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大切な人との永別を実感させてくれたのは距離だった

今年の夏、おばあちゃんが亡くなった。

血の繋がらない父方の祖母。昨年のちょうど今頃書いた「ハイカラおばあちゃんと紅茶」というエッセイに出てくる。

本当にハイカラさんだった。損得考えず思ったことをズバズバ言う性格には時々困らされたけど。

夫と娘に先立たれ、少しずつ弱っていったおばあちゃんは、父母が同居する自宅と病院と介護老人保健施設を行ったり来たりしていた。一人で歩けなくなってからは施設で過ごすことも多かった。

「お知らせしときます。おばあちゃん、いま病院です。今回は、ちょっと危ない状況なので…」

ある日の夕方に母からそうメールがきた。寝耳に水だった。慌てて母に電話すると、内臓の一部が突如機能しなくなったのだと言った。

今晩が峠とかそんな話じゃないよね?そうなら私すぐに帰るからね?と詰め寄ると「おばあちゃん、頑張ってくれてるから」と母は言った。何かあったらすぐに連絡するよ、とも。

私はアメリカで暮らしている。念のため日本へ帰って顔見てきたほうがいいんじゃないの、と夫は言ってくれたけど、もう少し様子を見てみることにした。いま思えば楽観的すぎた。それは祈りや願いにも似た現実逃避だったとも言える。

きっと大丈夫。そう思いながら息子の隣りで眠った。子どもの体は温かくて安心感に包まれた。同じ時間に海の向こうで、冷たくなったおばあちゃんを囲みながら、家族みんなが涙に暮れているとも知らずに。

夫と二人で日本帰省していた頃、私は一人だけ長く日本に滞在することが多かった。おばあちゃんのところへ会いに行くと必ず「旦那さんは?」と聞かれた。先にアメリカへ戻ったよ、と答えるといつも叱られた。

「旦那をほったらかしにするとは、何事か」

たぶん旦那さんだってのびのびやってるよ、それにおばあちゃんにもたくさん会えるからいいじゃない、と私が悪びれずに反論しても全然譲らなかった。再び会いに行った日には「まだおるんか」とさらに叱られた。

今のあんたにとって一番大切なものは何なのかちゃんと考えなさい。そう教えられているようだった。

あと何回こんな時間が持てるだろう。日本へ帰って再会するたびに、おばあちゃんは痩せ細っていたし、言葉も出てこなくなった。夫が一緒に会いに行くととても嬉しそうで、子どもたちを「孫よりもかわいい」と細い腕で抱いた。

「おばあちゃん、頑張ったんだけど…。昨日が仮通夜で家に連れて帰ってます。今日が本通夜、明日が葬儀です」

朝起きて、母から連絡がきていなかったから心底ホッとしていたのだ。なのに。ようやく知らせを受けたのはその日の夕方だった。日本はこの時間に朝を迎える。

は?どういうこと。
ちょっと待ってくれよ。

母に電話をするも出ない。すぐに仕事中の夫へ連絡したら「今晩、深夜1時発の台湾経由福岡行きの飛行機なら葬儀にはギリギリ間に合う」と教えてくれた。万が一に備えて事前にいくつか調べていたらしい。

出発まであと8時間ぐらいか。
まずは母に確認しなければ…。

一時間後に折り返しがあった。なんでもっと早く言わんかったの?夜中にでも知らせといてくれたら、朝から帰る準備ができたのに!とまくし立てる私に、母はキッパリと言った。

「帰ってこなくていい」

何でだよ。
それは私が決めることでしょうが。

子どもが小さいから大変だろうしとか、大きな台風がきてるから危ないよとか、たくさんの理由を「母が」述べた。なんでお母さんが勝手に決めるんよ、と半ば八つ当たりのように喚いた。

夫は仕事があるから帰れなかった。お別れの場に行くのならば、私一人で子どもたち二人を連れなければならない。端的に言って難しかった。ただでさえ、3歳1歳との長距離フライトは壮絶な時間が予想される。

私だけ帰れないだろうか。幸い連絡を受けたのは金曜日だった。週末だけ夫に子どもたちを任せて、2泊3日。月曜の朝に戻ってくれば…。

一刻も早く手続きを取らないといけないのに、時間は容赦無いほど過ぎていった。子どもたちの要求は絶え間なく続く。お腹を満たして、お風呂で綺麗にして、夫がようやく帰ってきて、一息つけた頃にはすでに21時を過ぎていた。

