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戦国その21 三河国(西条・東条)吉良家の家臣団。知多半島:水野信元の軍団、横須賀:大須賀康高(千葉胤高)の軍団

三河国(西条・東条)吉良家の家臣団と軍団。水野信元の軍団、
大須賀康高(千葉胤高)の軍団のページです。


「上杉禅秀の乱」に従軍する大須賀氏あり。

大須賀軍団は、家康旗本旗頭、榊原軍団に吸収される→

東海道略図

「桶狭間の合戦」後に三河の支配者は、徳川家康(松平元康)ひとりだった、という定説に疑問符です。

 北陸御番役・柴田勝家に同じく、信長の配下として、東海御番役の徳川だったと考えます。 織田家のただの旗頭(方面軍軍団長)です。

「 追々 御注進これあり。此の時、信長、敦盛の舞を遊ばし候。 」
 -太田牛一  

1560年『信長公記』

「 尾張半国 当方(今川家) 分国。 」-連歌師・柴屋軒宗長-(1522年)義忠・氏親の客人。

<信長様先祖、今川家の尾張代官疑惑(え。>

 1517年、斯波義達・大河内貞綱(家康が貞綱の血筋という事に意味がある)の敗北により、今川氏親が那古屋今川家を中心に尾張を支配。

斯波氏が勢いを失ってから「織田弾正忠」家が津島を抑える事ができたのは、清洲三奉行家の中でも、「織田弾正忠」家今川家との関係が良好だったからではないでしょうか。伊勢守系の血筋の弾正忠が清洲にいるという事は今川家から大和守家のお目付けの意味があっての抜擢だったのでは。

 しかし、中央の政局で、管領・細川高国と織田大和守家と、今川家と北畠家の友好関係が、1531年細川高国の滅亡により覆り、

 細川晴元と家臣・三好の「堺政権」が樹立されたため、東海道の状況が混乱。そして晴元と、三好長慶との対立が、その後の地方豪族の興亡に関わるのではないでしょうか。

 逸早く細川・三好の新政権にとびついた織田弾正忠家が、高国派の清州大和守家よりも優位となり、1532年の大和守家・藤左衛門家と、織田弾正忠家の戦いへと繋がったのでは?

 のちに織田弾正忠家が、三好長慶との関わりを深め、尾張国内では旧南朝勢力の津島大橋家と結びついたことで、斯波義達の代の反今川勢力が味方となったのでは?

 1547年の松平竹千代強奪事件の経緯も、中央の政局が絡んでの戸田氏の動きだったんじゃないのでしょうか。細川氏・今川氏、三好氏・織田氏、その中での戸田・松平氏の視点でみないと真実は見えてこない事件だと思います。

 斯波義統、細川晴元との関係、三好長慶、織田信秀の関係につながり、1559年織田信長の上洛は、六角と三好の和平と同盟、将軍の帰還という一時的小康状態の中で千載一隅の機会だったのではないでしょうか。

 松平清康の軍事蜂起といわれている件も、中央勢力(細川・伊勢・三好)の動向に即した、地方の動きだったのではないのでしょうか?

 また、のちの1563年「三河(一向)一揆」は、岡崎を中心とした西三河の旧吉良領の狭い範囲で起きた反乱で、三河一国の国一揆として大きく扱われることに疑問があります。

「宗教一揆討伐」の名を借りた、本質は吉良家(南北朝の残党:菊一揆)打倒の挙兵だったんじゃないでしょうか。江戸時代の本願寺と徳川幕府との密約で、本願寺が家康の吉良家への謀反(下克上)の汚名を肩代わりすることになったのでは?

 東三河の牛久保城には一色氏の元・守護(又?)代・牧野氏が健在です。

 本願寺一揆=すごい勢力、徳川家=三河一国を支配してたんじゃ?という現代人の思い込みが、家康のスタート時点での地位を

三河守護職であったかのような過大評価をすることに繋がっているのでは? 

 歴史の教科書や参考書に示される家康の支配範囲は全て、現代人の認識の誤りです。

 追記)今川義元の家臣団、井伊家の家臣団も参照してください。

 1572年味方ケ原合戦従軍者。

生還した武蔵孫之丞秀貞という武将は、実は織田家の重臣・武藤氏なのでは。

<南朝の勢力として信濃宮に従い移住したものか、もしくは、細川京兆家の譜代家老衆に河内の豪族、三宅氏あり。河内三宅氏は畠山氏の家老となる一族も有り、有力豪族として各大名家に一門が引き抜かれ出仕していた様子です。仁木氏・細川氏・畠山氏の守護代もしくは代官、派遣軍の旗頭として三河に入植した可能性もあります。>

<1360年南朝勢力が、関東執事・畠山国清の関東帰還を、三河矢作川で阻止。南朝方・吉良満貞と、元管領・仁木義長の三河守護代・西郷氏と、尾張の小川中務が連携し封じる。>

拠点白抜きが織田家城砦。紫染めが吉良一揆。

江戸史観の歴史で伏せられた吉良一揆


江戸史観による初期の岡崎家と家康の過大評価


<三河伊保 三宅氏> 


1540年織田信秀の安祥城奪取。 ×印=親・織田信長の戸田、水野、大橋

(伊保 三宅家)

 美濃明智家と繋がりのある三宅氏。

三宅* (*)伊保・伊賀守。伊保城主。1493年松平親忠と抗争。中条氏に従い「井田野の合戦」。<三宅氏は有力外様として1582年駿河攻略後に駿河に移封されます。>

三宅清貞 (*)伊保・周防守。1531年松平清康と抗争。広瀬城に落ちる。

三宅政盛 (*)1530年松平清康に降伏臣従。

(御船・西広瀬 三宅家)

