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戦国大名に自立した家康

第百五十回 サロン中山「歴史講座」
令和五年2月13日

瀧 義隆

令和五年NHK大河ドラマ「どうする家康」の時代
メインテーマ「徳川家康の人間模様を考察する。」について
今回のテーマ「戦国大名に自立した家康」について

はじめに

人質という逆境の中に幼年期を過ごした松平元康(後の徳川家康)に、「桶狭間の合戦」への出陣という絶好の機会が与えられた。元康にとっては、武将としての資質が問われる最大のチャンスである。18歳になった元康は、この機会を生かして、「今川の人質生活」から脱出して自立するその過程を、今回の「歴史講座」で検証してみたい。

1.「今川家からの独立」について

①「桶狭間の合戦後の家康」

今川義元が織田信長の急襲によって討死してしまった時、松平元康は、今川軍の先鋒として従軍し、丸根砦を攻め落として大高城に入ったが、その最中に今川義元の討死の知らせを受ける。その時、今川軍は退却するため大混乱となるが、元康はこの時非常に冷静な判断を下している。この件に関する史料として『徳川實紀』を見ると、「その夜信長暴雨に乗じ、急に今川陣を襲ひけるにぞ。義元あえなくうたれしかば、今川方大に狼狽し前後に度を失ひ逃げかへる。 君はいさヽかもあわて給はず、水野信元より義元討たれし事を告進らせて後、しづかに月出るを待て其城を出給ひ。三河の大樹寺まで引とり給ふ。岡崎城にありし今川方の城番等は、義元討死と聞て取るものもとりあへず逃去ければ、その儘城へ入せ給ふ。」『新訂増補 国史大系 第三十八巻 徳川實紀 第一篇』吉川弘文館 平成十年 31P

「水野信元(みずののぶもと)」・・・・・元々、松平氏に仕える家臣であったと共に織田氏にも協力するというような微妙な立場にある。
「大樹寺(だいじゅじ)」・・・愛知県岡崎市にある浄土宗の寺院で、徳川氏の菩提寺となっている。室町時代の文明七年(1475)に松平親忠が創建した。
「城番(じょうばん)」・・・戦国時代から江戸時代にかけて、城の守衛にあたった兵士のこと。

以上の史料で言えることは、今川義元が討死した時に、元康は慌てたり無駄に急いだりすることなく、「しづかに月出るを待て」とあるように、冷静に状況判断をしようとしている事に注目したい。一般的には、総大将が討死すれば、軍隊は大混乱となり、とにかく「いち早く」自分の命を守る為に必死に戦場から逃走して、自分の城に戻るのである。しかし、元康は今川義元の討死の情報を慎重に聞きとった上で、「月出るを待て其城を出給ひ。」とあるように、夜間になるまで待ってから退却を判断している。このことから考えられることは、

●このまま駿府にいる今川氏真の下に逃げて帰るか?
●元康の生れた自分の城である「岡崎城」に帰るか?

この二つの選択があったのではなかろうか?元康は6歳にして今川家の人質となっている。この時、天文七年(1538)生れの今川氏真は、12歳となっており、その後、永禄三年(1560)までの12年間、元康は今川氏真を間近に見てき
ており、今川氏真の「人となり」を良く観察し得ていたと思慮される。となると、元康がもし今川氏真の下に戻ったとしても、今川氏真が駿府の領地を守り抜ける武将の「器(うつわ)」でもないし、その才能もないことを充分見定めていたのではなかろうか。それ故、元康は、妻子の待つ駿府には帰らず、岡崎城に入城したものと考えられ、「しづかに月出るを待て」とあるのは、この決断を下す為の時間としては充分なものではなかったか、と考えられる。

以上のように「桶狭間の合戦」直後の元康の行動を見ると、今川義元の大負が契機となって、松平元康にとっては自分の「城」に帰陣出来る事となった「ビッグチャンス」を手に入れた人生最大の出来事ではなかったか、と考えられ、「今川家からの独立そのものであった」と言わなければならない。

②「自殺未遂の家康」について

次に、松平元康が、大高城から逃げ出して駿府に戻る途中の岡崎にある浄土宗の「大樹寺」に入った時、周囲を野武士の集団が包囲した為に、進退極って自害しょうとしたが、大樹寺の第十三代住職の登誉天室(とうよてんしつ)上人に「説得されて自害を思いとどまった。」と伝えられている。

この自殺未遂の時、登誉天室上人から、「厭離穢土(おんりえど) 欣求浄土(ごんぐじょうど)」について説教され、そのことを大事と考えた元康は、以後、松平軍の「旗印(はたじるし)」にこの「厭離穢土 欣求浄土」を使用した、とされている。この「厭離穢欣求浄土」とは、「極楽浄土に生れかわることを心から願い求めること」とされ、その根底にあるのは、「私たちが住むこの世界は苦悩にみちた穢(けが)れた世であり国土であり、それを厭(いと)い離(はな)れることを願うことであり、心からよろこんで浄土に生まれることを願い求める」

