『満ち欠けワンダーランド』12.再「生」
次の約束は特にしなかった。驚くほど熟睡して、鼻歌交じりで朝の支度をする。
母は尚もあからさまな態度をとり、イブの世話をさせず、挙げ句の果てに追い払われたが、昨晩、微酔を帯び、脱ぎ捨てたモノトーンの衣類、オッくんと車内で歌った動画、4人並ぶ写真を見れば顔が綻んだ。
ムギとゾノは楽しかった、のだろうか。
大真面目に観覧車のゴンドラから出て来て
「マジ危なっかしいわ、怪しげな奴に付いてくなよ」
「そんぐらい私、見極められる」
「なんたって元カレ俺だし」
「は?」
テンポのいい会話が始まり、こちらは取り残される。どこか昔のようだった(このシーンがフィクションでもおかしくない)。
現実に戻って、周囲と挨拶を交わす。
ここはアットホームな職場どころか親の会社で息子だとバレバレ、神経をすり減らしながら毎日過ごしていた。比べられて当然だが、有り難いことに雇用形態や素質の無さで判断されたらしく〈後継者ではないからこそ〉、皆一様に温かく接する。
息が詰まりそうな時も、先輩方は手を差し伸べて。要は甘えられる環境に身を置いた。
一心不乱に掴み取った夢が散り、妥協せず、どん底に落ちて死を考えた、あの日の絶望に染まった夕焼けを鮮明に覚えている。荷物はスーツケースとトートバッグ、握り締めたスマートフォンに『帰って来なさい』のメッセージ、みなとみらいの風景が霞み、立ち尽くした。躊躇いスローモーション、回らない頭、街が遠ざかった頃には光も消える。
こうして数年経ち、力を借りた父の目標は旧体質の改善であり、幾ら自宅にて母が働きかけても果たせぬ〈役割〉。どの道、苦しかった。
編集でカットできない、「あれがなければこれもなかった」というようなリピートで歳を重ねる。過去現在未来、俺はスイッチを切り替え、また自力で生きていく。今後はより慎重に行動しなくては……ただでさえ機嫌が悪いのに退職と引っ越しを彼女に悟られたら……背筋が寒くなった。
思わず後ろを見ると、カメムシが入り込んでいる。9月最終週の招かれざる客をそっと捕まえて外に逃がした。
「君は嫌われ者だけど飛べていいよね」
さようなら。
休憩中、暇潰しにスマートフォンで仲間のSNSを覗くと余所様のおすすめ投稿とやらが流れてくる。
文字のインパクト、特徴や原因、おや、当て嵌まる気が、低いといつまでも幸せになれなくて高めるべき? ほう、だから自分はダメなのか。簡単な方法を紹介、縛られたワード、うんざり、本来の意味を調べてふっと笑い、真のスタートラインに立った。
ポーカーフェイスで仕事をこなし、転職活動も進める。自室に籠り、画面と睨めっこ、ルイボスティーを飲んだ途端に噎せ、しばらく咳き込み、ゆっくり吸って、吐いた。
〈NG集としていずれ使える〉はさておき、思い切って誰かと話さない(少なめな)職業を選べば人間関係の悩みから解放される。刷り込まれた言葉、俺はコミュニケーション能力が乏しい、本当に?
「アーリー」
ゾノ、ムギ、オッくんが呼び掛けて、手を振った。ひとりひとりの気持ちに寄り添えたかな。
ふと、目が覚める。
窓際のチェストへ追いやられた小さな電波時計によると深夜で、即座に脳内再生されるイントロと、歌詞がまさにこちらと重なる。何度も救われてきた音楽に記憶が、浮かんでは消えて、一瞬のうちに潤む目、拒んでも止められなかった、溜め涙が頬を伝うと、後は猛烈な勢いで零れ落ち、声を殺して泣き、曲が終わりに近付くにつれ、どうにも耐え切れずに、身を震わせて噦り上げた。
だらりと鼻水が出て、詰まってしまい、仕方なく寝転がる。ぐちゃぐちゃに塗れた顔のまま口呼吸、全てが乾くまで、天井、常夜灯のオレンジ色をただただ見つめた。
綺麗事ではないリアルは胸にずしんと響き、枯れた感情が咲き乱れる。闇に紛れた希望をひたすら信じて、先日オッくんとの帰り道でも聴いた。
「無価値じゃなくて、まだやれる」
不安だけれども、一歩ずつ。
光陰矢の如し、金曜は中秋の名月だそうで、寂れた公園を思い起こす。そこに集わなくとも、楽しめたら。
湯船に浸かり、欠伸をした辺りの絶妙なタイミングでムギから電話が掛かってくる。
「年末年始の予定? 分かんないや」
「あー、新しいお仕事で変わるね。何となく実家に居辛いかもって、ごめん、チケットの抽選申し込もうと」
「ありがとう。ゾノも改めてみんなで遊ぶのに誘ってくれてる。そっか、もう俺だけじゃないんだみたいな、嬉しい」
照れ臭い台詞を聞き付けて、ドアが叩かれた。
ーーまさか廊下にいたとは。
素早く察知したムギは無言で切り、イブを連れた母に軽蔑の眼差しを向けられる。
「懲りないわよね。遊び呆けて、悠長に女の子と話しちゃう。どうせあなたなんか、」
「俺がお父さんの代わりになれるとか考えてたくせに? いや。いい加減、お母さんが主役の物語を生きられるようにするよ」
普段とは違う意味深長な演技に、相手が首を傾げた。