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人質無残


「瀬名姫の手紙」(岐阜関ケ原古戦場記念館で3/30まで無料で展示中)
「瀬名姫の手紙」の翻刻(岐阜関ケ原古戦場記念館)

【現代語訳】お手紙差し上げます。皆様お元気とのことで、安心しております。今日は、於富(注:三河国から来た侍女)達と一緒に裁縫をしました。これで、綺麗な着物を着て皆様をお迎えできると、祝着至極に存じます(これ以上の喜びはありません)。亀姫は健康で、竹千代は日々成長していくので驚いています。元康様が早く御帰国されますことを、毎日待ち焦がれています。詳しくは、この手紙を持っていった使者からお聞き下さい。かしこ。
                         府中より
  18日                        瀬名

元康様
 今日はお富たちと縫物をいたしました。皆、きれいな衣で夫を迎えられると大喜びで瀬名も嬉しゅうございました。姫もすくすく育ち、竹もよい子に
しています。殿がお帰りになる日を瀬名は心待ちにしております。

木俣冬『どうする家康』

※添えられた押し花はナデシコ。花言葉は「純愛」。
※木俣冬さんって、木俣守勝のご子孫?
https://twitter.com/kamitonami

 『どうする家康』の瀬名姫や、於富などの侍女たち(三河武士の妻たち)は、夫が帰った時に1番綺麗な自分を見せようとして、瀬名姫にいただいた美しい布で、いそいそと着物を縫っていた。(於富は駿府で人質・竹千代を育てた祖母の名であるので、別の名の方が良かったと思う。)
 ところが、松平元康が、今川方の吉良義昭の東条城を攻めたことから、「松平元康逆心」を知った今川氏真は、この侍女たちを処刑した。

 実際に今川氏真が「松平元康逆心」を知ったのは、永禄4年(1561年)4月11日に今川方の牛久保城の城代・稲垣重宗を攻めたことであり、怒った今川氏真は、吉田城で人質としていた松平家家臣の妻子13名(妻10名、幼児3名)を龍拈寺口で処刑した。愛知県豊橋市富本町にはこの時処刑された13名を祀った「十三本塚」が残っている。(「富本(とみもと)」は「十三本(とみもと)」によるという。)

※三河国の人質は吉田城に入れられた。竹千代が駿府にいたことは、竹千代が人質ではなかったことの傍証とされる。ただし、付近の神社では、竹千代は人質として吉田城にいたとする。

★『豊橋百科事典』「十三本塚悲話(民話)」

今川義元(1519~60)は、桶狭間で織田信長の急襲にあって戦死した。今川氏真(1538~1614)が後を継いだが、勢力は衰え、それまで味方であった松平元康(徳川家康)は織田信長側につき、それに同調するかのように東三河の武士たちも松平方に寝返った。これに怒った今川氏真は、寝返った武士の家族ら13人の人質を串刺しの刑にせよと、吉田(豊橋)城代・小原鎮実に命じ、13人は竜拈寺口(豊橋市新吉町)で、槍で刺し殺された。その13人を葬った場所が、今の豊橋市富本(とみもと)町地内にある「十三本塚」だといわれている。

『豊橋百科事典』「十三本塚悲話(民話)」

★『とよはしの歴史』「十三本塚悲話」

 東三河の多くの武将が松平元康になびいたことを知った今川氏真は大いに怒り、当時、吉田城に人質としてとめておいたこれら武将の妻子を龍拈寺口で串刺しにした。処刑の年代については諸説があってはっきりしないが、永禄4年(1561)ごろであろうという。
 また、人数については「三河国吉田名蹤綜録」は、11人の氏名をあげる中で「浅羽三太夫子共」とあるは嬰児2人、「白井氏某妻」とあるは白井麦右衛門の妻と嬰児であるとしている。10人の妻たちと3人の赤子が命を奪われたわけで、むごい話である。
 「三州吉田記」によると、遺体は中野新田に葬り、ここを十三本塚と呼んだという。しかし、現在は小池坂上の公園内にある小円墳を十三本塚と伝える説もあり、はっきりしない。愛知大学角の高師口交差点の脇にある道標が犠牲者の霊を慰める塔であるともいわれている。

『とよはしの歴史』「十三本塚悲話」

★『戦国 人質物語』

★『豊橋百科事典』

★『とよはしの歴史』

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