見出し画像

第7回「わしの家」(予習)

永禄3年(1560年)5月19日 「桶狭間の戦い」(岡崎城へ帰還)
永禄4年(1561年)4月11日 「牛久保城攻め」(今川氏から独立)
永禄5年(1562年)1月15日 「清須同盟」(織田信長と和睦)
永禄5年(1562年)2月4日  「上ノ郷城攻め」(人質交換)
永禄5年(1562年)2月24日 「元康」から「家康」に改名(翌年説あり)
永禄5年(1562年)6月    上ノ郷城に久松長家、於大の方等入城
永禄6年(1563年)5月   「神君一宮後詰」(永禄7年説あり)
永禄6年(1563年)6月    上野城の酒井忠尚が挙兵
永禄6年(1563年)7月6日  「元康」から「家康」に改名(昨年説あり)
永禄6年(1563年)10月    寺部城の小笠原広重&東条城の吉良義昭が挙兵
永禄6年(1563年)10月   「三河一向一揆」勃発
永禄7年(1564年)2月    「三河一向一揆」終結
永禄9年(1566年)5月     「三河国平定」(牛久保の牧野氏が従属)
永禄9年(1566年)12月29日「松平」から「徳川」に改姓。三河守叙任。



1.「家康」への改名


「元康」から「家康」に改名した時期には、
・永禄5年(1562年)2月24日説(『徳川実紀』『伊束法師物語 』)
・永禄6年(1563年)7月6日説(『家忠日記』『武徳編年集成』)
があり、永禄6年(1563年)7月6日説が有力である。

 今川義元からいただいた「元」の字を使わないようにしたのは、対外的に今川家からの独立を示したのであり、「家」の字は松平元康の軍師・伊束(意足)法師(織田信長の軍師であったが、「清須同盟」以降、岡崎に住んで松平元康の軍師となった)が関係しているようである。
 『尾参宝鑑』の「永禄6年7月」の条に改名の理由が書かれている。それによると、松平元康は、織田信長に、「清須同盟」の時、源義家の兵法を知っている意足(伊束)法師を紹介されたという。源義家の兵法は、織田信長は平氏なので伝授してもらえないが、松平元康は源氏なので伝授され得るという。そして伝授が終わり、伊束(意足)法師に「源義家の兵法を極めたので、義家の家の一字を受けられよ。敗者・今川義元の元は縁起が悪い」と言われた松平元康は従い、家康に改名したという。

七月。元康、名を更めて家康と云ふ。 改名の理由 永禄四年、信長と面会の節、信長曰、「尾張国葉栗郡光明寺村、光明寺住職・意足和尚、兵学に長ずと聞き、吾(信長)、之を学ばんとせしに、八幡太郎義家の兵法を伝授せり。故に源氏に非ざれば、伝へずと。吾は平氏なれば、門弟たるを得ず。御辺は源家に付き、意足に就いて之を学ぶべし」と。元康、意を了し、意足を岡崎に迎へ、師として学ぶ。業を卒ふ。意足曰く「公は、八幡公の兵学を窮(きわ)む故に、義家の一字をも受けらるべし。且つ、義元、滅亡して「元」の字は吉兆に非ず」と。元康、之に従ひ、名を更めて家康と云ふ。
 右、光明寺に当時、石川日向守家成より送りし書翰を存す。確証とすべし。

小菅廉等編『尾参宝鑑』明治30年
https://dl.ndl.go.jp/pid/765264/1/143

或る人問ふ。白石、答へて曰く「御諱、御元服の時、今川義元の元を授け奉りて、元康公と申し奉りしを、後に改めさせ玉ひし時に、「八幡殿の御諱の下の字を上になして、宜しき字を撰みて参らせよ」と仰せられしかば、伊束法師と申す者、「家康」公と名付け参らせ候。是は『書経洪範』にあり。「家用平康(いへもってたひらかにやすし)」と云ふ詞の上下の熟字を取り用ゐたりと見えし。是れ則ち故人の名を撰みし例にして、今も異朝の人、名を命ずること斯くの如し。誠に目出度き御諱なり」と答へしと也。