三宅貞保 (*)御船・右衛門太夫。1554年佐久間家から西広瀬城を奪取。一門の三宅帯刀・高清を城主とする。御船城主。

三宅光貞 (*)御船・右衛門大夫。1554年佐久間家から西広瀬城を奪取。一門の三宅帯刀・高清を城主とする。東広瀬城主。

⇔↑×▽三宅高貞 (*~1561*)東広瀬・右衛門大夫。東広瀬城主。1533年阿部、鈴木、中条家と連合し松平清康と抗争。1554年佐久間家から西広瀬城を奪取。一門の三宅帯刀・高清を城主とする。1558年織田信長に通じ今川義元に攻撃される。1558年に松平元康に奪取された広瀬城を再奪取するも、1561年広瀬城を再び失う。<1561年清洲同盟後の織田家の西加茂郡平定戦によるものか。><甥が三宅弥平次・明智光春。>

⇔×▽三宅高清 (*~1558*)西広瀬・帯刀。三河国人。1549年広瀬城主・佐久間全孝は松平広忠の家臣に討たれる。1554年三宅右衛門大夫・貞保が佐久間長七郎から広瀬城を奪取。以降、西広瀬城主。1558年織田信長に通じ今川義元に攻撃される。松平元康・酒井忠尚の攻撃を受ける。加茂郡西広瀬城主。<三宅貞保、高貞、光貞により広瀬城主に任命される。三宅一門でしょう。家康旗本の三宅正貞、康貞親子とは別流。>

(伊保 三宅家)

⇔×▽三宅正貞 (*)伊保・政貞。父は隼人。渡城主・鳥居忠吉の娘婿。1558年今川軍の松平元康に降伏。今川家に従う。1568年遠江の旗頭。伊保城主。息に康貞、広勝、勝清、正次。<三宅伊賀守の系統。息の惣右衛門・康貞が鳥居元忠の妹婿となり立身出世。>

⇔▽三宅康貞 (1544~1615)(鳥居)・惣右衛門・総右衛門。三河加茂郡の豪族。正貞の息。小笠原佐渡守の娘婿。鳥居元忠の娘婿。息に康信。梅ケ坪城主。 ←三宅氏ご参照ください。

(東美濃・尾張衆)

×山内* (*)采女。美濃岩村城主・遠山景任の家臣。1558年織田信長の命で三河に侵入、寺脇城主・奥平松千代を支援。

《個人的感想》  備前守護細川家の関係で、山陽地方から三宅(児島)氏が三河に入植、土着していたのなら面白いですが・・。

 一色家勢力図。<三河国守護、高橋分郡守護の時代あり。

三宅氏も傘下に属するか。それとも、敵対していたか・・。>

東海道の攻防 大河内=松平=富永氏の関係。

<足利持氏の乱の翌年>「永享11(1439)年、洞院大納言(東山左府)・実熈、三河国大河内に配流さる。富貴の者、松平太郎左衛門尉・泰親金銀を貸し奉り供奉する。泰親の娘、実熈の側室となり、富永五郎・実興生まれる。三河国富永御所。三河山本、尾崎、山崎等は是の子孫也。」

『浪合記』から読み。
足利幕府の変遷

1512年尾張遠江守護・斯波家が駿河今川氏と抗争。
1513年 井伊次郎・直平 三嶽城を拠点に、斯波義達と結んで今川家と抗争。
1517年対・今川氏親、遠江「曳馬城表の合戦」に大敗。幕府管領・武衛(斯波)家の権威失墜。
1536年今川家内紛。家督争い、「花倉の乱」。
1549年代に吉良義安が今川家に敗北。
1556年に斯波義銀と吉良義昭の同盟会見。
1560年「桶狭間」後は反岡崎徳川。
1563年「三河一向一揆」に両吉良勢力を結集。

吉良・今川氏の勢力図。

織田信秀の勢力圏、西三河占拠と三河守任官

<三河西郡領主・鵜殿氏>

 藤原泰衡後見人・熊野別当の後裔。

(上ノ郷)

▲鵜殿長持 (1513~1557*1562)(今川)・藤太郎・長門守。長将の息。三河蒲郡(西郡)の国人領主。義元の妹婿。1516年鵜殿長将、没。親今川派として三河支配の重鎮。娘(養女?)は徳川家康の側室(蓮葉院)に。三河上郷城主。1562年徳川軍に攻囲され戦死。息に長照、長忠。<形原・五井・竹谷などの信光流の松平氏が周辺に存在します。松平諸家は、いつからそこにいるのか。もともとは鵜殿家の家臣として、その周辺の城主だったりしないのでしょうか。>

鵜殿長照 (1531~1562)(今川)・蔵太郎。今川家一門衆。三河蒲郡の国人領主。長持(1513~1562)の息。父・長持は義元の妹婿。三河上郷城。尾張大高城主。今川家に忠節を尽くす。1560年「桶狭間の合戦」以降、三河国にて今川勢力として奮闘するが父は戦死し、弟とともに捕虜となる。人質交換として徳川信康が解放され、今川家に戻る。1562年徳川軍に攻囲され戦死。三河西郡城主。長照は伴与七郎に討たれた。

鵜殿氏長 (1549~1624)(今川)・上郷鵜殿・三郎・新七郎・石見守。三河宝飯郡の豪族。元・今川義元家臣。鵜殿長照(*~1562)の息。弟に氏次。1562年家康により居城を攻撃され捕虜。松平信康と人質交換となる。今川家に戻り遠江二俣城主・松井宗恒の与力。1568年徳川軍に降伏臣従。1570年「姉川の合戦」、1575年「長篠の合戦」に従軍。1590年関東移封に従う。養子に氏信。上ノ郷城主。

