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桶狭間の合戦が与えたもろもろの影響

2023年1月16日、NHK大河ドラマ『どうする家康』第2話「兎と狼」が放送されました。

桶狭間の合戦の後、元康(家康/演:松本 潤)が岡崎城に入るまでのお話です。

織田信長(演:岡田准一)が大高城を包囲した史実はたぶんないと思いますが、元康が今川義元(演:野村萬斎)亡き後、大高城を退出して三河大樹寺経由で岡崎城に戻ったことは間違いないと思われています。

今日は大河ドラマの物語に合わせて、史実や新キャラの紹介をしたいと思います。

桶狭間の戦い

1560年(永禄三年)5月12日、三河に入った今川義元は沓掛城(愛知県豊明市沓掛町)に入りました。この1週間後の5月18日、松平元康は大高城の兵糧入れを成功させています。

5月19日、元康は朝比奈泰朝(今川家重臣)と共に鷲津砦・丸根砦(愛知県名古屋市緑区大高町)を攻撃。織田家重臣・佐久間盛重、飯尾定宗、織田秀敏(信長の後見人の一人)を討死させ、両砦の制圧に成功しています。

同日10時頃、義元本隊は沓掛城を出発。正午頃、桶狭間で休息を取りました。この時、今川軍は2万5000兵と言われていますが、それは先発、本隊、ならびに大高城や他の砦に常駐させたすべての総数で、義元本体を守備していたのは5,000程度だったと言われます。

ここで織田信長が率いた約2,000の兵が攻撃を加えました。

信長の軍勢は、まず今川家の前衛を固めていた松井宗信(遠江二俣城主)井伊直盛(遠江井伊谷城主)の軍勢を壊滅状態にし、本隊まで軍勢を進めます。これに慌てた義元は約300の馬廻隊と共に逃亡

信長の軍勢は義元を追って5回に渡って攻撃を繰り返しました。逃げる義元は当日または前日の雨によって地盤が柔らかくなっており、ぬかるみに足を取られ、思うように行動できなかったようです。

そしてついに織田勢の一人、服部一忠の槍が義元の太腿を傷つけ、同じく織田勢の毛利新介の手によって義元は首を取られてしまいます。

これにより義元本隊は総崩れとなり、今川は名だたる武将の多くを討死させることになりました。

大高城と水野信元

織田家の武将に水野信元という人がいました。尾張国知多郡東部と三河国碧海軍西部(すなわち知多半島)を支配した国人領主でした。そしてこの信元の異母妹が、元康の母・於大の方(演:松嶋菜々子)です。信元は織田氏に従属していました。

信元が桶狭間の戦いの時に、信長に従軍していたかどうかはわかりません。しかし桶狭間は信元の家臣の領地であり、今川義元の変事をいち早く察知することが可能だった可能性は高いです。

義元の討死を知った信元は、与力の浅井六之助を大高城に遣わす決心をします。それは義元が死んだ今、鷲津、丸根の両砦の真正面にある大高城は孤立無縁の今川の城であるからです。織田勢が攻めかかってきた場合、大高城を助ける勢力はありません。

信元と元康は敵味方ではありますが、血縁上は叔父と甥の間柄。
戦場で互いが戦うことになるかどうかはわかりませんが、大高城を捨てて駿河に引き上げるなら、その導線上に水野氏分家の刈谷水野氏が支配する刈谷城があります。浅井を大高城に遣わしたのは、刈谷城までの安全は保証するという信元の計らいであったのではないかと考えています。

同日夕刻、六之助は大高城に到着。義元討死を知らせ、織田勢が攻めかかる前に城から退去したほうがよいという信元からの言伝を申し上げました。

しかし、元康は素直に信じることはせず、独自の物見を発して情報収集に努めました。そしてその日の深夜、元康は大高城を脱出し、岡崎方面に向かいます。先導は浅井六之助が務めたことにより、水野の領内をなんら問題なく通過しております。

一方、六之助から元康の退去を知った信元は、すぐさま一門の水野元氏を大高城に入れ、織田家の城として接収しました。

後日談になりますが、六之助はこの後、松平家に仕えます。六之助は行政能力に著しく長けており、数々の奉行職をこなしたと言われます。

その後の桶狭間

織田信長は義元を討った後、沓掛城を落として西三河の拠点を新たに築きました。しかし鳴海城(愛知県名古屋市緑区鳴海町)を守っていた今川家武将・岡部元信だけは義元が討たれた後も頑強に抵抗し、攻撃してきた織田軍を返り討ちにしています。

堪りかねた信長は義元の首と引き換えに鳴海城の開城を要求。元信はこれを受け入れて鳴海城を明け渡しました。さらに駿河への帰還中に刈谷水野氏の刈谷城を攻撃し、水野信近を討ち取っています。

桶狭間の合戦の今川義元の敗北は、今川の有力武将の討死による戦力低下だけでなく、西三河一帯において今川氏の勢力を駆逐する結果となりました。この時期、三河国内において岡崎より西はほぼ織田の勢力下になったと言って良いかと思います。

岡崎城に入った元康は、いわば今川方における対織田勢の最前線に位置した形になり、それゆえ、駿河に戻らず、岡崎に留まる大義名分も成立していました。

一方、義元の死は周辺諸大名にも影響を与えました。
一番大きな影響は上杉謙信の関東出兵です。

今川義元、武田晴信、北条氏康の三氏は相互不可侵条約である「甲相駿三国同盟」を結んでいました。これはお互い背中合わせの三国が手を取り合う事で、後顧の憂いなくそれぞれの軍事活動ができることを表していました。

すなわち、

今川義元は西三河方面の織田信長に全力で立ち向かえる。
武田晴信は信濃方面の攻略と越後の上杉謙信に全力立ち向かえる。
北条氏康は関東の国人領主の従属に全力で立ち向かえる。

という利益をもたらしていました。
このトライアングルは国同士の同盟ではありますが、国主の技量によって成り立っていたとも言えます。義元、晴信、氏康の三人の技量は若干の差はあれど、一定のバランスが取れていたのではないでしょうか。

そのトライアングルの一角である今川義元が討死し、今川の軍事力を支えていた有力武将の多くを失った今、この三国同盟はじょじょに瓦解へと導かれていきます。

榊原小平太

今回、大樹寺で学問を受けている小倅として榊原小平太(演:杉野遥亮)が登場しました。のちの榊原康政であり、徳川四天王の一人です。

榊原氏は伊勢国の住人で、いつしか三河に移って松平家に古くから仕えた一族と言われますが、小平太の血統は庶流の流れと言われています。
三河国の国人領主で上野城主である酒井忠尚の家臣だったようです。

本多忠勝と同年齢と言われていますが、13歳で家康に見出されて小姓となり、19歳で元服して旗本先手役(50騎)となります。

徳川四天王はどちらかというと武功の者が多いですが、康政は武功もさることながら調整能力と時期を的確に読む指揮官能力に長けており、四天王の中ではバランスの良いタイプの戦国武将だと思います。

今後、どのように描かれていくのかが楽しみですね。


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