【俳句観7】助詞って凄くないですか?
下手の横好きハイカーの自分は未だに助詞を理解しないままにやっている。なぜなら、何も知らない初心者でいる方が制約がかからなくて楽だからだ。でもちょっと調べてみると、助詞は作者が表現したい画の詳細を指定し、演出をするための小道具であることが段々と分かってきた。
助詞をマスターすることは他人様の句を読解するだけでなく、自分の作句、果ては作文のレベル向上にもつながる。とても汎用性が高い日本語トレーニングと言ってもいい。ならば、今回は助詞について少し調べてみることにしよう。飽くまでも、以降の文は個人の偏見を含みまくった勝手な解釈であるから、必ずしも正しくはないことを断っておきたい。
( 'ω' ).。oO( 興味がわいたら調べてみてね
「に」の個人的な解釈
「に」は無意識のまま使っていた。だからこそ、例えば「万年に籾焼く秋のあれかしと」や「隧道の澱みに蜘蛛の巣の灯り」などの駄句を量産してしまった。改めて見返すと、「に」は時間や場所を指定・接着するイメージで使っている。これ自体は俳句の用法として正しいらしい。
だが、問題は別のところにあった。「電線に鳥」とか「頭に落ち葉」、「窓に花壇」のように「〇〇(場所)に✕✕があるのが素晴らしいでしょう」風に作句すると、どことなく説明口調に聞こえるため、詩としては無粋に受け取られるらしい。ここが素人の見方と決定的に違っていた。考えなしに「に」を使うと、自ら詩も句も殺してしまう恐れがあるのだ。
そんな猛毒に見える「に」にも良い効果はある。先に大きな空間を見せておいて、そこから目の前くらいにまで見える範囲を絞るズームアップだ。これは、意図的に空間を狭めることで、頼りなさや切なさなどの詩を引き立たせる効果を狙った使い方だ。なので、「に」を前半に持ってくるのは避けた方が良さそうだ。
まとめると、「に」は時間や場所の指定・接着とズームアップ演出の効果がある反面、説明的になりやすい。素人にとっては扱いづらい諸刃の剣だ。
「の」(「が」)の個人的な解釈
「の」と「が」は調べてみたけれど、この2つの使い分けがイマイチ分からなかったのでほぼ偏見で言わせて頂こう。決定的に違うのは濁音の有無で、句に与える影響が大きく変わる。「の」は前後の名詞をふわっとつなぎつつ句を邪魔しない空気感を与える一方、「が」は直前の名詞を強調して一瞬そこでぶつっと切れる印象を与える。
また、「の」は「道の向かいの喫茶店のポットの水の沸騰の音の美しさ」みたいに次々とつなげて使うことができる。こんな芸当は「が」にはできない。これは一体どういうことだろう?素人の解釈では、「の」の用途は修飾か連結かの2タイプに分かれる。
連結について分析してみよう。自分が足を固定して立っていて、大きく1つの風景を見ている状況がある。言葉が進むにつれて、前にある名詞ほどボケ味が増して、今正に読んでいる名詞はちょうどピントが合う状態になっている。これが最後の名詞まで続いていく。つまり、ピントが飛び飛びに移動していくピント移行が起こっていると解釈できるのだ。
そうすると、いくつもの「の」で連結された言葉一塊は元からすべて1枚の画に収まっていて、一つ一つを小出しにする見せ方と言える。最終的に、ピントは最後の名詞に当たるので、そこに関する詩を用意しておくと「の」を使った効果が得られそうだ。ただ、修飾としての「の」が混在している場合は混乱しやすいので、使い過ぎには注意した方が良い気がする。
「を」の個人的な解釈
最近、芥川龍之介作の「蜜柑」のハイライトを抜き出して「灰色の暮色を落ちる『蜜柑』色」と詠んだ。1ヶ月前なら間違いなく「を」のところを「に」として盛大にスベっていただろう。
「に」との使い分けを迷いがちな「を」ではあるが、これについては分かりやすい例を思いついたので PowerPoint を使って描いてみた。
「水にみかんが落ちる」だと水面に向かって落下する描写になる。それに対して「水をみかんが落ちる」にすると、既にみかんが水中にあってそこを沈んでいく描写になる。このように助詞一つだけで、対象(モノや人)のポジションが意図的に変えられる。この理屈が分かれば、自分が描写したいシーンで対して「に」と「を」を正しく使い分けられるようになる。
物理的には「に」は対象が2次元平面に向かうイメージ、「を」は対象が3次元空間を動くイメージが強い。演出効果としては、「に」は写真を見下ろすような距離感を、「を」は実際の風景の中を動く躍動感を与えられる。
「を」だけに関して言えば「の時空の中を」の略形と考えれば良い。「を」の直前に来る名詞は移動する時間か空間だ。例に挙げたように、対象(水)に「を」をくっつけることもできるし、「冬を走る」のように時間に「を」をくっつけて使うこともできる。
「は」の個人的な解釈
直前の名詞を強調する「が」に対して、「は」は直後の名詞を強調するイメージがある。具体的には「春はあけぼの」のように、前後の名詞を対比して「(前名詞:春)といえば(後名詞:明け方)が最高よ!」と、詩にしては作者の価値観や主張がダイレクトに表れている。句の中にそういうものを入れたくない自分は余り使わなそうだ。
蛇足ではあるが、前後の因果関係の説明としての「は」もある。でも、説明的になって詩を台無しにするため、俳句で用いられることはないだろう。やってはならないことほどやってみたくなるので、一つやってみよう。
「青色のない海は夏もろとも失くなるようなものだ……」。作意は次のような感じだ。
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