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暑苦しい三河衆

2023年1月8日、NHK大河ドラマ『どうする家康』第1話「どうする桶狭間」が放送されました。

桶狭間の合戦をリアルタイムの時間軸に置き、そこから振り返って家康の人質時代から桶狭間に至るまでの経緯と、松平家の家臣である三河衆のキーパーソンをクローズアップする、いわばイントロダクションの回でした。

ストーリーは最新の研究内容が反映されているものの、かなりの虚構が見られ、この先どうなるのかいろんな意味でわかりませんが、今年のこのマガジンでは、ドラマに関連する事項、登場人物などに、私なりの考察を加えようと思います。

とりあえず第1話は今川家と松平家の家臣団にスコーピングします。

なお、文中、基本「家康」で通しており、必要がある場合のみ「元康」の表記を使います。

松平元康(徳川家康/演:松本 潤)

この方の説明は「今回のドラマの主人公です」で終わってしまうのですが、それだと味気ないので、この人のお家(松平家)というものを説明したいと思います。

松平家は三河地方の小豪族であったというのがこれまでの通説ですが、近年の研究では、当時の足利幕府政所執事・伊勢氏の被官であったことがほぼ確実になっています。

将軍家直轄領の業務の一環で三河国に降った松平信光という人がいまして、この人が同国額田郡岩津(愛知県岡崎市岩津町)に土着し、西三河に勢力を拡大します。

家康の祖父・松平清康は三河国をほぼ統一しますが家臣に暗殺されます。後を継いだのは家康の父・松平広忠ですが、親戚に背かれ、さらに居城である岡崎城を尾張織田氏の織田信秀に落とされます。

その不遇な状況に手を差し伸べたのが駿河今川氏でした。
そのあたりは別のエントリーに書いているので、下記をお読みください。

今川氏真(演:溝端淳平)

今川義元(演:野村萬斎)武田信虎の娘(武田信玄<演:阿部寛>の姉)の間に生まれた義元の嫡子です。

1554年(天文二十三年)、北条氏康の娘・早川殿と結婚しております。早川殿の母親は今川氏親(義元の父)の娘とされていますので、従兄弟と結婚したことになります。

1558年(永禄元年)より史料上で駿河・遠江二国に関して氏真の名前で発給文書が認められています、一方で、三河国に関しては氏真の発給文書はなく、義元の名前で出されている文書しか確認できません。

このため、氏真はこの頃より駿河・遠江の領国経営を義元より任されており、義元は三河国の経営に専念し、対尾張戦略(対織田戦略)を進めていたのではないかと思われます。

というのも、駿河背後には北に甲斐武田氏、東に相模北条氏がいますが、甲相駿三国同盟で三国の間に和議が成立しており、そちら方面の脅威はほぼありませんでした。

しかし、氏真にすべてを任せるほど義元は氏真の器を信じてはいなかったのではないかと。そのため、織田と境を接する三河は義元自身が出張ったのではないかと思いますね。

石川数正(演:松重 豊)

石川数正の先祖は河内源氏嫡流・源義家(八幡太郎)の五男・源義時と言われます。その子孫である石川政康が一向宗の蓮如上人と出会って、三河に土着し、嫡男である親康を松平親忠に仕えさせたと言われますが、もともと三河守護の一色氏の被官だった説もあります。

数正はその親康から数えて、四代後になります。
家康が駿河で過ごしていた人質時代から、叔父である石川家成と共に仕えていました。

石川氏の家督は家成が継承しており、数正は庶流でありますが、家成から西三河の旗頭のポジションを譲られると、家康の家老の一人にあげられます。

数正は交渉術に長けており、家康の生涯において数々の難局を持ち前の交渉力で乗り切っています(瀬名と鵜殿長照の人質交換、清洲同盟、小牧長久手の戦いなど)

しかし、その有能さが仇となって、やがて家康の元から離反することになりますが、それがドラマでどう描かれるかに期待したいです。

今川義元(演:野村萬斎)

今川氏は足利将軍家の一門で、足利将軍家御一家・吉良氏の分家です。
初代・今川国氏は、三河国幡豆郡今川荘(愛知県西尾市今川町)の三ヶ村を父・吉良長氏から譲られて今川氏を名乗ります。

1285年(弘安八年)、鎌倉幕府有力御家人・安達泰盛御内人筆頭・平頼綱との間で起きた武力闘争(霜月騒動)で今川氏二代目・今川基氏が軍功を挙げて、遠江国引間荘(静岡県浜松市)を恩賞として賜ります。

基氏の子・範国の代で駿河・遠江の二カ国の守護職となり、駿河今川氏が誕生します。

1549年(天文十八年)3月、松平家当主・松平広忠が死去すると、義元は三河を支配下に収めようとする動きを行いました。

義元は岡崎城と松平家に帰順していた国人領主を掌握すると、10月、織田方に奪われていた安祥城を奪還。城主・織田信広(信長の兄)を捕縛することに成功します。これによって三河から織田の勢力は駆逐されました。