鵜殿氏次 (*~1600)(今川)・上郷鵜殿・藤三郎。深溝松平家忠の与力。三河宝飯郡の豪族。元・今川義元家臣。鵜殿長照(*~1562)の息。兄に氏長。1562年家康により居城を攻撃され捕虜。松平信康と人質交換となる。のち再び降伏。臣従し深溝松平家忠の与力。1600年「伏見城の攻防戦」に戦死。<家康の捨て駒・・。>

(柏原鵜殿) 鵜殿長忠。

鵜殿長祐 (*)柏原鵜殿家。今川家直参。長持の弟。養子に長忠。1544年歌師宗牧を接待。

▽鵜殿長忠 (*)藤助。柏原鵜殿家。長持の息。長祐の養子となる。今川家の武将・小原鎮実の与力。桶狭間後は下ノ郷の玄長に従う。息に長次。娘(西郡局)婿に徳川家康。

(不相鵜殿家)

鵜殿長景 (*)長持の叔父。

(下ノ郷)

 鵜殿玄長。

鵜殿長存 (*~1543)又三郎。長将の弟。息に玄長。

鵜殿玄長 (*)長存の息。1544連歌師宗牧を接待。息に長龍。

▽鵜殿長龍 (*)1565年下ノ郷の長存寺壁書を残す。1590年家康の関東移封に従う。息に長信。

▼鵜殿長信 (*~1592)八郎三郎。下郷鵜殿氏。長龍の息。1567年浜松城正月御謡に参賀。息に藤助。西郡城城主。

(鵜殿・三木松平)

鵜殿松平康孝 (*)十郎三郎。松平信忠の息。清康、三木松平信孝の弟。1536年三河に侵入した織田信秀を兄とともに撃退。酒井軍団に所属。息に康定。<岩津氏の所領を兄とともに奪取。><兄・信孝に三木の所領を横領されたとも伝わります。後世、信孝に汚名を着せたのでは?><鵜殿長信とよく混同される様子です。>

▽鵜殿松平康定 (*)八郎三郎・康忠。松平康孝の息。酒井軍団に所属。1579年家康に従い、岡崎信康の謀反に警戒。北端城の守備に入る。以降消息不明。<下郷鵜殿長信の八郎三郎を何らかの出来事があって継承するか。><一門衆ながら、いつのまにか事績が消える武将です。世代的に徳川信康に近く武田内通事件に連座したか?><「小牧長久手の合戦」に鵜殿八郎三郎康忠が従軍しているようです。同一人物でしょうか・・。>

 1567年正月御謡始出席者。

1567年の正月に「反今川氏真」の織田方武将の決起集会的な催し。

三河の重鎮・鵜殿、西郷の他、新参の大須賀、戸田、水野、久松、牧野、稲垣、小笠原等の有力諸家が加わる。

 味方ケ原合戦従軍(生存、残存)国衆・豪族。

残存した国衆は18家。

酒井・水野・天野・石川・内藤・平岩・本多・榊原・鳥居・植村。

江原・中根・渡辺・筧・村越(石川)・大橋・大窪(大久保)・山田。

重臣階級が、ほぼ固まりつつあります。

消えた22家が、注目すべき豪族です。

竹田・久松・鵜殿・邨瀬・山岡・岩瀬・柴田・竹河・稲垣・牧野。

山本・野瀬・栗杢・引田・伴(冨永)・蘆谷・いがの・片山・阿佐美(浅見)。

原・河角・深津。

鵜殿・山本は有力者だった様子。蹴落とされて消滅したのでしょうか。

牧野・稲垣は前線の守備の為に不在か。また、久松も水野氏の与力として不在か。

斯波義達の敗戦により今川那古屋家の支配。

(1517~1560までの今川家支配の正統性)

桶狭間直前の吉良・今川氏勢力図

 

(尾張半国守護代家・那古屋今川氏)

今川氏豊 (*~*1540)那古屋・氏豊。今川義元の弟。今川氏親の息(六男)。尾張那古屋城主。1515年今川家に降伏した斯波義達の娘婿。斯波義統の義兄弟。1530年清州の織田達勝が尾張兵3000を率いて京都に上洛。1535年守山に侵攻した松平清康が暗殺される「森山崩れ」発生。1539年東条吉良持広と家老・富永忠安(忠康)が今川家に通じた荒川義広に討たれる。1540年親交のあった織田信秀に居城を奪取される。駿河に帰国。

(三河守護代)

 *相次ぐ両吉良の反乱で、親今川一筋の荒川義広が、今川義元・氏真にとっては吉良家惣領だったかもですね。

荒川義広 (*~1564*)東条・吉良義広・甲斐守・義弘・頼持・義等・義虎・頼時。八面城主。東条吉良一門。吉良持清の息。兄に吉良持広。酒井忠尚の妹婿。徳川家康の妹婿。1539年親今川派として兄・吉良持広(義堯の息・義郷と混同か?)とその家老・富永忠安(忠康)を討つ。1563年三河一向一揆に与し反・徳川家康。1564年三河を出奔。河内国に隠居。息に広綱。<隣国の尾張でも荒川一族がたくさん登場してきます。>

▽荒川広綱 (*~1599)(穴山)・吉良広綱・次郎九郎。義広の息。穴山信君の娘婿。のち徳川家家臣。養子に松平定綱。<武田に与力して一門衆となるか。信玄が健在ならば三河支配の正統な理由になってたかもしれませんね。>

<荒川吉良一門> 

中神・矢田・高木。 高木氏が気になります。高木清秀、広正・・。水野家臣となるのはいつ頃でしょう。

矢田* (*~1564)作十郎。荒川家家臣。会(絵)下城主。上宮寺門徒。1563年三河一向一揆に与し反・徳川家康。深津正吉を養子とする。<矢田次郎との関係不明。源氏の八田(矢田)判官に通じるか。><三河なので一色家臣の縁で、名前の似てる丹後水軍の矢野藤一郎との関係も気になります。><津島社家・堀田氏の一族に矢田氏あり。>

