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#君のことばに救われた

TOKYO MXとnoteがコラボして、「#君のことばに救われた」というテーマで投稿コンテストを開催します。

定番の記事一覧

最愛の母に「死んでもいいよ」と言った日

「ママ、死にたいなら死んでもいいよ」 大好きな母に、私が放った言葉です。 高校2年生の時でした。 ひどい娘だと思いますよね。 私もそう思います。 でも、母を救う唯一の言葉でした。 それしか見つからなかった。 話は少しさかのぼりまして。 私が中学2年生の時、父が突然死しました。 働きすぎによる、心筋梗塞でした。 父は建築系ベンチャー企業の経営者で、めちゃくちゃカッコいい存在でした。めちゃくちゃ憧れてました。 でも、中学2年生って、反抗期じゃないですか。 「うるさいなあ

頼りの娘から「死んでもいいよ」と言われた日

岸田ひろ実と申します。 車いすに乗って暮らしています。 もしかしたら「あ、かわいそうだな」「大変そうだな」「何かしてあげないといけないかな」と、そんなふうに思われた人もいるかもしれません。 11年前まで、私は普通に歩いていました。 歩いていたときの私も、きっとそういうふうに思っていたと思います。 「かわいそうだな」とか、「不幸せそうだな」とか、マイナスのイメージがありました。 でも私は、実は今までの人生の中で一番幸せだと思っています。 歩いていたときより、今のほう

頑張って、頑張って、頑張ったら死んじゃうよ

私は強い。 言いたいことはハッキリ言葉に出すし、そこで色んな人とぶつかっても、会話や対話を諦めない。そこを諦めたら何も生まれないと、中国の大地に教えてもらっているから。 曖昧なものを、曖昧なままで放っておけない。曖昧なものが増えていって、自分の人生が霞むのなんか嫌だ。白なのか、黒なのか、青なのか、赤なのか、目が覚めるほどにわかりたい。 なるようになるまえに、自分でなんとかできるものがあるなら、手を尽くしたい。後悔なんてしない。絶対に。 一昨年、去年、色んなことがあって

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どうしたら間違えないだろう?

浴びる言葉って大事すぎる

大学時代、アメリカ人の 教授がこんなお話をしていた。

¥300

夢を諦めさせてくれた人

先生へ ご無沙汰しています。さとうです。 と言ってもおそらく、先生はもう、僕の事を覚えていないと思います。 最後にお会いしてから、もうすぐ10年が経とうとしています。 僕は約10年前、先生から脚本を学んでいました。 10年振りにこうして文章を書いているのは、理由があります。 どうしても、先生にお伝えたいしたい事があります。 1人に向けて書くんだよ。たった1人に まず、その前に僕の事を思い出してもらわないといけませんね。 約10年前、プロの脚本家の方数名で脚本スクールを

夢は諦めてもいい。死ぬことすらできなかった自分へ

死ぬことすらできなかった僕は、骨が弱く、折れやすい身体で生まれました。 骨形成不全症という、2万人に1人の割合で発症する病気です。 これまでに骨折は20回以上。手術も10回以上は受けました。 幼稚園から小学校低学年の頃まではなんとか歩けました。 でも、小学校4年生になった頃から、車いすを使うようになりました。 歩きたい。みんなと一緒に走りたい。 そう思い続けて高校生になった僕は、休学し、自分の意志で手術を受けました。 結果。 自分の足で歩くことは、叶いませんでした。

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.6「目を見てくれたあの子」

じぶんの人生は、じぶんが肯定してあげるんだよ

世間では、よく女は上書き保存で、男は別フォルダー保存という。 女性は失恋したら、その場ではわんわん泣くけれども、3日も経てばスパッと記憶から消し去るように、新たな人生を歩み始める。 それが世の定説だと知りつつ、わたしは、本当に好きになったひとは今でもよーく覚えている。たぶん、びっくりするくらい、覚えている。この先何十年経っても、忘れることはないだろう。 それは、好きだという恋愛感情が時間とともに溶けてしまったとしても、尊敬の念と、その尊敬する彼から教わった哲学が、精神的

誰かといたいのに、一人でいたい。

”誰かといたいのに、一人でいたい” この言葉に思い当たる感情がある人は、一体どれだけいるのだろうか。 この題名を見てnoteを開いてくれた人がいたら嬉しいな、と思う。 私はこの言葉を初めて耳にした時、自分の気持ちを怖いほど的確に表すその言葉に驚いて、少し嫉妬して、そして大いに安心した。 「誰かといたいのに、一人でいたいって感情は理解できる?」 事の始まりは、私が所属するコルクラボというコミュニティで「居場所」に関する本を作り始めた事だった。コミュニティを学ぶコミュニテ

