見出し画像

どうなる?家康

本日からNHKで放送される
大河ドラマ『どうする家康』の主人公 家康に実は当店でもなれます!
そして、映画制作サービスにも『お家再興は最高の日取りで』というサービスで徳川家康を演じることが可能になっています^ ^
⬆️の写真の左がそうです。

そもそも、改めて徳川家康ってどんな人なの?
って思う方も少なくないかもしれません。
改めて徳川家康について書いてみます。


         神格化までした徳川家康の誕生

1543年12月26日に三河国 岡崎城で松平広忠の嫡男として生まれた。
幼名は竹千代である。
この頃はまだ徳川姓は名乗っておらず松平姓だった。
この頃の松平は身の安全を確保するのがやっとで家臣の吉良義安が織田と交渉すれば織田の味方をし父、松平広忠が今川家に庇護を求めれば今川の味方をし竹千代も3歳という若さで今川家に人質に入るのだが、この頃の松平家はその日生きるのがやっとであった。
しかも、松平家は代々、癇癪持ちである為、ここぞ!という時にとんでも無い失敗をして命を落とすというのがパターン化していた。
竹千代の父、松平広忠も織田が岡崎城を陥落させた和議の最中、キレてしまい織田の策略により農民による一揆により殺害されてしまった。
竹千代の家はそうしたいつ滅亡してもおかしくない戦国時代の小さいか弱き家であった。


     転機!お家再興は最高の日取り?!で?

そんな滅亡したような松平家に転機が訪れる戦が起きる今川義元が京で天下人になった三好長慶を討伐して自分こそが天下の主である事を示す為に4万の軍勢を率いて京の都に向けて進軍を開始したのである。
この4万の軍の中に竹千代から青年に育った松平元康がいた。
家臣には本多忠勝らがいたが本多忠勝も実はこれが初陣であった。
松平元康は既に織田が仕掛けた戦略による三河の国衆との争いの鎮圧時に初陣は済ませていた。  だがしかし、このような今川家の威信を掛けて総力で戦うような戦に出るのは初めてであった。
   今川軍は休息地に尾張国と三河国の境の高い岩壁が迫る風の強い場所に開けた場所にあった
尾張国沓掛城に入った。
今川家臣が近くの民に聞いたその岩壁が迫る狭間を『桶狭間』と聞いた、、、そう!この場所こそが青年、徳川家康が決断を迫られた第一の戦さ、桶狭間の戦いの開戦であった。


                 どうする?!家康

突如、織田の奇襲で始まった戦では勝手の知らぬ今川勢には不利であった。
加えて狭間という地形は城の虎口にも似た作りでどんな大軍でも少人数でしか進めないしかも土地柄か霧が出やすく天気も変わりやすい。
地の利を勝手知ったる織田勢の有利は揺るがない。
今川勢の先鋒、鵜殿長照がいる大高城に蓄えが無くなる為、補給隊の先鋒隊大将に松平元康が選ばれた松平元康はこの桶狭間の戦い前まで祖父や父以上に癇癪を抑え今川家に尽くして来た故に今川家から決して冷遇を受けていたわけではない。
今川義元の妹の娘、瀬名姫を正室に迎え 今川義元にから名を貰い元康を名乗っていた。
この奇襲で今川家に迫りくる織田勢の中を先鋒隊として掻い潜って行くのを任されたのは今川家が彼を松平元康という青年を信頼しているからに相違ないのである。
ただ、松平元康のこの時の心中は別にあったのであろう。
補給に向かったものの既に大高城は織田勢に包囲されていた。
元康がこれを突破するのには小高い丸根砦と鷲津砦の間を擦り抜け、補給をし大高城にいる兵を逃す策をとり作戦は成功した。
しかし、戦功甲斐なく、総大将 今川義元が討伐された。
桶狭間の合戦で4万の軍勢がたった1日で滅ぼされ天下に号令を成そうとした今川家が負けるという事変が起きてしまった。
元康は考えた…今川家は今まで今川義元1人の政略で持っていた。
僧であった時代から軍師だった太原雪斎は既に居らず……未だ続く飢饉(この時代は小氷河期だったので作物は育たない)、このまま松平家は今川家と運命を共にするのか?どうする?
どうする?……
  結果導き出したのは岡崎に帰る、元将軍 足利義輝に馬を献上し今川家から独立した一大名だというのを認めてもらう。
今川家と同盟を組んでいる武田、後北条は上杉謙信の関東進出で援軍には行けない期間を利用して尾張国清州で織田家と同盟を結ぶなどして今川家が介入出来ない地固めを勧めた。
この時から徳川家康と名乗ることになる。

しかし、後にこの同盟が思わぬ方向に転換していく、、


              どうする2?!家康?

桶狭間から22年後の1582年、平安時代から続いた甲斐国武田家が織田家により滅亡した。
織田信長は長らく武田の抑えとして重用していた徳川家康が邪魔になっていた。
家臣にもならず同盟国とはいえ、一国の大名のままの家康を疎ましく感じていた。
そこで織田信長は駿河国拝領(領地をもらうこと)とのお礼と称して安土城に招いた後に本能寺に招いて徳川家康を殺す計画をした。
この計画を徳川家康に漏らしたのが明智光秀で
あった。
明智光秀の以前の名前は進士藤延という室町幕府歴代の大膳役人である。
明智光秀という名は織田信長につけられた名前だが、織田信長の家臣ではなく、松永久秀同様、他に主君を持った同盟者であった。
織田信長はその事を忘れていたわけではないが
明智光秀の主君、足利義輝は既にこの世に居らず死人に仕えるなど愚かと油断していた。
明智光秀は徳川家康に織田信長殺しの密談を持ちかける。
どうする?どうする…どうする!
……結果、明智光秀の策に乗った家康は信長の嫡男、織田信忠を堺の物見遊山時に暗殺し信長の援軍に行かせないようにする事にしたが、
織田信忠は家康の目論見を察知して突如、本能寺へ向かってしまった。
織田信長は信忠を徳川家康の見張りとしてつけていたので信忠の話は一切聞かず信忠は妙覚寺に幽閉された。
信忠が京へ駆けてしまった時点でこの後、何が起こるか知っていた家康は、、早かった、三河国に戻るだった。
当時、堺は三好長慶が作った航路により大阪生駒山脈まで一本筋であったためこの航路と飯盛山城から更に川を流れ安土から津へ抜け、海路で三河国へ猛スピードで戻った。
本能寺の変が起こる前なのでわざわざ伊賀の険しい山道を通る必要がなく堂々と三河国に帰ったというわけである。
どうする?のあとの決断が確実に早かったからこそ、真の意味で家康は先を予見する予知する能力が抜群に冴えたのである。

           手段はないが平和は受け継がれる

そんな家康も病気には勝てなかった長生きする為に薬学を学んで薬を作っていたが、徳川家康はみるみる痩せ細っていき、腹を触れば硬いものがしっかり分かるほどのシコリがあり吐血を繰り返した。
徳川家康は駿府国 駿府城で75歳の生涯を終えた。
政略の中でかつて信長に奪わされた愛する妻、瀬名姫が育った地での大往生であった。
その後、100年続いた戦国時代を完全に終わらせた天下人、徳川家康は神格化され
東照大権現として世を見守りつづけて行くのであった。

天下人!徳川家康!になれる東照大権現になれる!お店はココ!


                      アクセス
三重県伊賀市上野丸之内28 ラフォーレビル2階
伊賀の鎧屋NOTORIOUS
℡090-7824-9617
担当 中村宙史
ご来店前に必ず電話を下さい^ ^

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?