人質無残
【現代語訳】お手紙差し上げます。皆様お元気とのことで、安心しております。今日は、於富(注:三河国から来た侍女)達と一緒に裁縫をしました。これで、綺麗な着物を着て皆様をお迎えできると、祝着至極に存じます(これ以上の喜びはありません)。亀姫は健康で、竹千代は日々成長していくので驚いています。元康様が早く御帰国されますことを、毎日待ち焦がれています。詳しくは、この手紙を持っていった使者からお聞き下さい。かしこ。
府中より
18日 瀬名
※添えられた押し花はナデシコ。花言葉は「純愛」。
※木俣冬さんって、木俣守勝のご子孫?
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『どうする家康』の瀬名姫や、於富などの侍女たち(三河武士の妻たち)は、夫が帰った時に1番綺麗な自分を見せようとして、瀬名姫にいただいた美しい布で、いそいそと着物を縫っていた。(於富は駿府で人質・竹千代を育てた祖母の名であるので、別の名の方が良かったと思う。)
ところが、松平元康が、今川方の吉良義昭の東条城を攻めたことから、「松平元康逆心」を知った今川氏真は、この侍女たちを処刑した。
実際に今川氏真が「松平元康逆心」を知ったのは、永禄4年(1561年)4月11日に今川方の牛久保城の城代・稲垣重宗を攻めたことであり、怒った今川氏真は、吉田城で人質としていた松平家家臣の妻子13名(妻10名、幼児3名)を龍拈寺口で処刑した。愛知県豊橋市富本町にはこの時処刑された13名を祀った「十三本塚」が残っている。(「富本(とみもと)」は「十三本(とみもと)」によるという。)
※三河国の人質は吉田城に入れられた。竹千代が駿府にいたことは、竹千代が人質ではなかったことの傍証とされる。ただし、付近の神社では、竹千代は人質として吉田城にいたとする。
★『豊橋百科事典』「十三本塚悲話(民話)」
★『とよはしの歴史』「十三本塚悲話」
★『戦国 人質物語』
★『豊橋百科事典』
★『とよはしの歴史』