気ない姿なのに、美しくて。一瞬見入ってしまう自分がいる。
 ああ。呪いは解けない。
 生唾を飲み込み、一歩踏み出した。
 呪いがどうあっても解けないのなら。獲物が罠にかかったかどうか。確かめてやろうじゃないか。どうせ、そうすることでしか変われないのだから。
 「愛花」
 愛おしく呪われた名前を、俺は味わうように口にした。

***

海のなか(26)へつづく。

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