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第4回「清須でどうする!」(復習)

永禄4年(1561年)4月11日 「牛久保城攻め」(今川氏から独立)
永禄5年(1562年)1月15日 「清須同盟」(織田信長と和睦)
永禄6年(1563年)7月     「元康」から「家康」に改名
永禄9年(1566年)5月     「三河国平定」(牛久保の牧野氏が従属)
永禄9年(1566年)12月29日「松平」から「徳川」に改姓。三河守叙任。


 有名な同盟といえば「善徳寺の会盟」と「清須同盟」であろう。「善徳寺の会盟」は武田信玄、北条氏康、今川義元を太原雪斎が善徳寺に集めて結んだ同盟で、「清須同盟」は清須城で結ばれた織田信長と松平元康の同盟である。
 学者は、戦国大名が直に対面するのは非常に希であるとして「会談は無かった。手紙のやり取りで決めたのであろう」として、呼称も「甲相駿三国同盟」「尾三同盟」とした。

戦国大名の同盟は、
・攻守軍事協定
・相互不可侵協定
・領土協定
・婚姻
の4つの要素から成る。
 『どうする家康』では、攻守軍事協定と相互不可侵協定は「牛王宝印」(起請文)で行ない、領土協定は沓掛城の東を流れる「境川」と口約束した。婚姻については、「互いの子(竹千代と徳姫)が大きくなったら」かと思ったら、なんと、なんと、松平元康とお市! しかも、松平元康はお市の初恋の人だとは!(というか、あんな渓谷(どう見ても五条川ではない)や、清須や小牧山を見下ろせる山って、濃尾平野にある?)

※川のロケ地は馬場美濃守が討たれた場所(寒狭峡)の「大淵」。淵の底は竜宮城に繋がっているという。
※「お市(北川景子さん)の案内で元康(松本潤さん)が清須の街並みを展望しているシーンなどは、北区滝沢町の滝沢展望台一帯で撮影されました。 展望台からは遠江が一望できます」(てんこちょ浜松)
https://twitter.com/Hamamatsu_PR/status/1619992054289043458


松平元康が織田信秀の人質だった時のお市は満0~2歳だったかと。

・天文16年     竹千代(松平元康6歳)、織田信秀の人質になる。
・天文16年?    お市、誕生(諸説あり)
・天文18年     竹千代(松平元康8歳)、今川義元の人質になる。
・永禄2年3月6日   松平元康の長男・竹千代、誕生
・永禄2年10月12日  織田信長の長女・徳姫、誕生
・永禄5年1月15日 「清須同盟」
・永禄6年3月    竹千代と徳姫、婚約
・永禄10年5月27日  竹千代と徳姫、結婚


★どうなる瀬名姫

 心配ですね~。本人は「今川氏真は子供の頃から好きだったから大丈夫」と両親の前では気丈に振舞うが、竹千代が刻んだウサギの彫刻を入れたお守りを手に握って寝室へ(注)。戦国時代は女性も辛い。

(注)ドラマでは「正室は無理。側室も無理。夜伽で」とした。「正室」「側室」は江戸時代の用語で、当時は正妻/家妻であり、管理する領域が決められており、その部分に関しては、当主/家長であっても独断で処理できなかったという。その領域の1つが側室に関してである。今川氏真の正妻・早川殿は同盟相手の北条氏の娘であり、離婚して瀬名姫を正妻にすることは、同盟破棄を意味する。また、瀬名姫を側室にすることは政略結婚でありながら相思相愛であったという正妻・早川殿が許可しない限りできない。それで夜伽相手にされたのであろう。

 実際の瀬名姫のお守りは石である。現在は地蔵院(静岡県浜松市南区高塚町)の腹篭地蔵尊の胎内におさめられている。取り出してみると、何かある毎に強く握っていたのか、石には窪み(指の跡)があった(ご住職談)。


★どうなる家康

 今回は指をかまなかったし、「どうしたらいいんじゃ~」と叫ばなかった。少しは成長してる?
「力で今川を倒し、力で妻子を取り戻す」
織田兄妹に感化されて、王道から覇道にそれるのか?

★今後の『どうする家康』
・第5回「瀬名奪還作戦」
・第6回「続・瀬名奪還作戦」
・第7回「わしの家」
・第8回「三河一揆をどうする」
・第9回「守るべきもの」
・第10回「側室をどうする」
・第11回「信玄との密約」
・第12回「氏真」


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