当時、松平広忠の嫡男・竹千代(のちの松平元康/徳川家康)は織田方に捕らわれておいたため、義元は捕縛した織田信広との人質交換を織田方に求めました。これが成立し、竹千代は駿河に送られます。

これまで家康の駿河時代(人質時代)は苦しいものであったり、いじめられたものであったりとする見解がほとんどでしたが、『どうする家康』での義元は家康を「我が子」とまで呼んで厚遇しています。

義元は竹千代の元服時に自らの諱である「義元」より「元」の字を竹千代に与え「松平元信」と名乗らせますが、のちに、祖父・清康より「康」を用いて「元康」と改名します。

一方で、義元の嫡男である「氏真」には、舅である「北条氏康」の「氏」はあっても義元の諱は与えられていません。なぜなんでしょうね。

瀬名(演:有村架純)

瀬名という名前は史料にはありません。史料上は「築山御前」とされる場合が多いです。関口氏純の娘と言われます。

氏純は今川氏庶流・遠江今川氏の分家・瀬名氏の出身です。

遠江今川氏は、初めて駿河・遠江の守護になった今川範国の子・今川貞世(九州探題/『難太平記』の著者)から始まる血統で、代々遠江国の守護職を世襲していました。

その遠江今川氏六代目・今川貞延の子・一秀が駿河国庵原郡瀬名村(静岡県静岡市葵区瀬名)に移住して、瀬名氏を名乗り、その子・氏貞の次男が関口氏に養子入りしました。これが関口氏純になります。

氏純の妻は今川義元の妹(養女?)であったため、瀬名は義元の姪にあたります。

氏純の出自が遠江今川氏分家の瀬名氏であること、さらに氏純が養子入りした関口氏は駿河今川氏の重臣であり一門扱いをされている名家であったことから、家康の瀬名との婚儀は、義元が家康を一門に準じる扱いをするという表明に他なりませんでした。

これを義元が家康を単なる人質と考えていなかった証とも言われますが、逆の側面として、家康を今川家一門に準ずる扱いにすることで、今川家の三河国支配の大義名分化を図ったとも考えられます。

築山殿はのちに家康の運命を二分する重大な岐路に立たされることになります。

鳥居元忠(演:音尾琢真)

鳥居氏は松平清康(家康の祖父)の時代から松平家に仕えた家臣で、元忠の父・忠吉の時代からと言われています。

元忠は忠吉の三男坊で、本来は鳥居家の家督を継ぐ立場ではありませんでした。しかし、長兄の忠宗が戦死。次男は出家という巡り合わせでもあり、忠吉死去後、鳥居家の家督を相続しています。

1566年(永禄九年)に松平家の常時戦闘部隊である旗本先手役に抜擢され、家康のさまざまな戦いで軍功を挙げました。のちに甲斐国が徳川家(松平家)の領国になった際、相模北条氏との境界にあたる甲斐国都留郡を知行しており、北条氏とや武田旧臣との軋轢などをうまく調整するなど、優れた行政手腕を発揮しています。

家康からの信頼は家臣の中でもずば抜けて高く、元忠もその信頼に応え、徳川幕府創設後は、出羽山形24万石に封ぜられ、東北諸大名の要の役を担いました。

平岩親吉(演:岡部 大)

平岩氏は三河国額田郡坂崎(愛知県額田郡幸田町)の土豪の出身で、親吉は家康と同年齢と言われます。ドラマの通り、人質時代の家康の小姓でした。

家康からの信頼は厚く、家康の当時の嫡男・信康の傅役を命ぜられています。のちに甲斐国が徳川の領国になると、郡代として治安維持に尽力しました。

1603年(慶長八年)家康九男・義直が甲斐国主となるとその傅役となり、義直が尾張に転じた後も付き従って、後の尾張徳川家の基礎を固めています。

酒井忠次(演:大森南朋)

酒井氏は松平家古参である安祥譜代の筆頭で、一説には松平家の庶流とも言われています。本拠は三河国碧海郡酒井郷もしくは幡豆郡坂井郷です。徳川四天王の一人とされています。

忠次は史料上は竹千代に随行したことになっていますが、このドラマでは三河の残ったことになっています。

家康が岡崎で自立すると松平家の家老としての活躍が見え、三河統一が現実味を帯びてくると、東三河の旗頭として、国人領主の統率・管理を任されています。

忠次は家康の戦いのほとんどに従軍しており、特に長篠の合戦では別働隊を指揮して鳶巣山砦を落とし、長篠城を落城の危機から救いました。

鳥居忠吉(演:イッセー尾形)

鳥居元忠の父で、竹千代の駿河時代の松平家の家老です。

この頃の岡崎は今川の城代によって管理運営されていましたが、実務は忠吉や阿部定吉、石川清兼、そして前述の酒井忠次ら譜代の重臣によって運営されていました。

その傍ら、将来の松平家のために蓄財に励み、それが家康の独立後の大きな資本として生きてくることになります。

忠吉の名前は京の公卿・山科言継の『言継卿記』にもその名が記載されており、朝廷にも知られた存在であることがわかっています。

大久保忠世(演:小手伸也)