これを浄土宗の真髄とするものである。このことを登誉天室上人から諭された元康が以後、生死を賭ける武士達の極限の場所に持っていく「旗印」とするような一生にとっても重要な事項にもかかわらず、『徳川實紀』にはこれに関する事は全く記載されてはいないのは、実に不可思議な事としか思えない。このような重要な事項を後世の江戸幕府の『徳川實紀』担当の記載者達が忘却してしまった、とはとても考え難いのである。

なお、浄土宗「大樹寺」は、松平氏の菩提寺であり、歴代当主の墓や位牌が安置されている寺である。浄土宗は比叡山で修行していた「法然(ほうねん)上人」が、承安五年(1175)に「専修念仏」を奉ずる「浄土宗」を開山した宗派である。

③「家康の岡崎城」について

この項では、永禄三年(1560)五月二十三日、元康が手勢18人と共に入城した「岡崎城」について見ることとする。「岡崎城」は、三河国の守護代であった西郷稠頼(つぎより)が永享年間(1429~1441年)に、菅生川南岸の明大寺付近に居館を構え、これを「平岩城」と称されていたが、享徳元年(1452)~康正元年(1455)にかけて、西郷稠頼は、菅生川北岸の半島状段丘の先端に砦を築いた。明大寺が別名「岡崎」と呼ばれていたことから、この砦が「岡崎城」の原型となったのである。

その後、三代目当主の西郷信貞(松平昌安)が大永四年(1524)に、「平岩城」を居城としたが、同年に松平元康の祖父である松平清康が家臣の大久保忠茂に命じて西郷信貞の「岡崎城」を奇襲してこの城を奪い取り、ここを本拠地とした。しかし、享禄三年(1530)~享禄四年(1531)頃にかけて、松平清康は明大寺付近にあった本拠地を龍頭山に砦を移し、本格的に「岡崎城」を構えることとなった。この松平清康も、家臣の謀叛によって命を落としてしまい、その後を継承したのが松平元康の父である松平廣忠である。松平元康はこの「岡崎城」で天文十一年(1542)に誕生したのである。

この時代における「城」は、現在見るような天守閣のある「城」ではなく、平地において地形を利用した居館(きょかん)を造り、周囲に堀を巡らした簡単なものだったり、平地の背後にある山の上に、石垣・土塁・堀などによって小さな台地を造り、有事にここに籠もって敵を防御する城郭であった。空高く天主がそびえるような「城」になったのは、鉄砲や大砲が主力の武器となる安土・桃山時代に入ってからで、織田信長が築いた「安土城」の天守が日本の「城」の天守閣の始めとされている。『国史大辞典 第七巻』吉川弘文館 昭和六十一年 459~463P

現在の「岡崎城」は、慶長五年(1600)~正保二年(1645)にかけて改修した三重三階の天守閣を有する「平山城(ひらやまじろ)」形式の城であり、別名を「龍城(りゅうじょう)」とも称されている。明治六年(1873)に廃城となって解体されたが、昭和三十四年(1959)に再建されたもので、鉄筋コンクリート製造の天守閣である。・・・・・・・・資料①参照

以上のように、松平元康は、「桶狭間の合戦」を契機として、今川氏から離反して、18歳の若さで「岡崎城主」となったのである。駿府に残した築山殿と二人の子供を「岡崎城」に呼ぶことが出来たのは、二年後の永禄五年(1562)のことで、松平元康が捕えていた、今川氏の家臣である鵜殿長照の二人の子供との交換として妻子を迎えることになったのである。

2.「清洲同盟締結の家康」について

松平元康が、外面的にも戦国大名として自立した時期を、織田信長との和解による「清洲同盟」が成立した時とする説が有力である。この「清洲同盟」は、「尾三(びさん)同盟」または「織徳(しょくとく)同盟」とも称されるもので、この背景には、今川義元の死後、「駿府城」を継承した今川氏真が、武田氏や後北条の救援を優先して接近していたので、今川からの援軍を失った家康が、その代わりとして織田信長に援護を求めた結果である。これを史料で見ると、

「義元の子上総介氏眞は父の讐とて信長にうらみを報ずべきてだてもなさず、寵臣三浦などいへるものヽ妄言をのみ用ひ、むなしく月日を送るをみて、信長は 君をみかたとなさんとはかり、水野信元等によりて詞をひきくし禮をあつくしてかたらはれけるに、 君も氏眞終に國をほろぼすべきものなりとをしはかりましまし、終に信長のこひにしたがはせ給へば、信長も悦なヽめならず。(後略)」『新訂増補 国史大系 第三十八巻 徳川實紀 第一篇』吉川弘文館 平成十年 31P

