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小説・海のなか(41)

***

 あの日から毎日気がつけば境内に腰を下ろしていた。なぜかそうしているだけで息をするのが楽になる。不思議な心地だった。相変わらずすることはなかったけれど、心は穏やかだった。わたしの目は気がつくと石段の方を眺めている。そこから聞こえてくるはずの足音はいつでもはっきりと蘇ってきた。息遣いまで聞こえてきそうなほど…。
 なぜここまで夕暮れを心待ちにしているのだろう。待つのは辛くなかった。なぜか彼のことは信じられた。今日も、明日も必ず来てくれるだろう、と。青もこんな気持ちだったのだろうか。約束された訪れを待つ楽しみを、不思議な少年も味わっていたのだろうか。わたしを待ちながら。そうならいいのに、と思う。
 陵は毎日私のもとにやってきたけれど、話が弾むわけじゃなかった。お互い口数が多い方とは言えない。それでも無理に話そうとするより、わたしにはありがたかった。最初は気まずかったはずの沈黙も、回を重ねて行くにつれだんだん気にならなくなっていった。少なかった会話の中で印象に残っているものがある。あの日、わたしは陵に尋ねた。
 「ねえ、幸せだった頃を取り戻すためにはどうすればいいと思う?」
 「幸せか…」
 独り言のように呟くと、陵はハンバーグを食べる手を止めて視線を遠くへ投げた。
 「変わり続けること、かな」
 「変わる?ずっと同じでいれば取り戻せるんじゃなくて?」
 思わず返したその言葉に、陵は僅かに顔を顰めた。
 「変わらないなんて、生きてるとは言えないだろ。俺達は時間を刻んでる。それを止めるなんて、無理だ」
 「でも仮にそうなら、変わることは止められないんでしょ?」
 「そう思うけど」
「だったら幸せな瞬間を取り戻せないとおかしい。そうじゃない?」
その問いかけに、幼なじみは目を見開いて動きを一瞬止めた。しかしすぐに硬直は解けて彼は小さく息を吐き出した。
「ごめん。言い方が良くなかったよな。変わるってのは、意図して変わるってことだよ。努力し続けるって言い換えてもいい」
 「努力し続ければなんとかなるものなの?」
「さあ」
 その時の彼の瞳の色はどことなく青に似ていた。投げやりな言葉はいかにも陵らしくなく、違和感が残った。
 「さあって…陵が言ったんでしょ」
 陵はその言葉には答えず、頬杖をついて微笑んだ。
 「羨ましいよ。俺には取り戻したい幸せな過去なんてないから」
 「え…?」
 「強いて言うなら今かな。今この瞬間が幸せだ。だから明日も来るよ。……必ず」
 そう言って笑いかける少年の顔はどこか切ない。その時思った。陵は明日、わたしがここに居なかったらどんな顔をするんだろう、と。
 その時のわたしには想像できなかった。脳裏に浮かべた表情は陵に似た誰か別人のようだった。そして、同時に気がついた。彼は明日も来る、と言いながらわたしが明日ここにいることには全く期待していないのだ。それがなぜか、嫌で仕方がなかった。

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