『立路随筆』

 伊束法師本人はどう言っているかといえば、彼の著書『伊束法師物語』には、伊束法師が四つんばいになって床に置かれた松平元康が用意した系図などを見て好字を考えていると、松平元康が「源義家の軍法を伝授されたので、源義家の『家』の字を使って『家康』とするのはどうだろうか?」と聞いてきたので、「八幡太郎義家の『家』の字を使うことを思いつくとは、八幡神の思し召しである」と答えると、松平元康は喜び、「家康」と改名したとある。

「家康」の「家」が源義家の「家」であることは間違いないようである。なぜ松平元康が源義家の「家」を使おうとしたのかは不明である。通説は「源義家の時から源氏が栄えたから、自分の代から松平家が栄えるように」であるが、私の説は「「足利将軍家の分家」と自慢する今川氏に対し、「自分は源氏である。今川家は源氏の分家の足利氏の分家の吉良氏の分家にすぎない。自分の方が家格が上である」と主張したかったから」である。(『伊束法師物語』に書かれた理由を信じたいが、「永禄五年二月廿四日より、家康と御名乗りに成られ」というのは、明らかに史実と異なるので信じられない。というか、それ以前の問題として、松平元康が清洲へ行ったこと自体が学者たちによって否定されている。)


2.「三河一向一揆」の発端


 永禄5年(1562年)、「上ノ郷城攻め」で鵜殿長照を倒して今川方の城を奪取した松平元康であったが、翌・永禄6年(1563年)、今川氏真の指示で、三河国内の酒井忠尚、小笠原広重、吉良義昭らが次々と蜂起し、戦い続けたことにより兵糧米が不足してきた。
 そんな中で「三河一向一揆」が勃発するが、これは、松平元康(浄土宗)と一向宗(浄土真宗)の宗教的な対立ではなく、兵糧米不足により、松平元康の家臣が寺内町に踏み込んだことが発端だという。

高校日本史『詳説 日本史図録』(山川出版社)

■「三河一向一揆」勃発の理由
・説①:今川氏真の要請、扇動:異説
・説②:松平家康の家臣が寺の穀物を奪った。(寺内町へ侵入):通説
・説③:松平家康が本願寺教団の市場(水運、商業圏)へ介入:新説

 学者は、説①の「今川氏真黒幕説」や、③の新説「流通市場介入説」には否定的で、通説は説②「不入特権侵害説」である。
 江戸幕府の公式史書『徳川実紀』には、永禄6年(1563年)、「清須同盟」に怒った今川氏真が(自身は遠州国の反今川勢力の鎮圧に専念するため、三河国の反今川勢力の鎮圧は三河武士に任せるとして)三河各地で今川方の武将に蜂起させると、「小坂井、牛窪辺の新塞に粮米をこめ置るゝに、御家人等、佐崎の上宮寺の籾をむげにとり入たるより、一向専修の門徒等俄に蜂起する事あり」(松平方が新しく築いた小坂井や牛久保の砦に入れる兵糧米として、松平家康の家臣が上宮寺(愛知県岡崎市佐々木町)の籾を強奪したので「三河一向一揆」が結ばれた)とある。米ならともかく、籾では育苗ができないので、怒って当然である。
 なお、『徳川実紀』には、「三河一向一揆」の勃発に乗じて酒井氏らが挙兵したとあるが、最近の研究により、上の年表に示したように、三河武士の挙兵の方が先だと判明している。古文書の中には、「三河一向一揆」を先にするための操作なのか、「三河一向一揆」が結ばれたのは永禄5年(1562年)だとする本(『松平記』と『三河物語』。両書は似ているので、『三河物語』は『松平記』を参考にしたと思われる)もある。



★今後の『どうする家康』
・第7回「わしの家」
・第8回「三河一揆をどうする!」
・第9回「守るべきもの」
・第10回「側室をどうする!」
・第11回「信玄との密約」
・第12回「氏真」


記事は日本史関連記事や闘病日記。掲示板は写真中心のメンバーシップを設置しています。家族になって支えて欲しいな。