「父の讐(むくい)」・・・・・・・父の今川義元が殺されたことへの「しかえし」のこと。
「寵臣(ちょうしん)三浦」・・・・氏眞のおきにいりの家臣で、三浦正俊のこと。
「妄言(もうげん)」・・・・・・むちゃくちゃな意味のない意見のこと。

このように、松平元康は、武将として資質に欠ける今川氏眞を見限って、織田信長との連携を計るべく清洲に赴き、同盟を結ぶ運びとなった。その様子を史料で見ると、「君清洲へ渡らせたまへば、信長もあつくもてなし、是より両旗をもて天下を切なびけ、信長もし天幸を得て天下を一統せば、 君は旗下に属したまふべし。 君もし大統の功をなしたまはヾ信長御旗下に参るべしと盟約をなして後、厚く饗應まいらせて帰し奉る。(後略)」『新訂増補 国史大系 第三十八巻 徳川實紀 第一篇』吉川弘文館 平成十年 32P

「清洲(きよす)」・・・・・・・・・現在の愛知県の北西部にある清洲市。
「君(きみ)」・・・・・・・・・・・松平元康のことで、元康への敬意を表す為に「君」を使っている。
「両旗(りょうき)をもて」・・・・・織田氏と松平氏の旗をかざして敵に向かうこと。
「天幸(てんこう)」・・・・・・・・天が与えてくれた恵みのこと。
「一統(いっとう)」・・・・・・・・統一すること。日本全国を支配すること。
 
以上の史料に見られるように、織田信長も元康を歓待し、喜色満面の中に締結している。この同盟を締結するには、織田家から水野信元・久松定俊の二人がたびたび岡崎城にきて交渉にあたり、松平家からは石川伯耆守数正が中心的な役割を果たしている。そして、永禄五年一月十五日双方で誓紙を取り交わしたのである。この「清洲同盟」の意味は、松平元康が一国の領主として確立し、今川から完全に独立していることも現すとともに、信長か元康のどちらかが天下を掌握した場合には、お互い天下人となった人の配下となることをも確約しているのである。

このような織田氏と松平氏が同盟を結ぶ背景には、越前の朝倉義景、北近江の浅井長政、甲斐の武田信玄、越後の上杉謙信、そ
して、相模の北条氏康等がいて、尾張や三河の領国を脅かす近隣の強力な勢力が存在していたからである。この脅威に対抗するには、織田氏と松平氏との同盟は必須のこととなり、周囲の戦国大名には強力な武力軍団の台頭となったと考えられる。このように織田氏と松平氏にとって重要な「清洲同盟」であるにもかかわらず、織田信長の言動を後世に伝えている、太田牛一が著した『信長公記』には、この件に関する事は全く記載されておらず、誠に不可思議な事と言わなければならない。
 いずれにしても、松平元康が今川氏から独立し、確実に自立して、戦国大名の一員となったのは、この「清洲同盟」の時点が分岐点であった、と考えられるのである。

3.「三河一向一揆と家康」について

永禄五年(1562)の八月頃に、「元康」を「家康」と改名しており、『徳川實紀』を見ると、「君ことし御名を 家康とあらため給ふ、(永禄四年十月の御書に、 元康とあそばされ、五年八月廿十一日の御書には家康とみゆ)(後略)」『新訂増補 国史大系 第三十八巻 徳川實紀 第一篇』吉川弘文館 平成十年 32P

以上のように記載されている。

何故、「元康」から「家康」に改名したか?理由は何か?について
の史料もないが、「元康」の「元」は、「今川義元」の「元」の一
字であることからして、この「元」を排除したのは、今川氏から
の離反と独立を意味するのではなかろうか、と考えられる。

次に、名前に「家」を入れた理由は、
●家康の母である「於(お)大の方」の夫であり、家康の父親代わりであった、久松俊勝が以前に使用していた「長家」の「家」の一文字を頂戴したのだ。
●清和源氏の祖である、「源義家」の「家」の一文字を頂戴したのだ。
以上の二つの説があるが、明確に示すものはない。

このように、織田信長と同盟を結び、名前も改名して、戦国の世に大名として躍り出たばかりの永禄六年(1563)の秋に、米の盗難事件が発生し、その事件を契機に三河の領内で一揆が起きてしまったのである。それが「三河一向一揆」と称されるもので、「一向宗」とは、鎌倉時代の浄土宗の僧侶であった「一向俊聖(しゅんしょう)」が創設した仏教宗派で、「浄土真宗」や「本願寺教団」を指す呼称である。

