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不滅の時代劇列伝「信長」と「家康」

いまどきの、永禄4年(1561)の話しだから、誰だってそれをリアルに知ってるやつはいないし、同じような話で、「アレキサンダー東征」の話は伝記であって、今日的にそれを実証できるものは誰もいない、というのと同じだ。(精神分析フロイトの訳者著作があとがきに書いていた)

先日、「関ヶ原」合戦の話を解説したが、いくつかの参考資料を読めば読むほどに、それが全部偽物に思えたし、俗にいう「歴史もの」は、作家著者がその主人公に成りきって書く、というのが法則らしく、当然、身の回りのインフラとか、室内装飾(時代考証)も、それに染まっている、というのを、「藤本義一」のコラムで読んだことがある。

たしかに、「司馬遼太郎」書籍本も、同様で読者は、すっかりその時代に同化してしまう。(その描写力が実力評価なんだろう)

いってみれば、一時のタイムスリップで、読んだだけで、その時代゛永禄4年(1561)゛になってしまうのだし、「各々がた、しかともうしつけそうろう」~、とした口調になって、傍にいた妻から顰蹙を買う、という図は笑えるし、それだけで読書の効果はある。これが「電子本」だったら、そうはならない。なぜなんだろう。

まず紙の匂いがしない。まずページをめくる、摩る音がしない、手触り感覚がない、パタパタと仰ぐという空気振動感がない、のないない尽くしだ。いわゆるそれは「逆説論」だが、それは昔のレコード衰退原理とまったく同じだ。
今でもレコード再生は、自宅で可能だが、仕度に時間がかかって、ついつい億劫になって、パソコン動画に頼ってしまう。

いやそれで驚いたのが、その動画に「レコード針ノイズ入り」音楽があったり、往来の人声だったり、高品質「サイレント」じゃなく、まったく自宅環境を再現したようなノイズ混成コンセプトに、おもわず頷いてしまう。
なにを隠そう、それは読書とおなじみ効果を演出していると、かんがえたのである。

時は永禄4年(1561)の話、信長と同盟を結んだ元康は、今川氏の勢力が及んでいた東三河への攻撃を開始した。

大河ドラマ「どうする家康」は、織田信長が松平元康よりも上の立場のように描かれていた。今回は、両者の関係が上下だったのか、対等だったのかについて深掘りすることにしよう。
最初に、少しドラマの内容をおさらいしておこう。松平信康は、幼い頃の2年間を尾張国の織田信秀のもとで人質として過ごした。そこで、図らずも出会ったのが、若き頃の織田信長である。このとき元康は6歳、信長は15歳だった。当時の信長は派手好みとして知られ、服装やヘアスタイルが奇抜だった。元康は信長から「俺の白い兎」と言われ、散々にイジメ抜かれる。その後、元康は今川氏のもとに人質として赴くが、このときのトラウマから逃れられなかった様子がうかがえる。とはいえ、ここまで記した内容はあくまでフィクションであり、あり得なかった可能性が高い。人質は非常に大切だったので、無下に扱ったり、乱暴に扱ったりすることはなかったと考えられる。あくまで、ドラマをおもしろくするための演出である。

4回目の大河ドラマでは、元康が信長との交渉に臨んでいたが、明らかに信長を恐れており、信長もまた元康を見下すような態度を取っていた。しかし、常識的に考えると、2人が直接交渉するトップ会談はあり得ない。お互いの取次同士が折衝するのが普通だろう。いずれにしても、ドラマは信長=強者、元康=弱者ととらえているが、これは正しい見方なのだろうか。当時、信長は美濃の斎藤氏と敵対する関係にあった。いかに信長とはいえ、斎藤氏と元康を同時に相手をするのは、さすがに大変だった。元康も、信長と戦うのは大変だった。
そのような事情もあり、信長と元康は同盟を結んだが、それは領土画定というものだった。互いの領土の範囲を確定したうえで、背後を気にすることなく、それぞれが戦いに専念できたのである。つまり、両者の同盟は、片方の条件が悪いという性格のものではなかった。永禄4年(1561)以降、信長と同盟を結んだ元康は、今川氏の勢力が及んでいた東三河への攻撃を開始した。こうして両者の戦いは激化した。したがって、ドラマのような信長=強者、元康=弱者という考え方は成り立たないのだ。

渡邊大門著 織田信長と松平元康の関係は上下でなく対等だったワケ
渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役 2023/2/2(木) 5:00
【深掘り「どうする家康」】
 画像織田信長。(提供:アフロ)


提供:アフロ


お市の方と松平元康が幼い頃に会うことがありえない理由

渡邊大門 株式会社歴史と文化の研究所代表取締役 記事

大河ドラマ「どうする家康」では、織田信長の妹・お市の方と松平元康との幼い頃の場面があった。2人が本当に会った可能性があるのかについて、深掘りすることにしよう。織田信長の妹・お市の方の誕生年は、天文16年(1547)とされている。永禄4年(1561)の時点では15歳(数え年)である。一方、松平元康の誕生年は天文11年(1543)なので、このとき19歳(同)である。元康のほうが4歳上である。

年齢的には似合いのカップルであるが、元康にはすでに瀬名(築山殿。今川家の家臣。関口氏純の娘)という妻がいた。元康が瀬名を娶ったのは、今川氏と同盟関係を結ぶための政略結婚だった。なお、お市の方は独身である(のちに浅井長政と結婚)。

天文16年(1547)、元康は人質として今川氏の本拠の駿府に行く予定だったが、戸田康光の裏切りによって、尾張国の織田信秀のもとに送られた。以降、元康は人質の交換で駿府に向かうまで、約2年間を尾張国で過ごすことになった。尾張国での元康は、加藤順盛が支配する熱田(名古屋市熱田区)の屋敷で過ごしたという。とはいえ、当時における元康の人質生活をうかがわせる史料はない。ドラマでは、元康が織田信長から散々に虐げられていたが、もちろんそんな記録もない。大事な人質だったので、ありえないだろう。では、元康は信長と会ったことがなかったのかといわれれば、確証を得ない。会った可能性は決してゼロとはいえないだろう。それは、当時生まれたばかりのお市の方についても、同じことが言えよう。

ドラマでは、幼いお市の方と元康の回想シーンがあり、淡い初恋物語を描いていたが、お市の方の誕生年を考慮すると、それはあり得なかったと断言できる。せいぜい元康は、生まれたばかりのお市の方を見たにすぎないだろう。つまり、ドラマでは幼いお市の方と元康との淡い初恋の場面が披露されていたが、それはあり得ないということになろう。ドラマ上の演出に過ぎないのである。

では、ドラマで信長がお市の方に元康との結婚を命じていたが、それがありえたのかと問われれば、ちょっと難しい。信長と元康は関係性を強めたかったので、決してゼロだったとは言えないとだけ申し上げておこう。

渡邊大門 株式会社歴史と文化の研究所代表取締役 1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。
関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。早稲田大学エクステンションセンター八丁堀校・中野校講師。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社、『戦国大名の戦さ事情』柏書房など多数。

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構成編集#つしま昇


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