鷹部屋* (*)鉾之助。荒川家家臣。1529年松平清康との抗争に落城。小島城主。

<三河 西条吉良家>

吉良満貞 (*~1384)三郎・左兵衛佐・治部大輔。満義の息。弟に(東条)尊義。足利直義の側近、南朝方の吉良満貞は、幕府帰順後に前執事・細川清氏と三河の鵜殿氏と抗争。犬居・天野氏と同盟。1362年遠江国引馬荘を返却される。幕府引付頭人。息に俊氏。娘婿に斯波義将。西条城主。

吉良俊氏 (*)三郎・左兵衛佐。満貞の息。今川貞世の娘婿。朝廷、武者頭。息に義尚、(奥州)頼氏、義貞。

▽吉良義尚 (1414~1467)三郎・左兵衛佐。俊氏の息。弟に頼氏、義真。娘婿に斯波義健。6代足利義教の側近。三河奉公衆・中条詮秀、満平親子が失脚。一色持信とともに中条氏所領を得る。将軍不在時、将軍代行。1441年管領・畠山持国と対立。1447年斯波義健を後見し、甲斐常治と、斯波持種の対立を調停。1452年義健が早世し、斯波家内紛。


 1517年権力失墜

 赤文字は吉良惣領家から離反する武将。 親今川派。

 ×織田信長配下?=のち織田家、または大須賀康高の横須賀党に。

吉良義真 (1422~1481)西条吉良・左兵衛佐・治部少輔。俊氏の息(3男)。細川持賢の娘婿。将軍・足利義政の側近。将軍御一類として、渋川・石橋氏と同格。1467年「応仁の乱」に妻・細川方の東軍に参陣し、西軍方の東条吉良義藤と抗争。三河支配を巡り一色義直と抗争し、遂に支配権を放棄させる。息に義信。

吉良義信 (*~*1516)三郎・左兵衛佐・治部大輔。西条吉良。義真の息。足利義政の側近。細川政元派。1487年将軍・足利義尚に従い六角高頼征伐に従軍。1491年足利義材(義稙)に従い六角征伐に従軍。1493年「明応の政変」後も出仕。足利義澄政権下に隠居。1508年足利義材復帰に屋敷を提供。1511年足利義材(義尹)に従い都落ち。1512年大内義興を自邸に招く。息に義元。孫に義嵩。<将軍に近い都人です。>

吉良義元 (*~*1515)義信の息(弟とも)。1504年元服するも早世。息に義堯、一色氏明。

東三河守護・一色氏の残存勢力との抗争。

<西条吉良家>

 西尾城主。 斯波義達に協力して遠江遠征。

吉良義堯 (*)西条・三郎・左兵衛佐・義高・義隆。西条吉良当主。吉良義元の息。親斯波派。反今川派。1516年祖父・吉良義信から家督継承。斯波義達と同盟。遠江浜松まで勢力伸張。大河内備中守・貞綱(定綱)、飯尾賢連を奉行に遠江国人を従える。今川氏親の南下政策と対決。1517年斯波義達の「遠江遠征」敗退。今川氏の勢力圏拡大。<斯波義達は1508年に復権した将軍・足利義稙に冷遇される。>

吉良義郷 (*~1537*1539)西条。吉良義堯の嫡男。西条吉良当主。反今川派。弟・義安が東条家の養子となり、三河支配を固める。1517年斯波義達の「遠江遠征」敗退。<東条吉良家が惣領権獲得か。>1537年今川家との抗争で、荒川(西条吉良)義広と争い戦死。

<遠江国斯波・吉良与党の国人> 斯波守護代・甲斐氏

横地秀国 (*~1476*1506)四郎兵衛。遠江国人。1465年見付城の狩野氏を攻略するも、堀越貞延に略奪される。1475年堀越貞延を討つ。1476年遠江にて今川義忠を討つ。息・藤丸は家臣の松井・二俣氏に擁立され再興を謀るが失敗。横地元国は武田家に出仕。<遠江今川(堀越)家、遠江守護・斯波義達とも関連ありか。><家老の松井、二俣氏は今川氏に出仕し独立。>

勝間田 (*~1476*1506)(横地)・修理亮。遠江国人。横地氏分流。1465年見付城の狩野氏を攻略するも、堀越貞延に略奪される。1475年堀越貞延を討つ。1476年遠江にて今川義忠を討つ。子孫・播磨守は鶴見因幡守とともに、今川方の松葉城・河合成信を討つ。のち武田信縄に出仕。<遠江今川(堀越)家、遠江守護・斯波義達とも関連ありか。><南北朝期、北朝方に彦太郎入道。南朝方に左衛門尉・直幸。>

<西条吉良家老・大河内>

⇔↓大河内貞綱 (*~1517)備中守・欠綱・定綱。吉良家家老職。菊一揆、菊党首。臥蝶(寺津)城主・大河内久綱の息。西条・吉良義堯の家老。1501年伊勢・朝比奈軍に敗北し曳馬を失う。1513年曳馬城を奪取。1517年斯波義達と結んで今川家と抗争。遠江曳馬城主。<家康の母「於大」の母「於富」は大河内元綱の養女とも。><子孫は長沢松平に吸収され、松平伊豆守・信綱を輩出。>

巨海道綱 (*~1517)このみ・(大河内道綱)・新左衛門尉。「菊一揆」所属。大河内貞綱の弟。吉良義堯の家老。1501年伊勢・朝比奈軍に敗北し曳馬を失う。1513年曳馬城を奪取。1517年斯波義達と結んで今川家と抗争。<甲斐武田の分家の栗原氏が三河に来て巨海氏となっています。><1474・75年に今川義忠が同盟軍の所領を横領し、狩野氏・巨海氏を滅ぼしたとも。><伊勢長氏の松平攻略に巨海氏の協力があったようです。>

溝口* (*)遠江国人。1516年武田家と結び、今川家に反乱。犬居城主。<遠江今川(堀越)家、遠江守護・斯波義達とも関連ありか。丹羽家臣の溝口秀勝のご先祖?溝口氏はけっこう名門なのかもしれません。>


《個人的感想》  伊勢北畠氏の分流、大河内氏も南朝勢力として、何か血縁的な関連がある気がします。

 本多家も大河内家の分流だった可能性があり、額田郡をめぐり、冨永氏と対決するのは、同族間での軋轢を利用した、離間策による離反や、嫡流をめぐる裏切り、本家からの独立などに関連するものでは?

