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【信長の野望DS2で語る戦国】~清洲同盟の成立時期はいつか?~

前回に続きで、シナリオは1561年9月開始の「飛躍の時」、大名は徳川家康を選択し、ゲームを開始しています。

ゲーム開始時点の徳川家外交の状況について確認してみます。

ゲーム開始時点の1561年9月時点で織田とは、同盟状態で友好度がなんと100!
これ以上ない仲良しMAXの状態。
もちろん清洲同盟が既に締結されている状態です。

桶狭間の戦いから1年ちょっとでこの変わり様です。
ついこの間までは激戦を繰り広げてきた両家です。両家の間に色々と恨み、不満、不信があったのではないかと想像されますが、そんなものは、ご見事に矢作川の流れのごとく水に流され関係は修復されています。
両家のこの割り切り方は素晴らしい。いつまでも過去の無駄な振り返りより、未来志向。
織田にとっては美濃攻略、徳川にとっては東三河、遠江攻略を目指す上で両家の利害が一致した結果ですね。これで徳川は東への一方面作戦が可能となりました。

しかし、それにしても、清洲同盟ってこんなに早かった?と思われる人もいらっしゃるのでは?

諸説あるのですが、よくドラマで出てくる信長、元康の会見シーン。これは1562年1月ではと言われています。この説だとゲームの設定とは違いますね。

あと、別の説では、元康は1560年5月桶狭間の戦いで大高城から岡崎に帰還、今川から念願の人質から解放され独立をはたし、その直後に、織田と同盟を結んだという説もあります。
ただ、1960年年内は、元康は三河、尾張国境付近で織田勢と戦っている記録がありますので、まだこの時期は清洲同盟は成立してないし、今川方に付いていたのでしょう。

桶狭間で大将の首を取られたと言っても、さすが大国の今川です。周囲の三河の国衆が今川に与している状況であるならば反今川ははっきりとは打ち出せない。袋叩きにあってしまう。
慎重な元康は、1560年年内は一応今川方に付いていたもののはっきりと態度は示さず、周辺情報を分析していて、おそらく今川か織田か、勝ち馬はどちらなのかを検討していたのだろうと思います。

やがて西三河は織田の優勢が目立ってきます。
織田勢と戦いでは、元康は苦戦するようになってきました。しかし、拠り所である今川の援軍は来ませんでした。

この頃、今川氏真は北条に援軍を出していたため、三河方面の安全保障に気配りする余裕がなかったからです。駿府に近い相模小田原、氏真の妻は北条の人ということを考えれば、北条優先の選択は必ずしも間違いではないと思うのですが、これが徳川の今川からの離反を呼び起こした決定的要因となってしまいます。時期としては、1561年に始めころだろうと思われます。

元康は、織田との戦を通じ織田にはとても適わない。妻や子供が人質とされていても織田を取るという決断をします。元康はリアリストです。

こうして色々と考えてみますと、清洲同盟は1561年2月か3月ころ締結されたのではないかと思います。
実際に1561年4月に、今川方の東三河東条吉良氏を攻め、牛久保城も攻めていて、清洲同盟締結前に今川方を攻めるとは考えにくいからです。

従って、1561年4月にはっきりと今川に反旗を翻す姿勢を示すことから、ゲーム開始の1561年9月時点で織田と同盟、友好度100は間違いではないということになります。

一方、今川氏真からみれば、この時、松平元康、裏切ったか!というべき事態で交戦状態に入ったと認識されたはずですね。資料にも「岡崎逆心」「松平蔵人逆心」という言葉がこの頃から出てきます。

にも関わらず、ゲームでは、1561年9月時点で、徳川と今川は友好度は30と低いながらも、同盟はいまだに締結された状態にあるという不思議な状態…。
徳川の面従腹背の外交偽装によって騙されている今川なのか?

ゲームでは、今川領の遠江侵攻を目指すには外交で同盟の手切れを申し渡さないといけない。それをせずにこのまま攻めると家臣の忠誠度が下がってしまう。
ならば、いっそのこと、今川とは手切れせず同盟を維持したまま、今後予想される武田の膨張の芽を早めに摘む意味でも武田領信濃侵攻もありかもしれない。


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