¥100

その一杯とキャラメルソースに、愛を込めて

学生時代、3年間スターバックスでアルバイトをしていた。早朝4時半に起きて出勤し、6時半から15時まで働き、そのまま大学へ行くというなかなかドMな生活をしていたが、今思えばあの日々が一番の青春かもしれない。大人になって思い出を整理できるようになった今、改めて昔のことを思い出してみても、スタバに勝る熱い記憶はあまりない。 夢だった編集の仕事をし、こんなふうにつらつらと長ったらしい暗い記事を地味に書き続けるわたしだが、意外なことにも、めちゃくちゃ元気に働くキラキラした(今よりはだ

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4コマ漫画「おめでとう」

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水没オフィスの22時

いま「死にたい」と おもっている こどもたちへ。

いま、死にたいとおもっている こどもたちへ。 がっこうに いかなくてもいいんだよ。 やすんでもいいんだよ。 にげても、いいんだよ。 ひとりでなやまず、そうだんしてみない? そうだんしたことが、おやにも、せんせいにも、ともだちにも、 ひみつにしてくれるところがあります。 LINEでも、そうだんできるよ。 わたしは、おわらいげいにんです。 エンタの神様で、おじょうさまげいにんとして、でていました。 あたまがいい、おかねもち みたいなネタがおおいですが・・ じつは、わたしは

社会人1年目、「会社」に所属した私が思考停止状態に。前へ進むため、仕事以外にも目を向けるようになった話。

社会の大海原に、「就活」という通過儀礼を乗り越え、飛び込んだ。 今までは、学生という立場。そこから社会人、社会の中の人になった。 初めは、目の前の環境に適応することに精一杯だった。 目の前の与えられた仕事を全力で。 これを続けていくと、社会人というやつに慣れてきた。それに伴い、思考停止という状態がやってきた。 1. 社会人になって変わったこと社会人になって、自由に使える時間が減った。 平日、会社が終わって家に帰ると、とりあえずご飯を用意して、食器を洗って、少しゆっ

#3-1どうやって「氷艶〜月光かりの如く〜」という異種格闘技を演出したのか? 〜キャスト・配役編〜

キャスティングも異種格闘技を揃えた「今回、キャスティングも異種格闘技ですが、そもそもキャスティングって誰が決めるんですか?」 主なキャストは、光源氏/髙橋大輔、朱雀君(後の朱雀帝)/ステファン・ランビエル、弘徽殿女御/荒川静香、松浦/柚希礼音、桐壺更衣&藤壺宮/平原綾香、頭中将/福士誠治、長道/波岡一喜、紫の上/ユリア・リプニツカヤ、朧月夜/鈴木明子、陰陽師/織田信成、咲風/村上佳菜子、桐壺帝/西岡德馬 ほか 「それもプロデューサーからの推薦と、僕が提案するのと両方だね。

¥300

父の子育て:32年分一括払い

私が子どもだった頃、父はとても忙しく、家に不在がち。家庭のことは、すべて母任せのように、感じていました。 ワンオペ育児で、かつ扱いにくい子ども。(具体的な話はこちらをどうぞ) 母と私は何度も修羅場となり、孤立と自立を抱えたまま育ちました。 たくさんの問題を抱えたまま、20歳になった私は、全てを捨てたくて一人暮らしを始め、それから実家に全く帰らない日々が何年も続き、ようやく家族の再生を始めたのが27歳の時でした。 だんだんと「家族」になってきた。そんな感じ。 32歳のと

TOKYO MXとnoteがコラボして、「#君のことばに救われた」というテーマで投稿コンテストを開催します!

