弘治4年(1558)2月5日は松平元康(家康)が初陣で今川氏から離反し織田氏に通じた三河・寺部城の鈴木重辰を攻めた日。このころ三河忩劇といわれる国衆による今川氏への大規模な反乱が起きていた。今川義元は元康を初陣させ寺部城を攻略を命じた。この戦功により元康は旧領の一部が返還された。
永禄5年(1562)2月4日は松平元康(家康)が上ノ郷城を攻め鵜殿長照を討った日。長照は元康が大高城兵糧入れ時の城代。落城で長照の二子が捕らえられ元康の妻子と交換のため今川方へ送られた。城は元康の継父久松長家が有した。
弘治3年(1557)1月15日は松平元信(徳川家康)と今川一門の築山殿(瀬名)との婚儀が行われた日。同じ頃元信から元康に改名したという。築山殿は元康より年上とも同年ともいわれる。母は今川義元の妹とも伯母ともいわれ元康は今川一門に準じる扱いとなった。後に嫡男信康と亀姫が誕生する。
永禄6年(1563)7月6日は松平元康が実名を「家康」と改めたとされる日。桶狭間合戦の後に岡崎城へ帰還した元康は織田方との抗争を続けた。しかし今川からの支援がなく信長と和睦し今川方と抗争を開始。こうして今川義元からの偏諱である「元」の字を返上して名実ともに今川と絶縁を宣言した。
永禄3年(1560)5月23日は桶狭間合戦後に大高城を退去した松平元康(家康)が岡崎城に帰還した日。今川義元が討たれた19日夜半に大高城を退去し翌20日に大樹寺に入っていた。岡崎城の今川軍が退去した後に入城したという。ただこれで今川家と敵対したわけでなく暫く織田方との抗争が続く。
永禄3年(1560)5月12日は今川義元の本隊が尾張を目指し駿府を出発した日。全体では2万5千ともいわれる大軍で先鋒として井伊直盛や松平元康が既に出発。義元は15日に三河の吉田城、18日には尾張の沓掛城に入り最後の軍議が行われた。19日に大高城へ向かう途中の桶狭間で休息をとる。
弘治4年(1558)2月5日は松平元康(家康)が初陣として今川氏から織田氏に通じた三河・寺部城の鈴木重辰を攻めた日。三河忩劇といわれる今川氏に対する国衆の大規模な反乱が起きていた。この戦功により今川義元から旧領の一部を返還された。最初に大きく躓かないようにするのは肝心ですよね。
永禄3年(1560)5月18日は今川軍の松平元康(家康)が織田軍に包囲された大高城に兵糧を入れた日。今川義元の本隊に先行して元康は鵜殿長照が籠る大高城に兵糧を届けた。深夜から翌19日にかけ元康は丸根砦、朝比奈泰朝は鷲津砦を攻略。沓掛城を出た義元本隊は正午ごろ桶狭間山で休息をとる。
永禄5年(1562)2月4日は松平元康(家康)が上ノ郷城を攻め鵜殿長照を討った日。長照は元康が大高城兵糧入れ時の城代。落城で長照の二子が捕らえられ元康の妻子と交換のため今川方へ送られた。城は元康の継父久松長家が有した。あれ?明日の大河放送回「瀬名奪還作戦」とリンクしてますねこれ。
文明7年(1475)2月22日は安祥城主の松平親忠が勢誉愚底を開山として浄土宗大樹寺を創建した日。松平家・徳川将軍家の菩提寺で歴代将軍の位牌を安置。桶狭間合戦直後に住職登誉が松平元康(家康)に「厭離穢土 欣求浄土」の教えを説いた所。自分にとって特別な場所として浮ぶのはどこかなあ。
永禄4年(1561)1月20日は将軍足利義輝が今川氏真に松平元康(徳川家康)との和睦を進める書状を出した日。義輝は積極的に戦国大名同士の抗争の調停や自らの名の1字を与えるなど将軍権威の復活を目指した。担ぎたい人達にとって御輿の勝手な動きは邪魔でしかないわけで対立から悲劇へ繋がる。
永禄6年(1563)7月6日は松平元康が実名を「家康」と改めた日。徳川へ改姓するのは永禄9年のこと。今川義元からの偏諱である「元」の字を返上して名実ともに今川と絶縁。宣言することでやらざるをえない覚悟を持ったといえるかもしれないですね。覚悟があるのか自らに問いたいことだらけです。