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【読書感想文】志賀直哉「和解」

こんばんは!
結局のところ私小説は無敵だと思っている男、小栗義樹です。

本日は読書感想文を書かせて頂きます!
好きな本をジャンル問わず読み、題材として感想文を書く試みです。まだ読んだことのない本を読んでみようと思ってもらえればうれしいなぁと思っております。

本日の題材はコチラです

志賀直哉「和解」

小説の神様と呼ばれる白樺派代表:志賀直哉の代表作の1つです。父と主人公が和解をする話です。シンプルですが、主題は本当にそれだけです。

これだけシンプルな題材なのに面白い。それが「小説の神様」の力だと思います。僕は志賀直哉の作品の中ではこの和解が一番好きです。本当に、よく読者を飽きさせないなと感心してしまいます。達人にこんな言い方をするのは失礼なのかもしれませんが。

志賀直哉の私小説、特に和解は、性格的にも非常に共感できる作品です。この作品の主人公は、最後まで自分が全面的に悪かったと父親に対して折れたりしません。ここは良くなかったが、ここは曲げられないというスタンスを常に明快に父に訴えます。親にはっきりとモノを言うのは、今でも怖いと感じる人のほうが多いはずです。和解が書かれたのは大正時代の初期。明治時代から受け継がれてきた道徳(それは江戸時代に教え込まれたものも含む)が現代よりも圧倒的に根強いわけで、この主人公の価値観は当時の人からするとセンセーショナルだったと思います。

だからこの作品は、当時の時代背景からすると圧倒的な自己賛美なんだと思うんです。要するに、自分という存在をすべて肯定した、自分が大好きというテーマを持った作品と言えると思います。

僕は自分が大好きです。だからこの作品には激しく共感しています。

もう1つ、この作品は自分を肯定すると共に人としての正しさについても向き合っています。読んでいると思うのですが、夏目漱石の「こころ」の続きを読んでいる気分になります。

和解という作品は、主人公の父親が前時代的な価値観を強く持っていて、主人公にはその感覚がいまいちピンときていない。そのズレから衝突が起きて、最後には話し合いをして和解する。そんな話です。

前時代の教育、いわば国家を大事にするという道徳みたいなものは人間として正しいのか?もっと個人にフォーカスした方がいいのではないのか?

大正時代の文学はそういう特徴を持っていると僕は思っています。

志賀直哉は、そんな時代の移り変わりの中でで個人が人としての正しさを証明する方法の1つが「話し合い、理解しようとすることである」という事を提示したかったのではないかと思うのです。

人が人であるためには理解する必要がある。理解するためには話し合う必要がある。話し合い、理解することが出来れば自分が自分であることを証明することが出来る。とそんな風に考えたのではないかと思います。

この話は志賀直哉の実話をベースにしている小説ですが、本人も実際に父親と和解できたからこそ、和解できなければ出てこない言葉が沢山詰まっています。高揚感があったという記述も残っているくらいですから、その時の自己賛美はすさまじいものがあったはずだと思うのです。

今まで書いたように、とにかく色々な味のする作品であることは間違いありません。少しだけ前を向いて物事を動かしてみようというきっかけをくれる作品です。

古本屋や図書館にも置いてあると思いますので、興味があればぜひ読んでみてください。

それでは、本日はこの辺で失礼いたします。
また明日の記事でお会いしましょう!
さようなら~

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