TOKYO MX「ぶっちゃけTEENS 君のことばプロジェクト」とnoteがコラボして、「#君のことばに救われた」というテーマで投稿コンテストを開催いたします。 【3月26日 更新】 ・審査結果の発表記事を公開しました! 十代であれば、学校の同級生が言ってくれた“君のことば”、先生が言ってくれた“君のことば”、部活でチームメイトが言ってくれた“君のことば”。 二十代以上であれば、社会人になって先輩が言ってくれた“君のことば”、友達や家族が仲間が言ってくれた“君のことば”…

SHINeeの日本活動が、嫌いでした。

「私が勉強を頑張ったら、SHINeeが日本活動をやめてくれる。」 勉強机の前に貼られた付箋には、そんな悲しい言葉が並んでいました。 ひとりの韓国シャヲル(SHINeeのファン)がTwitterにあげた写真でした。 私がその写真を見たのは、もう何年前だったか覚えていません。きっともうそのツイートを見つけることもできないと思います。 SHINeeが、2011年に正式に日本デビューをしてからというもの、母国の韓国ではなく、異国である日本での活動の方が圧倒的に多くなりました。

疑いと信頼、その境界線で僕は思った

僕は、決して心が強い方ではないから、すぐにいじけてみたり、悲観的になったり、殻に閉じこもってみたり、どうせ自分なんてと卑下してみたりしてその場から立ち去ったりと、そんなに簡単ではない感情を常に抱きかかえてだましだまし生きてきた。 「意外ですね」 と言われることが多いのだけど、飲み会やパーティーは大の苦手で、「すみません、次があるので」などとあたふたしたそぶりを見せて、誰よりも先に会場から立ち去ることも少なくない。 誰かに悟られることなく、いつでもその場を抜け

夢見がちな私が彼氏に論破された話

十八歳の時、私は小説を書いて賞をもらったことがあります。 書籍化されて、出版社の担当さんもついてくれました。印税も、少しだけもらいました。 当時アルバイトをしていた本屋では盛大に祝福してくれて、私のサイン本は平積みで売られました。出版社の方も高級な料理屋であからさまにちやほやしてくれ、疎遠だった親戚も「10冊買ったぞ!」などと大いに盛り上がりお祝いをしてくれました。 このとき私は、他の人とは一線を画す人生を送れると思っていました。 特別努力したわけでもなく、なんと

【M子の夫からの視点】結婚6年目に、妻に「血の付いたナプキン」を見せてもらった(アンサーノート)

(うわぁ、すげえ血・・・) 期待していた方には申し訳ないが、ただ見たままを述べるような、赤ちゃんレベルの視覚的感想が最初に浮かんだ言葉だ。 ********************************************************************************** このnoteアカウントの主「M子」の夫です。今日は、 ↓ ↓ こちらの妻のnoteへのアンサーノートです ↓ ↓ *************************

親友は「お嫁さんになるのが夢だった」と言った

去年の夏、久しぶりに”親友”と会った。 親友とは家が近所で自然と仲良くなった。 たぶん小学校1年生の時には、お互い”親友”であることを決めたと思う。 毎日のようにふたりで色んなところに寄り道して遊んだ。 田んぼで小さなエビを捕ったり、 木や塀など色んな高いところに登ったり。 わたしたちは、なかなかお転婆だった。 共働きで親がいない我が家によく来ては 一緒に製氷機から氷を食べ空腹をしのいでいた。 (平成の話です) そのおかげか、家にお母さんがいなくても 寂しかった記憶は

[note始めます]ガンになった宮本亜門さんが伝えたかったこと。演出家から盗む、演出の道具

「演出はあくまで道具なんだよ」 宮本亜門さんのところでインターンとして入った数日後。 亜門さんはポロッと言った。 「道具とかって言われても、意味わからないです……」 俺は、亜門さんの個人事務所にインターンとして入った大学生であり、実は遠い親戚。行くところもなかったので、親が勝手に話をとりつけてきて、ここで入り浸っている。 「演出家っていうのはよくわからないけど、亜門さんって芸能人って感じですよね」 「かもね、でも文化人かな? まあ、なんでもいいよ」 「なんでもい

早大生が在学中に子供を身ごもったときのこと①卒論

いきなりヘビーなテーマですね。痛々しくて目を背けたくなります。 もう14年も前の話になりますが、大学3年生の秋に、子供を身ごもりました。 子供ができないための行動を怠ったわけではなく、「本当にこれは事故だっんだ!」と弁明したいのはやまやまですが、無計画で自己管理できていない人間だとレッテルを貼られれば、甘んじて受けるしかないでしょう… このあたりの話を書くのは勇気が要ったのですが、ずいぶん時間も経って、自分なりに消化できて来たこともあるので、ふりかえりながら、一度書いてお

幾つになっても、ずっと私は先生の生徒

 その日、運転しながら、ひどく傷ついた心で、泣いても泣いても涙が溢れ出てきていた。  何故こんなに腹立しさがおさまらないのか。こういう時、ホルモンのせいとか言ってほしくないんだよなあ。きっとそうなんじゃないかって自分では思っているけど。  家に着いてもまだ玄関先で涙が流れて仕方ない。  ポストを開けると大きな袋が入っていて、印刷の文字ではない宛名書き。「誰からだろう」と、涙でかすんで揺れる景色の中から、差出人の文字を見る。  中高生の時、お世話になった先生からだった。  