<三河 東条吉良家>

吉良尊義 (*)1356年「観応の擾乱」に家臣団に擁立され尊氏方。

西条・吉良義堯が盟主。1517年権勢回復

<東条吉良>

 東条城主。 1536年今川家内紛。家督争い、「花倉の乱」。 1549年義安、今川家の捕虜。

吉良持広 (*~1539)東条。東条吉良家。親斯波派。家老に富永忠安(忠康)。斯波義達の同盟者の西条・吉良義堯に従い、吉良義安を養子に迎える。1517年斯波義達の敗北により親今川派が復権。<東条吉良家が惣領権獲得か。>1535年家老・富永忠安の義兄弟・松平清康が「守山崩れ」で戦死。松平広忠を保護し、織田方の桜井松平信定と抗争。1536年松平広忠が室城から岡崎城へ出兵。1539年織田信秀と同盟し義次(吉次)を人質。今川方・荒川義広との抗争で富永忠安を失う。<伊勢にも所領。>

吉良義安 (1536~1569)西条(西尾)義康・東条吉良・三郎・上野介・義康。西条(西尾)・吉良義堯の息。東条吉良持広の養子。反今川派。1537年今川家に通じた荒川義広との抗争で兄・義郷の死により家督相続。織田信秀と同盟し今川家と敵対。1549年今川義元に討伐される。織田信広とともに人質として駿府に幽閉される。1555年今川家での松平竹千代の元服に立会。1563年吉良義昭の出奔により、東条・西条吉良惣領に復帰するという。<父・義堯の代には遠江まで勢力を伸ばし大河内備中、飯尾賢連が家老。>

吉良義昭 (*~*1564)西条(西尾)義章。西条吉良家・吉良義堯の息(三男)。三河西尾城主。東条吉良家を継承した兄・吉良義安が、1549年織田方の為に今川軍に討伐され、親今川派の西条吉良義昭が東西吉良家を継承。東条城主。1556年一時、尾張守護・斯波義銀、織田信長と結ぶ。のち再び今川義元と同盟。1561年酒井正親に城を奪取される。今川氏真と結ぶ。1563年三河一向一揆に与し反・徳川家康。1564年三河出奔。近江に逃れるという。


<吉良一門>

 仁木・細川。

×⇔▽西尾吉次 (1530~1606)(東条吉次)・小三郎・小左衛門・隠岐守・義次。東条持広の息(養子?)。1539年頃織田信秀との同盟の人質となる。織田信長の側近・奉行。徳川家康と親交がある。1575年「長篠の合戦」に従軍。安土城普請の石奉行を務める。有岡城攻略に従軍。徳川家康の高天神城攻囲の陣中検察に赴く。1582年徳川家康供応の案内役として同行。息に忠永。<のちに徳川の世で津田秀政とともに後に全国地図作り奉行に任命されます。二人には武田家の陣場奉行をつとめた原のような地図を把握する能力があったのでしょうか。><美濃西尾の籾井氏と関連があるともされています。縁戚関係があったのでしょうか。>

×⇔▽神 忠政 (1556~1582)(西尾忠政)・藤右衛門・阿波守。西尾吉次の娘婿。1566年11歳で信長に出仕。1582年11月死去「重修譜」。<徳川家の歴史抹消の影が!(笑)><三河の西尾・高木、遠江の中根など織田家に近い武将が存在し、すべてが徳川領というわけではなかったのでは・・・。><越前・朝倉家の早期の頃の有力家臣に神一族が居る。斯波家に従い越前、尾張、遠江に分散するか。><諏訪神を略して神(すわ)、諏訪ともいう。>

荒川義広 (*)吉良義広・甲斐守・義弘・頼持・義等・義虎・頼時。八面城主。東条吉良一門。吉良持清の息。兄に吉良持広。酒井忠尚の妹婿。徳川家康の妹婿。1539年親今川派として兄・吉良持広(義堯の息・義郷と混同か?)とその家老・富永忠安(忠康)を討つ。1563年三河一向一揆に与し反・徳川家康。1564年三河を出奔。河内国に隠居。<隣国の尾張でも荒川一族がたくさん登場してきます。>

▽矢田* (*~1564)作十郎。三河境川流域の豪族。1563年家康支配に対し抵抗、三河一揆の首領。1564年小豆坂に戦死。絵下城主。<所領の位置的には元々は西条吉良の家臣か?。><伊勢桑名に矢田氏あり。元々は鎌倉時代の伊勢守護・山内首藤家の家臣。>

<吉良家譜代家老 西郷・冨永氏>

(三河 西郷(菊池)家) 足利尊氏の九州落ちに菊池家の分流・西郷氏が出仕、九州探題一色氏に従う。1360年元管領・仁木義長の三河守護代として、南朝方の吉良満貞と結び、畠山国清の関東帰還を阻止。新三河守護・大島義高と抗争。


(西郷・五本松)

