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掌編小説

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#掌編小説

アラジー【掌編】

アラジー【掌編】

 爪は伸びる。放って置いても伸びる。仕事が辛くても伸びる。ご飯の味がしなくても伸びる。傘を忘れて雨に濡れても伸びる。長い間一緒に暮らしていた人間の言葉が理解できなくなっても伸びる。

 だから私は今爪を切っている。爪切りから音が響く。連続する音の切れ間から、人間の言葉が時折紛れるけれど、私の耳はそれを理解できないでいる。雑音。爪切りの音の方がまだ心地いい。

 私は爪を切りながら思い出していた。今

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蜜柑空【掌編】

蜜柑空【掌編】

 蜜柑の皮に爪を当てると甘酸っぱい果汁が飛んだ。テーブルに雫が一粒。その一粒の水面に僕の顔が映る。感情のない顔。僕はそれほど悲しくはないんだ。
 同級生の高村からメッセージが届いた。
「明けましておめでとう」
 高村とは三年以上会っていない。故郷に帰るたびに一緒に食事をする仲。だけど、三年以上故郷に帰れていないから。こうやって、正月にメッセージを送り合うだけ。
「明けましておめでとう。今年こそそっ

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夜明け【掌編】

夜明け【掌編】

 薄紫色の縁に橙色の滴がひとつ。小さな雫は次第に大きくなり、やがては獣のように牙を剥き口を開け夜を飲み込んでいく。夜の叫び声が星々に響き渡る。怯えた星は震えあがり姿を隠した。朝だ。朝がやって来たのだ。
 雲にまとわりついていた闇は朝が奪い去った。漂白された雲に朝陽が滲む。甘酸っぱい果汁の色をした雲に吸い寄せられ、鳥たちが空へ飛び立つ。鳥の囀りと羽ばたきが地上へと降り注いだ。
 朝の光は正しい。僕は

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走る人【掌編】

走る人【掌編】

 口から吐き出される蒸気は空に昇る。朝陽の果汁に浸され桃色に染まり、横切った小鳥の羽根を撫でた。僕の足音に小鳥の囀りが交ざる。ドラム音のように鳴り響くのは僕の鼓動。
 仕事を辞めた僕は、早朝にランニングをするのが日課になった。通勤する大人も通学する学生もいない。世界に一人きりになった気分だ。冬の早朝はとても寒いけれど、走って十分ほどすれば、身体が温まり気にならなくなる。むしろ、冷たい風が眠気を吹き

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眠る人【掌編】

眠る人【掌編】

 腕や脚や胴体に蔦が巻き付いて僕の身体を引きずり込んでいく。睡眠。
 ベッドというのは、眠る為にあるものだ。
 時々、そんな場所に他人が眠っている時がある。そういえば、僕はこの人に以前、合鍵を渡していたかもしれない。
 僕が眠る為の特別な場所を誰かに占領されているなんて。怒りよりも悲しみが湧いてくる。怒れない。それは僕のベッドに無断で眠る他人が愛おしいからではなく、ただ、怒る程の気力が僕の身体に残

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チータラ食って生きててくれよ

チータラ食って生きててくれよ

 先輩が死んだ。
 一年ぶりに中谷からメッセージが届いていた。電車で何気なく確認したスマホの画面。タップしてメッセージを確認する。
「先輩死んだって」
 悪い冗談かと思った。一年ぶりのメッセージがこれなんて、悪趣味すぎる。
「ご愁傷さまです」
 そう返信する。
 中谷から返信が届いたのは、帰宅してからだった。コンビニ弁当で適当に夕食を済ませ、入浴の準備をしていた時。通知音には気づいたが、メッセージ

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輪っか

輪っか

 ぶら下がった輪っか。天井の梁から吊るされた輪っか。ホームセンターで買ったロープで作った輪っか。
 椅子に直立すると、輪っかはちょうど私の顔の前。輪っかの向こうには窓ガラス。窓ガラスの向こうには、光り輝く夏空。雲一つない夏空は、間違いなんて一つもない正義の象徴のようで目が眩む。
 蝉の声に混ざって、子供達の笑い声が聞こえて来る。隣家に幼いお孫さん達が遊びに来ている様子。
 私にも孫が一人いるけれど