大久保氏は松平家最古参と言われる安祥譜代の次席にあたります。

忠世の父・大久保忠員と、大久保氏宗家で叔父の大久保忠俊は、一時期、伊勢国に逃れていた松平広忠の岡崎城復帰を実現させた剛の者でした。

忠世の家は大久保氏の庶流ではありますが、父・忠員の武功の高さと、家康が忠世を重用したこともあって、徐々に大久保宗家を圧倒していきます。

ちなみに「大久保彦左衛門」として有名な大久保忠教は、忠世の弟にあたります。

家康が遠江を領国化すると、二俣城(静岡県浜松市天竜区)の城主となりますが、信濃を領国化したのちは小諸を本拠に移し、最終的に小田原4万5000石の大名に封じられました。

本多忠真(演:浪岡一喜)

本多氏は大久保氏と並んで松平家最古参・安祥譜代の次席でありながら、その出自がいまいちよくわかっていない家です。

忠真は本多家嫡流・本多忠豊の次男として生まれました。

忠豊は1545年(天文14年)、第二次安祥合戦で松平広忠(家康の父)を逃すために討死しました。そして忠豊の子である忠高も、1549年(天文18年)の第三次安祥合戦(義元の助力で安祥城を落とし、織田信広を捕縛した戦い)で討死しました。

忠真は未亡人となった兄嫁を保護し、その子であり、本多家嫡流の跡取りである鍋之助の養育に専念しました。この鍋之助がのちの「本多忠勝」です。

忠真は桶狭間の合戦から三方ヶ原の合戦に至るまで、多くの家康の合戦に従軍しています。

夏目広次(演:甲本雅裕)

夏目氏はもともと信州の生まれで、三河国に転じた松平家譜代の家臣です。
広次の父・吉久の代より松平家に仕えていることが確認できます。

広次は松平家の中でも比類なき剛の者と言われ、その軍功と家康への忠義だけで生きてきたような人物でした。

その彼の忠義は三方ヶ原の合戦で、大いに発揮されます。

ちなみに彼の妻は松下之綱(豊臣秀吉が織田信長に仕える前の主人)の娘です。

関口氏純(演:渡部篤郎)

関口氏は今川宗家二代・基氏の次男・常氏に始まる今川家の庶流です。
代々、刑部大輔の官位に任じられていて、駿河今川氏の重臣であり、かつ足利幕府の奉公衆でもありました。

氏純はもともと瀬名氏当主・瀬名氏貞の次男で、関口氏緑の養子となって関口氏を継いでいます。

娘の瀬名(築山御前)が家康に嫁いだことで、人生を狂わされた不幸な方です。

鵜殿長照(演:野間口 徹)

鵜殿氏は紀伊熊野別当・湛増の子が新宮鵜殿村に居住していたことに発する一族です。熊野別当家の荘園が三河国宝飯郡蒲郡にあり、そこに移って土着し、今川氏に臣従しました。

鵜殿長持が今川義元の妹と結婚して生まれたのが長照です。

もともとの本拠は三河上ノ郷城(愛知県蒲郡市)なのですが、1560年(永禄三年)には尾張大高城(愛知県名古屋市緑区)の城代となっています。

大高城は尾張国内における今川の最前線でした。
これに対抗するため、尾張織田氏は鷲津砦丸根砦を築いて大高城の動きを封じ、城内の食糧を枯渇させていました。

長照は義元の従兄弟になります。このため、義元は家康に大高城への兵糧入れを命じ、城代の地位を家康と交代させました。

しかし桶狭間の合戦で義元が討たれ、家康も岡崎で独立すると、今度は今川における対家康戦略上の重要拠点が三河上ノ郷城になってしまいます。

そして家康は1562年(永禄五年)、三河上ノ郷城を攻撃し、長照と不幸な再会をすることになるのです。

本多忠勝(演:山田裕貴)

本多忠真の甥にして、本多家嫡流の血を引く者です。
幼名を鍋之助といい、一歳の時に父・忠高が討死したため、忠真に養育されました。

桶狭間の合戦に合わせて元服し、この時、初陣を務めています。

忠勝は後に旗本先手役に抜擢され、以後、松平家随一の剛の者になっていきます。

どうなる第2話

第1話の最後は信長が「待ってろよ竹千代……俺の白兎」と言い放ち、それがツイッターでバズってました。

家康の回想から、尾張の人質時代は過酷ないじめを受けていたのではないでしょうか。

松平勢は大高城に入ったままの状態で、義元の本体が壊滅したのであれば、援軍もないため、孤立無援状態になります。

ここから、どういう判断と思考で岡崎帰りに結びつけるのか。
楽しみなところであります。



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