「接客」を義務教育に組み込めばこの世のクレーマーは消滅する説。

世の中には自分で体験してみないと分からないことがある。 その中の1つとして僕が体験しておいて良かったと思うことは接客である。 これは別に接客の仕事内容を学べて良かったというわけではなく、接客という立場から人に接する経験をしておいて良かったという意味である。 僕自身そんなに長く接客をやったわけではないが、アルバイトのときのコンビニ、ファミレス、そしてコールセンターと、初対面、そして一期一会のお客さんと触れ合うことは多かった。 まず、接客の経験がある人は店員さんに対しての

言葉の力

はじめまして、田中雅功です。 僕は 「さくらしめじ」 というフォークデュオを組んでいます。 今年は 結成5周年の年。 表現者としては まだまだだけど、 こういう風になりたい っていう理想像は何となく、できてきました。 僕は音楽が大好きです。 小さい頃から 疲れた時、 悲しい時は いつも音楽に込められた言葉の力が、 僕を励ましてくれていました。 僕はまだ17歳で、 人生経験もそこまで積んでいない子供だけど、 言葉の力を僕自身の力として、誰かを励ましたい。 そう思って

虐待サバイバーのわたしへ

はじめに 虐待サバイバーの私自身の気持ちの整理のための記事です。 “虐待サバイバー”とは、子どもの頃に虐待を受けた人が命を落とさずに成人した、 虐待を生き延びた人という意味で当事者間でもよく使われる言葉です。 当事者の方は、何がきっかけでトラウマがよみがえるかわかりません。また、センシティブなものなので不快にさせるかもしれません。具体的なことを書くので1つ目は読み飛ばしてください。気持ちの整理です。自分自身に向けたものですが、もしかしたら同じような気持ちでいる人に届いたら

大切な人との永別を実感させてくれたのは距離だった

今年の夏、おばあちゃんが亡くなった。 血の繋がらない父方の祖母。昨年のちょうど今頃書いた「ハイカラおばあちゃんと紅茶」というエッセイに出てくる。 本当にハイカラさんだった。損得考えず思ったことをズバズバ言う性格には時々困らされたけど。 夫と娘に先立たれ、少しずつ弱っていったおばあちゃんは、父母が同居する自宅と病院と介護老人保健施設を行ったり来たりしていた。一人で歩けなくなってからは施設で過ごすことも多かった。 * 「お知らせしときます。おばあちゃん、いま病院です。今

「保育園に入れた子どもは、いい子に育つ?」篠田真貴子さんと、小島慶子さんに聞いてみました

「9ヶ月の息子を保育園に入れて、働いています。周りからは『そんなに小さいのに、保育園に入れるなんてかわいそう』という声もありました。私自身も、保育園に息子を入れて、いい子に育つのか心配で…」 私は勇気をふりしぼって、質問した。視界には篠田真貴子さんと、小島慶子さんが、まっすぐ私を見て、うなずきながら、真剣に聞いてくれるのが目に入ってきた。 その夜、私はちょっぴりわくわくしながら、新橋のあるところに向かって歩いていた。自分ひとりで夜の都会を歩くなんて、いつぶりだろう?(ここ

「障害」とは何か〜澤海渡の当事者研究〜

「障害」とは誰が決めるのであろうか。「障害」とは私なのだろうか。 例えば、私は「ASD」という診断を受けている。公的な空間で私が「ASD」と名乗れば、私は「ASDの人」という認識を得るだろう。 では、「ASDの人」とは何を意味するのだろう。「ASD」という言葉そのものは記号であり、それそのものに意味はないからである。 推測するに、「ASD」という言葉から想起するのは、「コミュニケーションができない、不器用、特定の物事への執着」などだろう。確かに私を構成する要素の一部にそれ

目的地に着く前が旅行です。

素敵な言葉のおすそ分け

noteを始めたことをきっかけに 『言葉』というものに興味が湧いて 心に響いた文章をメモする習慣ができた。 そんなステキな言葉たちをおすそ分け。

¥300

手放し、自由になる

毎日やらなきゃいけないことがごちゃごちゃとある。絶えることなく押し寄せてくるタスクに流されて、自分を取り巻く様々な人々のニーズや感情に応えて、そうしているうちに日常の中に自分を失っていることが、よくある。 自分の人生に、世界に、何が大切なことなのか、分かったつもりになっているだけで、しばし立ち止まって深呼吸をして熟考することをおろそかにしているうちに、嵐に煽られて大波に飲まれた小さな舟のように、あらゆるものと一緒に流され、ごちゃごちゃの破片にしがみついて、海を彷徨っているよ