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夏休みに見つけたそれは種なのだろうか

夏休みに見つけたそれは種なのだろうか

 エアコンが壊れた。夏休みだってのに。
 俺は居間の窓を全開にし、扇風機を回して、畳に寝転がり、憎らしいほど雲一つない夏空を睨んだ。
 北国だからエアコンなんてもの必要ない。夏は扇風機、冬は石油ストーブ、なんて昔の話だ。ここ最近、夏の気温は三十五度を軽く超えてきやがる。冬は断然石油ストーブの方が暖かいのだが、夏にクーラーなしでは命に係わる。高齢の祖父の為にと、去年中古のエアコンを取り付けたのだが、

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開きました【掌編】

開きました【掌編】

 秋は痛みが伴います。楓が深紅に染まるのは、傷から滲む血液に浸したからでしょう。
 そんな楓の葉も次々と枝から離れて、もう残り少ない。骸骨のような枝が、苦痛から逃れようと、空に助けを求め伸びています。だけど、空は高すぎて届きやしない。そんなこと、楓だってわかっているけれど、あまりにも辛くて伸ばさずにはいられないです。
 そんな苦痛を伴いながらも、季節は秋に向かおうとしているのに、私はダメですね。な

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焼かれる【掌編】

焼かれる【掌編】

 ずっと光の当たらない場所にいた。光は輝いていて、温かいことは知っている。だけど、私には、眩しすぎて、熱すぎる。日陰から光を眺めるだけで精一杯。光の端でもいいから少しでも触れたくて手を伸ばしては、指先が熱くなるたびに引っ込める。
 薄暗く湿っぽい場所から、溢れる光の下で笑いあう人々を眺めては羨む。どうして、あなたたちは、光の中でも平気でいられるの。私もそっち側に行きたいのに。
 ある日、気づいた。

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ある日暮れ【掌編】

ある日暮れ【掌編】

 溢れ出す朱色の光。光に飲まれ滲む窓枠。やがて消失する。崩壊する。まるで洪水のように注がれる夕陽。私の部屋に。壁に飛び散る夕陽の飛沫はシミをつくる。血しぶきみたい。永久に消えることのないシミ。
 熱い。手の甲が。押し付けられる夕陽の刻印。もう逃れることなど出来ない。やがて部屋は夕陽に満たされるだろう。私は夕陽の底に沈み溺れるのだ。
 揺れるカーテン。炎に包まれる。立ち上る火の粉。天井にぶつかり私に

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トリガーを引く【掌編】

トリガーを引く【掌編】

 今日も私はトリガーを引く。あなたの額に向かって。

 非接触型体温計。拳銃のような形をしたそれを今日も握りしめる。
 歯科医院の受付で働いている私は、感染症対策の為、受付の際に患者さんの体温を測っている。
 このご時世だ。患者さんも理解を示してくれている。慣れた患者さんは、何も言わずとも、診察券を出すと同時に前髪をかきあげ、私に額を向けてくれる。
「撃つなら、撃てよ」
 なんて言われているみたい

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死にたがり───彼女

死にたがり───彼女

「彼女が自殺未遂をしたんです」
 出勤前に山谷から電話。
「わかった。じゃあ、私が代わりにシフト入るから」
「すいません」
「支配人にも私から伝えておく」
「嶋さん、ありがとうございます」
 泣きそうな山谷の声を裁断するように電話を切った。

 私はホテルのフロントで働いている。山谷は職場の後輩で、五年ほどの付き合い。仕事の愚痴を言いあったり、時々プライベートな話もする仲である。
 山谷の彼女は、

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線香花火

線香花火

 柔らかなせせらぎに交じるのは、慎ましやかな火花。
 真夜中の河原で秘密の逢瀬。私達の指先には線香花火。放つ光が、あなたの存在を淡く浮かび上がらせている。
 これで最後。そう言い聞かせて、何度も何度も逢瀬を重ねた。だけど本当に、今夜で最後にしよう。二人の強い誓いを線香花火に託すことにした。いわば、これは、別れの儀式である。
 私達は一言も話さずに、ただ、線香花火を見つめている。飛び散る火花から聞こ

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