この「一向一揆」とは、家康の父の松平廣忠から三河三ケ寺【本證寺(ほんしょうじ)・上宮寺(じょうぐうじ)・勝鬘寺(しょうまんじ)】に与えられた「守護使不入(しゅごしふにゅう)【守護役人が入って犯罪者を追いかけたり、税を徴収する事が出来ない】」という特権を無視して、西尾城主の酒井正親(まさちか)が、法に触れて本證寺に逃げ込んだ犯罪者を捕えてしまった。また、家康の家臣の菅沼定顕(さだあき)が、上宮寺から米を強制的に徴収してしまった事に三河三ケ寺が特権を侵害されたとして、本證寺の第十代・空誓(くうせい)は浄土真宗本願寺派教団の信徒を集めて、菅沼定顕を襲撃させた。
 
この一向一揆の集団の中には家康の家臣も加わっており、また、家康に反発していた松平庶流(しょりゅう)の桜井松平家・大草松平家、三河守護家の吉良氏や今川氏の一部の家臣達も加わって松平家康打倒を目的として岡崎城を攻撃した。この一揆は、翌年の永禄七年(1564)一月に入り、松平家康は一揆の軍団を攻撃し、叔父の水野信元を通じて一揆衆との和議に成功する。しかし、家康は、一揆の収束を確認すると、和議を一方的に破棄して、浄土真宗本願寺派の寺に改宗を迫ったり、改宗を拒否した寺を破壊し、領内での浄土真宗本願寺派を禁教としてしまい、浄土真宗本願寺派の僧侶をことごとく領内から追放してしまって、三河一向一揆は全て収束することとなった。

この三河一向一揆について、『徳川實紀』には、「御家人等佐崎の上宮寺の籾をむげにとり入たるより、一向専修の門徒等俄に蜂起する事ありしに、普第の御家人等これに
くみするもの少からず、國中騒擾せしかば、 君御みづからせめうたせたまふ事度々にして、明る七年にいたり門徒等をとろへて、御家人どもゝ罪をくひ帰順しければ、一人もつみなひ給はず、有しながらにめしつかはさる。(後略)」『新訂増補 国史大系 第三十八巻 徳川實紀 第一篇』吉川弘文館 平成十年 32P

「普第(ふだい)」・・・・・譜代と同じ意味で、歴代当主に仕える家臣のこと。
「騒擾(そうじょう)」・・・さわぎ乱れること。
「帰順(きじゅん)」・・・・・反逆心を改めて、服従すること。
以上の史料に、「御家人等これにくみするもの少からず」とあるように、この一向一揆側には家康の家臣も加わっており、家臣同士で戦うことになった。一向一揆側に加わった家臣には、
本多正信・・・・松平家譜代の家臣であったが、一揆に加わり、収束後に行方不明となるものの、後に許されて家康に仕えた。
本多正重・・・・本多正信の弟で、兄と行動を同じくしている。
渡辺守綱・・・・一揆後、家康に許されて元に戻った。
蜂屋貞次・・・・一揆に加わったが、家康と戦う事が出来ず、一揆の終了後に許されて元に戻った。
夏目吉信・・・・一揆後、家康に許されて元に戻った。
内藤清長・・・・一揆側が敗北すると、松平家から離反して荻城(おぎじょう)に蟄居し、その地で死去した。

このように、三河で勃発した「一向一揆」は、松平家康の謀略によって、何とか収束をみたのである。

今回の「歴史講座」で見たように、松平家康は自立の大望を実現し、織田信長との同盟締結により、外敵との防衛力強化に成功してはいるが、内部的には、家康が心酔したはずの浄土宗にもかかわらず、その門徒達から一揆が発生するなど、前途多難な戦国時代への船出となっている。

まとめ

家康の幼少期は、人質となって不遇な暮らしを強いられていたものの、「桶狭間の合戦」を契機として、家康は大きな「運(うん)」を手にしたのではなかろうか。「運」を掴んだ人は人生の「勝ち組」となって幸福な生涯となる人がいる一方、いくら努力しても「運」にめぐまれず、本人の望むと望まざるとにかかわらず、「負け組」となって「みじめ」な人生を送らざるを得ない人もいる。
今回の「歴史講座」で見たように、徳川家康は、人生の最大のチャンスを掌中に納めつつも、これから幾多の苦難の道を歩み始めるのである。

参考資料


桶狭間の合戦の場所と岡崎城位置
中性の城(上)
『江戸時代に建てられた岡崎城』昭和34年再建

参考文献

次回予告

令和五年3月13日(月)午前9時30分~
令和五年NHK大河ドラマ「どうする家康」の時代
メインテーマ「徳川家康の人生模様を考察する。」
次回のテーマ「織田信長時代の家康」について

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