 月ケ谷(わちがや)弾正左衛門家。 <1560年義元戦死の混乱に家康により岡崎を奪取されるか。>

西郷正勝 (*~1562)(菊池)・孫三郎・弾正左衛門。三河守護代家。東三河の西郷氏。西郷正員の息(養子とも?)。菅沼定村の娘婿。八名郡を領する。元・今川義元の臣。娘婿に遠江豪族の戸塚忠春。1562年今川軍の逆襲により居城にて戦死。息に元正(正元?)、清員、勝茂、信正。大草松平家と縁を結ぶ。<元・吉良家家臣で今川に離反し義元の家臣となっていた国人領主でしょうか。><1560年今川から離反し氏真により人質を殺害される。><1563年大草平七は三河一向一揆の旗頭。>

西郷元正 (*~1562)(菊池)・孫六郎・(正元?)。東三河西郷氏正勝の長男。1560年設楽貞通、菅沼定盈(定村の息)とともに織田方。1562年今川軍の逆襲により居城にて戦死。五本松城主。


(西郷・大草岡崎)

 岡崎弾正左衛門家。

西郷頼嗣 (*~1525)(菊池)・大草松平昌安・弾正左衛門・信貞。岡崎城・山中城城主。岡崎左馬允・親貞の息。松平清康に山中城を奪取される。娘(おはる)婿に清康を迎え和睦。息に昌久、(信貞とも)。養子に光重。<信貞は頼嗣の実子で、清康に反乱したとも。>

松平光重 (*)紀伊守。信光の息。頼嗣の養子。息に親貞。岡崎城主。

松平親貞 (*)左馬允。光重の息。早世。跡職に信貞とも。岡崎城主。

松平昌久 (*~1563)西郷昌久・大草・七郎。西郷弾正左衛門・昌安(信貞)の息。岡崎城は義兄・松平清康が継承する。三河一向一揆の旗頭。息に三光。

▽能見松平重吉 (1498~1580)二郎右衛門。大草松平(西郷頼嗣)の家臣。重親の息。1558年親今川派、西三河広瀬城を攻略。息に重利、重勝。のち岡崎信康の後見人。

松平三光 (*)西郷三光・大草・善四郎・源太郎。七郎・昌久の息。息に正親。

▽大草松平正親 (1513~1560)(西郷正親・大草)・善四郎・善兵衛。三光の息。元・今川家臣。1560年今川義元の尾張乱入に従軍、丸根砦攻略に戦死。息に康安。<祖父の昌久は三河一向一揆に所属し出奔。>


(野田 富永)

菅沼定則 (1493~1547)富永定則・竹千代・新八郎・貞則。田峯菅沼氏。定忠の息(3男)。富永家を相続。

菅沼定村 (1521~1556)富永・新八郎・織部正・定富・貞村。駿府今川家家臣。(父の代に野田大宮司・富永久兼の跡職を相続。)菅沼定則の息。1544年家督相続。深溝松平忠定の娘婿。1556年弟の定圓、定自が奥平貞勝とともに離反。「雨山の合戦」に弟の定貴、定満とともに戦死。息に定盈。

野田定盈 (1542~1604)菅沼貞盈・(富永貞盈)・竹千代・新八郎・織部正。三河国国人領主、山方三方衆の一家・菅沼定村の息。(祖父の代に富永久兼の跡職を相続。)駿府今川家家臣。1561年と早くから徳川家に臣従し、1568年遠江攻略に尽力する。1569年今川氏真の掛川城を攻略する際に先陣を務める。1570年「姉川の合戦」従軍。1572年信玄上洛に対し徳川方に忠節。1581年高天神城攻略にも軍功。南設楽郡野田城主。一貫して徳川に忠節を尽くす。息に定仍。<前代に野田の富永忠康は吉良家家老。><桜井松平家と縁戚であり、桜井氏を通じて明智光秀とも縁戚になります。>


(野田富永 旧家臣団)

▽城所* (*)助之丞・浄古斎・入道清庵。田峯菅沼家より、富永家当主を迎える仲介。

▽城所信景 (*~1582?)六左衛門・入道道寿。藤五郎の息。野田大宮司・富永家家臣。田峯菅沼氏に離反し、のち定忠ととも武田家に出仕。

▽今泉* (*)四郎兵衛・慶保斎。野田大宮司・富永家家臣。菅沼定忠の三男・竹千代を富永家に迎える。跡職は今泉孫右衛門・道善。

塩瀬久次 (*)富永・甚兵衛・玄秋。富永家庶流。野田大宮司・富永家家臣。富永資時の孫。作手村塩瀬城主。

▽山口* (*~1571)五郎作。野田菅沼家足軽大将。田峯菅沼定忠との抗争に塩瀬甚助に討たれる。

▽中山* (1554~1571)与六。野田菅沼家家臣。菅沼定盈の側近。野田落城に戦死。

▽夏目* (*)市兵衛。野田菅沼家家臣。菅沼定盈の側近。中山与六の救援に間に合わず。

▽堀田大進 (*)野田菅沼家家臣。菅沼定盈の家臣。1573年武田家との抗争に軍功。

▽大屋* (*)久三郎。野田菅沼家家臣。菅沼定盈の家臣。父は戸田三郎左衛門の家臣。1573年武田家との抗争に軍功。のち戸田家に帰参。

▽兵藤* (*)逢之助。1575年武田家との抗争に軍功。中山砦攻略に従軍。飯尾弥四郎右衛門を討つ。


(設楽 富永)

設楽清広 (*~1570)富永清広。設楽惣領家。63歳。息に清政。

設楽清政 (*)富永清政。陣代・設楽(鈴木)貞通と抗争。1574年北条家に出仕。

設楽貞通 (1534~1596)(鈴木)・設楽定通・(富永貞通)・小四郎・甚三郎・越中守。東三河の設楽郡の豪族。川路城主。設楽貞重の息(足助鈴木氏からの養子とも)。元・今川家家臣。1563年三河一向一揆に家康方。親武田の一門・清政と抗争。1573年「野田城籠城戦」に軍功。1575年「長篠の合戦」に従軍。山方三方衆の一家。南設楽郡門前城主。<親家康派。>