わたしは馬鹿じゃない

私は難聴です。 突発性であり進行性であり感音性の両側難聴です。 2014年の秋頃に人工内耳手術をして、今は装置を着けて生活しています。 その手術をする前、今より100倍くらい聴こえなかったときの話。 大学3年頃からどんどん落ちる聴力。 その頃はまだ障害者手帳がギリギリ持てないレベルだったので、普通の大学生と同じように就職活動をして、内定をもらい、就職しました。 就職してからも落ち続ける聴力。 正直普通にやってたら、ほとんど聞こえない。 メールやチャットツール、スケ

私をいかす言葉

「あなたのピアノは明日の活力になる」 ピアノを弾くことが好きだった私は、学生時代、素敵な出会いに恵まれて飲食店や公共の場でBGMを演奏する機会をいただいていた。 私のピアノは、趣味の範囲だ。専門ではない。 学校はもちろん音楽専攻ではなかったし、大学の頃のピアノは完全に独学だった。自分のすきな曲を弾いていたら自然とレパートリーが増えていったという具合だ。とにかく「好き」の気持ちだけが原動力で、それで成り立っていた。 単純に楽しかった。 30分や一時間という限られた時間をも

令和28年5月2日からの手紙

ゴールデンウィークが廃止されてからどれくらい経ったんだろう。 もうこの俺も随分記憶が曖昧になってきやがった。 令和22年か23年くらいにはもうなくなっていた気がするんだがもっと昔だったか? 煙草の喫煙が銃殺刑になってからというもの、俺は密造煙草の売人をやって生計を立てていたが、そのシノギもニコチンを自動追尾するあの犬型ロボットが導入されてからというものどうにもならなくなった。 あの戦争さえなければとも思うが終わったことを悔いても仕方ない。 アメリカが守ってくれるだな

自己紹介丨むぎあじ。は、こんなひと 。

生まれ→1989ねんうまれ 仕事→主婦(現在妊娠中のため、仕事休止) 特技→なんでもポジティブに捉える人らしいです。(周り談) 弱み→正義感強めの性格が、人生においてつまづきがち。 好きなたべもの→貝 趣味→本屋に行く、ドライブ、犬と寝る。 スキ→話すこと 最近の座右の銘→自分がどう思うかを基準に選択していきたい。 睡眠スタイル→寝言がハッキリし過ぎていて、つい周りを驚かせちゃう。たまに、踊りだすときもあるけど、力尽きて、寝るので、そっとしておいてください(笑

「言葉」って何!?

動物にはだいたい特徴があると思います。 ハリネズミならハリがありますし、ワニなら強い顎があります。 それと同様に人間にも特徴があるんです。 それは、言葉を発することが出来ること。 言葉を発することが出来るのは人間だけだし、 言葉を受け取れるのも人間だけ。 となると、最大の特徴は「言葉」になると思います。 伝えあって、受け取りあって。 どんな時でも言葉に触れている人々。 そこで人々は、 言葉によって感動したり、喜んだり、時には悲しんだり、怒ったりして 日常をすごしています。

「先生、高校辞めることにしました」

----------------------------------------------------------------------------- 忘れられないことばというのは、 いつか誰かに聞いてもらうまで胸にこびり付いて離れない。 でも、いつか聞いてもらってもそのことばをくれた相手のことを忘れることはあまりない。 忘れられないのは、ことばか、人か。 「二十歳の子がする目じゃない。寂しそう」 見透かすような、それでいて寄り添うような目を向けながらぼくにことば

適応障害になって、僕は”生きがい”を取り外していく

「死」がとなりに帰ってきた。 線路の音に、気持ちがうわずる。 嘔吐するのは週3回。 5階のベランダから、少し先の未来を浮かべる。 ここ半月は、睡眠薬なしでは寝付けない。 「適応障害だね。とりあえず休んで、それから考えようか」 定常案件の進捗、突発で入ってきているキャンペーン、チームや関係者の状況。 どう考えても自分が抜けたら回らないのに、もらったばかりの4文字のラベルは、防波堤みたいに思考の波を堰き止める。 ああ、言われてしまった、と思った。 サイズちがい異変を感