今から空港へ行って直談判すれば何とかなるかもよ、そう夫は促してくれた。けれど、そこへ行き着くまでにもやることがたくさんあった。この期に及んで迷っている時間なんかないのに。

もう無理だ。
最初から無理な話だった。

本当にいいの?と夫はなんども尋ねた。うん、大丈夫。そう答えて、私は骨になるおばあちゃんを想像した。やっぱり実感がなくて、ぼんやりした。

あぁ、そういえばお義父さんとお義母さんに言っておいたほうがいいよね?夫に電話してもらい、私から状況を一通り話した。すると義母は今にも泣きそうな声を詰まらせながら言った。

「すぐにそっちへ手伝いに行けなくてごめんなさい。おばあちゃんに会いたかったでしょう?」

堪えていることすら気付いてなかった涙が一気にボロボロと溢れた。夫以外にも、私の気持ちを分かってくれる人がいた。そう。ただ会いたかった。最後に。おばあちゃんに一目だけでも。

落ち着いたらお仏壇やお墓に手を合わせに行こうねと話し、義母との電話を切った。隣にいた夫が頭を撫でてくれて、私は子どものようにわんわん泣いた。夫も「ごめんね」と小さく呟いた。誰も悪くない。誰も。

夫はその後もしきりに何かを調べていた。私は気を紛らわそうと、コーヒーを飲みながらインターネットに流れる記事を適当に読んだ。

「ねぇ、これだったらまだ間に合うと思うんだけど…」

そう言って夫が見せてくれたパソコンの画面にはプライベートジェット機が写っていた。往復いくら?と聞いたら、4千万円と答えた。その瞬間、思わず吹き出してしまった。あぁ、私はもうおばあちゃんに会うにはそのぐらいしないとだめなんだ。その距離と、かかる時間やお金が「もう二度と会えない」ことを実感させてくれた。

深夜1時を過ぎて、ベッドで寝ている息子の横に潜り込んだ。変わらない温かさにホッとした。小さな体に身を寄せて、私はまた少しだけ泣いた。

翌日は透き通るような青空だった。悲しみの色はどこにもない。家族が眠らない夜を過ごしたのなんて、まるで私には関係がないと言われているようだ。

これから葬儀が始まるという時間に、母から電話がかかってきた。不謹慎だとは思うんだけど、せめて少しでも参列した気分になれるように…と携帯のカメラ越しに祭壇を見せてくれた。

遺影のおばあちゃんはくしゃくしゃな顔で笑っていた。最近撮った写真のようだった。あぁ、こんなに穏やかな表情もするんだ。晩年も楽しい瞬間がたくさんあったに違いない。そう思うと安堵にも似た気持ちになった。

兄や弟、従姉妹やその子どもたちが代わる代わる電話に出る。よかった。家族みんなに見守られて、おばあちゃんは旅立つことができる。

「おばあちゃんは、ちゃんとあんたの気持ちわかってるからね」

電話を切るときに母はそう言った。帰ってこなくていいと突っぱねるのは、母なりの私への思いやりだった。しばらくして送られてきた一枚の写真には、肩をすくめて立つ父の両脇に遺影を抱えた兄と骨壷箱を抱えた弟がいた。お父さん、小さくなったなぁと思った。

あれから数ヶ月が経ったけど、私は未だにお仏壇にもお墓にも手を合わせられていない。実家へ帰っておばあちゃんの遺影に対面したとき、多分もう一度だけ泣く。

バイバイ、またね。次に帰ってくるときまで絶対に元気でいてよ?いつも別れ際、おばあちゃんは何も言わずに私の手をぎゅっと握った。その度に小さな覚悟が求められた。今度はいつになるかわからない。その日はちゃんとくるだろうか。たくさんの言葉を飲み込んで、笑いながら手を振った。

自ら選んだ人生と引き換えに失ったもの。失わせたもの。その大きさを思う。

おばあちゃん、お見送りできなかったこと、私はこれからも何度となく思い返してはぐずぐずと悔やみ続けるよ。それでも「あれでよかった」って言える時がきっとくると思う。だって、あの日もし私がたった一人で駆け付けておばあちゃん会いに来たよって言ったとしたら、きっとこう叱ったよね。

「旦那と子どもを放ったらかしにするとは、何事か」

最後まで読んでいただいてありがとうございます。これからも仲良くしてもらえると嬉しいです。