⇔▽滝川助義 (*)四郎・源右衛門・定雄・貞雄・資義。設楽(富永)貞通の与力。助近の息。のち旧縁により滝川一益家臣。<富永氏庶流であったと推測すれば、富永資義もしくは大伴資義とも解釈が可能で、瀧川氏が大伴支流であるならば血縁関係にあるといってもいいような・・。>


(田峯 菅沼惣領家)

▲菅沼定忠 (*~1534)新三郎・大膳太夫。定信の息。1507年家督相続。今川氏親に従う。1515年水巻城の籠城戦に軍功。弟の定房は織田家に出仕。

菅沼定広 (*~1565)新三郎・大膳亮。定忠の息。今川氏親の家臣。大河内元綱の娘「於富」婿、息に菅沼定氏。分家に野田菅沼。娘婿に土岐定明。孫に土岐定政(1551~1597)。大谷城主。

菅沼定継 (*~1556)新太郎・大膳亮。定広の息。1556年島田の菅沼孫太夫とともに、織田家に属した妹婿・奥平貞勝を支援した為、弟・左衛門次郎とともに今川家により討たれる。息に定忠(*~1582)。新城城主。

▽菅沼定直 (*~1576)弥三右衛門・道喜斎。定広の息。1556年兄・定継から独立し今川義元に従う。南設楽郡を領する。家臣に林左京亮、今泉孫右衛門。のち成長した菅沼定忠と対立。息に定利(*~1602)。

▽菅沼定氏 (1521~1623)定広の息。1556年今川義元に従う。八名郡大野領主。のち織田家に属す。味方ケ原の合戦に従軍。兄・定継の息・菅沼定忠の陣代奉行を勤める。息に定吉。

▽菅沼定仙 (*~1606)八右衛門・常陸介。定広の息。1556年今川義元に従う。1564年土岐(明智)定政とともに織田方に属す。


(奥三河国人領主)

×↑奥平貞勝 (*)九八郎・監物丞・入道道紋。元・今川家家臣。織田信長に応じて度々今川家に謀反。1556年田峯定継を調略。今川方の菅沼定直を破る。のち今川方の支配が強化され、貞勝は従うが、弟・貞友は離反。今川方の野田定村の攻撃で阿知波定助(奥平定良)が戦死。

 

(牟呂・室 富永・冨永氏) 東条吉良家老=親今川派。

富永忠安 (*~1539)伴・冨永・備前守・右京大夫・(忠康)。設楽郡野田(冨永・富永荘)の豪族。富永正安の息。東条吉良持広の家老。松平長親(長忠とも)の娘婿。松平清康と義兄弟。1536年松平信定に追われた松平広忠を保護。主・吉良持広とともに、今川方の吉良一門・荒川義広と戦い戦死。室城主。<吉良家の勇将。><富永忠康(忠安)=松平清康=吉良義康(義安)><松平長親では世代が合いません。長忠を信忠のことだと考えれば全て丸く収まります。神君家康公が大恩ある富永氏を滅ぼした事を伏せる為に、暗偶な祖父・信忠という存在を作り出して(先祖を貶めてまで)、清康と忠安の関係を絶ったとしか思えません。>

⇔▽富永忠元 (1537~1561)伴・冨永・五郎・忠元。東条吉良義昭の家老職。富永忠安(忠康)の息。上野城・松平好景を討つ。深溝松平伊忠と抗争。1561年「西尾城の攻防」に敗戦。続いて東条城表「藤波畷の合戦」に本多広孝・酒井正親に討たれる。弟・徳玄も戦死。室城主。25歳。<吉良家の勇将。松平元康を度々破る。のちの天下人の徳川家康を苦しめすぎて歴史上封印される源家ゆかりの富永家。><富永の祖・大伴氏族は瀧川一益、池田恒興、中村一氏と同祖先。北畠の家老・鳥尾屋氏も伴一門。松平広忠が伊勢に逃れたとき、伴の縁でお世話したかもですね。>


(設楽 富永) 野田とは別流の設楽富永。設楽=富永なので自由に名乗れた様子。

富永資広 (*)設楽・冨永・孫太夫。富永(忠康)の弟。忠元の叔父。三河国豪族。1560年松平元康に出仕。以降に富永荘の惣領家の東条吉良家家臣・富永忠元は徳川家康と抗争。1572年「味方ケ原合戦」に従軍。1575年「長篠合戦」従軍。東条松平家与力。<1539年以前に富永忠安が戦死していたとすれば、幼い忠元を後見してきたのはこの方でしょうか。>


(東条 吉良家臣)

川上* (*)東条吉良家家臣。1561年対・松平元康戦に富永忠元とともに出陣。

瀬戸* (*)東条吉良家家臣。1561年対・松平元康戦に富永忠元とともに出陣。

尾崎* (*)修理。東条吉良家家臣。1561年深溝松平好景を討つ功名。

山岡* (*)薬医。東条吉良家家臣。1561年深溝松平好景を討つ功名。


(西条 吉良家臣)

高橋信正 (*~1566)出羽守・信政。西条吉良家臣。幡豆郡の豪族。西条を奪取した酒井正親と抗争。息に政信。赤羽根城主。<斯波義達に従い遠江遠征に向かった高橋氏あり。>

▽高橋政信 (*)弾正少弼。西条吉良家臣。高橋信正の息。父と共に酒井正親と抗争。敗北する。<尾張岩倉の織田家家臣に高橋氏あり。>


《個人的感想》  神君 家康公が、父・広忠を匿って養育してもらった牟呂冨永氏を、成り上がる段階で滅ぼしてしまったため、その裏切り行為を隠すために江戸300年間で、冨永氏に関する事績は抹消もしくは、語られない秘事となって、歴史の闇へと葬られてしまったのでしょう。