未練はないけど、たっぷりの後悔を抱えて

結婚しているときより離婚してからの方が、結婚や恋愛の相談をされることが多くなって、相談相手間違えてるでしょうよって思うのだけど、人はどうやら成功より失敗から学ぼうとするらしい。 この間も、結婚を迷っている人から「結婚生活はどうだった?」と聞かれたので「悪くなかったよ」と平坦に返し、さらに「結婚の決め手はなんだったの?」と聞かれたので「わたしが一番わたしでいれる人だったんだよなー」と答えながら、あー本当にそうだったなーとしみじみした。 とにかく絶対的な味方だった。寂しか

ママ、死にたいなら死んでもいいよ――17歳の岸田奈美さんが下半身麻痺の母に放った言葉

その日、岸田奈美さんから届く原稿を待っていた。 最後にひとつだけ残っている、巻末の「娘から母への手紙」。 約束は早朝6時。でも、もし早く送ってきてくださった時のために、深夜2時からパソコンをつけてスタンバイしていた。真っ先に目を通そうと思っていた。奈美さんの頑張りに応えることはもちろん、自分が純粋に、その原稿を早く読みたかったからでもある。 そして、午前2時30分。原稿は届いた。 「娘から母への手紙」  ママへ こうやって手紙を書くのは、覚えている限りで初めてです

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隻腕の男

17歳にかけられた「何歳だってはじめるのに遅いことなんてないですよ!!!」という言葉に背中を押された57歳の男性がnoteはじめました。

「何歳だってはじめるのに遅いことなんてないですよ!!!」 17歳にかけられた言葉だ。脳天ぶち抜かれた。57歳のおやじにこんなやさしい言葉をかけてくれるなんて、天使かよと思った。 今の世の中、誰だって生きづらい。10代のあなたたちの生きづらさは、私には、ほんとうのところわからない。でも、生きづらいことは確かでしょ。50代、もう、そろそろ60になろうかというおじさんだって、あなたたちには理解不能かもしれないけれど、生きづらいんだ。どうにかして、その生きづらさをぶちまけたいとい

つわりと私と新婚旅行

というわけで、いきなり妊婦になってしまった私。 そして心の準備などお構いなく、妊娠発覚一日目から容赦無く襲ってきた悪魔... それが”つわり”である。 妊娠するとつわりがあることは何となく知っていた。ご飯食べてウッとなるやつでしょ?吐いちゃうのは辛いよね。 .... そんなもんじゃなかった。 冗談じゃない。 まず地味に辛いのは、つわりには“個人差”が圧倒的にあるところだ。想像してみよう、自分の友人が「私、あんまりつわりないんだよね〜(笑)」と言って妊娠前とほぼ変

私のなかで私が可愛くあるように

#君のことばに救われた と言うけれど、 心を殺したことばも、救ってくれたことばも、大体は救うために用意されてはいない。 私を救ってくれたその人のことばも、その文字列自体はありきたりに吐かれることばで。 けれどもそれは私にとってはお気に入りの宝石のように胸できらきら光り続けている。 そんな私が大切にしていることばの話をする。 私はフィリピン人の母と日本人の父のハーフだ。 ハーフには「ハーフ顔」やら「日本人離れしたビジュアル」やら「モデルっぽさ」やら、やたらと見た目へのハード

¥100

貴方が笑えばそれで、

三年ほど前だったか。 久々に連絡をくれた友人から、あいつが亡くなったとの報せを受けた。 正確に言うと、随分前に亡くなっていたのがわかった、との事だった。 “あいつ”というのは僕が都内で売れないバンドマンをやっていたときのギターを担当していたメンバーだ。 あいつと僕は何かとウマが合い、たまたま家が近かったこともあってバンド活動以外でもよくつるんでいた。 物静かで、おっとりしていて、マイペースで、人類史上類を見ない方向音痴で、女子が飲みそうなカクテルばっかり注文する平和主義

「歩き出してみないと、こけることすらできない」

※一年前に書いたこの記事のリメイクになります。 座右の銘ほどではないのですが、 僕には生きる上での前提としている言葉があります。 それがタイトルにある「歩き出してみないと、こけることすらできない」です。 この言葉は、中学二年生のときに通ってたテニスショップの店員さん、、というか僕らからすればテニスショップのおっさんから言われた言葉です。 すごくはっきり覚えてて思春期だった僕に強く残っている言葉です。特に後半の「こけることすらできない」は響きました。 「こけること」が