 まさに皇国史観ならぬ、江戸徳川史観。

 江戸時代という長い年月の中で、敗者の功績や事績は、すべて徳川家のために、都合よく塗り替えられてしまっているのだと考えられます。

 これからは、残っている歴史を丹念に拾い集め紡ぎ合わせて、真実を突き詰めていく必要があるのではないでしょうか。

現代の「定説」こそ、疑うべきものです。

(吉良 大河内氏)

1512・13・16年 吉良の将、遠江浜松城主・大河内貞綱が三度に亘り今川家を攻撃(斯波義達とは同盟関係)。

 松平信忠が偽名で、長忠が正しいと推測されます。

大河内貞綱 (*~1517)備中守・欠綱。遠江引馬(曳馬)城主。弟に道綱。1511年井伊直宗とともに今川氏親と抗争。朝比奈泰煕に敗北。1517年引馬城にて斯波義達とともに敗北。自害する。<宗綱の息で、息に光将、その後に国綱、光綱、真綱、信政と続くが、短時間にこんなに当主交代が詰め込まれ、世代的におかしい。><光将の活躍ぶりが伝わらないが、縁戚の大橋重清の息が長将という名なのもきになるところです。>

大河内満成 (*)但馬守。三河額田郡寺津城主。大河内貞綱の一門衆。娘婿に松平信忠。<但馬守・国綱と同一人物説あり。国綱の息・光綱は文明元(1467)年に戦死。光綱の息に真綱(正綱?)。>

大河内満澄 (*)満住。三河額田郡寺津城主。<国綱の弟に兼範、貞仲。彼らの子孫か、もしくは光綱に相当するか。>

大河内元綱 (*)左衛門佐。満澄(満住)の息。三河額田郡寺津領主。大橋信重(*~1522)の娘婿。義理の叔父に斯波義郷。従兄弟に大橋定広、斯波千徳丸。尾張青木加賀守・一宗の娘「於富」(熱田の宮善七郎・秀成の娘とも)を養女に迎える。息に大橋重一、(牧村)源次郎・政忠。<光綱の息、但馬守・真綱(正綱?)に相当するか。>

大河内重元 (*)大橋家の娘婿。大河内元綱の室が大橋和泉守・信重の娘の縁から、大橋家に息子・重一が養子入り。

▽大河内重一 (*)大橋重一・源左衛門。大河内重元の息。津島社家の大橋和泉守・定安の養子。義弟に大橋清兵衛・重長、大河内政局。


大河内信政 (*~1520)大蔵大輔・信綱。但馬守・真綱の息。吉良持広の家臣。富永忠安(忠康)、松平清康の同僚。寺津城を増築。息に信貞。大河内10代。<備中守・貞綱と同世代では?>

大河内信貞 (*~1558)大橋。但馬守・真綱の孫。東条吉良家家老職家。信政の息。吉良義安の家臣。富永氏の同僚。大河内11代。息に秀綱。寺津城主。<同名の西郷信貞と事績が重複するかもしれませんね。>

▽大河内政局 (*~1584)大橋・源三郎。室は大橋家の娘。弟に中根正照、相婿に服部平左衛門。高天神城・小笠原長忠の与力。武田勝頼の捕虜となり8年間幽閉される。長久手の合戦に戦死。

大河内秀綱 (1546~1618)孫太郎・金兵衛。大河内12代。吉良義昭の家臣。「菊一揆」所属。大河内信貞の息。1561年対・松平元康戦に富永忠元とともに出陣。1561年松平家に降伏の使者。鳥居氏の婿。長沢松平家と縁戚。息・正綱は長沢松平正次の跡職を継承。三河寺津城主。

大河内久綱 (*)孫十郎・金兵衛。秀綱の息。深井好秀の娘婿。松平伊豆守・信綱の父。弟に正綱。


大河内基高 (1515~1612)善左衛門。東条・吉良義昭の家臣。

大河内正綱 (1544~1627)善一郎。基高の息。大久保忠員の娘婿。東条・吉良義昭の家臣。のち「姉川の合戦」、「高天神城攻囲」に従軍。息に正勝。


(大河内御由緒家) 水野忠政→松平清康→星野→菅沼→川口

青木式宗 (*)大河内元綱。於富の実父とも。<尾張宮・郷土の善七、本人か?>

⇔川口定宗 (*)河口・久助。大河内元綱の娘(於富)婿。息に宗吉。<川口盛祐の室とも。世代的に「於富の方」は宗吉の室なのでは?現代まで斎藤道三が一世代で国を乗っ取ったと信じられてきた誤伝があるくらいですから、今の伝承に、何(嘘)があっても不思議じゃありません。>

⇔星野秋国 (*)(大河内)・藤原・備中守。熱田大宮司の分家。大河内元綱の娘(於富)婿。<東三河に星野氏あり。>

⇔菅沼定望 (*)菅沼定興 ・藤十郎・定顕・興望

吉良家重臣の没落と、松平家の台頭

《個人的感想》  謎の多い大河内家。菊一揆(菊一党)。1560年以降、

織田に従うか、今川に従うか、独立するか、の選択肢の中から、菊一揆の分裂により、

 織田に従うときめた、家康、酒井忠次、石川数正、夏目、本多、鳥居、蜂谷等が生き残り、その後味の悪さから、

 三河武士団ではこのことはタブー視され、菊一揆との戦いは、三河一向一揆へと話がすり替えられたのではないのでしょうか。

 本願寺と江戸幕府の間で何か、お互い協調していくために、つじつま合わせの裏工作が行われたのではないのでしょうか。

 

江戸幕府300年の間に、こんなことを言ったら、即、処刑で、誰も言えなかったのでは?(今だから言えるw)

 忘れ去られた歴史となっているような気がします。


大河内家の系譜は老中筆頭の松平(大河内)伊豆守・信綱に繋がる。

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