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輪っか

 ぶら下がった輪っか。天井の梁から吊るされた輪っか。ホームセンターで買ったロープで作った輪っか。
 椅子に直立すると、輪っかはちょうど私の顔の前。輪っかの向こうには窓ガラス。窓ガラスの向こうには、光り輝く夏空。雲一つない夏空は、間違いなんて一つもない正義の象徴のようで目が眩む。
 蝉の声に混ざって、子供達の笑い声が聞こえて来る。隣家に幼いお孫さん達が遊びに来ている様子。
 私にも孫が一人いるけれど、もう何年も会っていない。来年高校生になる年齢だ。
 子供は二人いる。長男はその孫の父親だが、お嫁さんの地元に移住してからは疎遠になってしまった。もう一人は、同居している次男。次男は出張が多く、ほとんど家にいない。代わりに家にいるのは次男の嫁。サクラさん。夫は七年前に他界してしまったので、ほぼサクラさんと二人暮らし。
 サクラさんと初めて出会ったのは十年前。次男が紹介したい人がいると連れてきた。快活で感じのいい印象だった。大人しい次男には、こういう明るい女性が合っているのかもしれないと思った。
 同居を始めたのは、夫が他界してからである。次男が一人きりの私を心配してくれたのだが、実際は家賃の節約の為だったのかもしれない。それでも、一人きりは寂しかったし、部屋も余っていたので快く受け入れた。
 初めは、割と平和に暮らしていたと思う。次男夫婦は共働きだったので、私は家事を全部引き受けていたし、それが二人にとっても助かっていたようだ。
 状況が変わり始めたのは、一年前。
 自転車で買い物に出かけた私は転倒し怪我してしまった。怪我の後遺症で、私は以前のように上手く動けなくなった。家事にも時間が掛かる。完璧にはこなせない。だから、サクラさんと家事を分担することになった。
「え、一日中家にいたのに、これくらいしか出来なかったんですか」
 仕事から疲れて帰ってきたサクラさんは文句を言う事が増えた。自分なりに精一杯やっているつもりだったが、うまく身体が動かない。情けなくてただ謝るしかなかった。
 その頃から、次男の出張が増えた。ほとんど家に帰って来ないので、サクラさんと二人きりの時間が多くなる。
 以前は明るく話しかけてくれたサクラさんだったが、次第に笑顔は消えていった。眉間に皺を寄せ、ため息をつき、低い声で話すようになる。以前のように家事が出来なくなった自分が悪いのだと思った。
「ご飯炊くくらい、出来ますよね。お米研いで、炊飯器のスイッチ押すだけですよ。それくらいやってもらわないと困るんですって、こっちは、仕事で疲れて帰って来てるんですから」
 仕事から帰って来たサクラさんが声を荒げた。
「ごめんなさい……今日は病院へ行って、さっき帰って来たところで……」
「言い訳しないで!」
 私の足元で茶碗が割れた。サクラさんが投げつけたのだ。私のお気に入りの茶碗だった。夫が誕生日に買ってくれた茶碗。夕焼け色をした美しい茶碗。花弁のように私の足元で砕け散っていた。
 サクラさんは
「もういい。外で食べて来るから」
 そう言い捨てて出ていった。
 私はしゃがみ込んで、無残に砕け散った茶碗の欠片を一枚一枚拾った。涙で視界が滲む。
「きれいな色だろう、これ」
 私に手渡してくれた夫の表情が浮かぶ。
「ごめんね……」
 夫に謝りながら、茶碗の欠片を拾った。捨てるわけにはいかなかった。宝物のように紙袋に入れる。そして、自室のタンスの奥にしまった。
 それ以来、サクラさんの言動はエスカレートするようになった。言い方はさらに高圧的になり、やがて、私の身体を痛みつけるようになった。
 初めは頬を平手打ち。次は拳で腹を。次はうずくまる私の背中を足で。
「邪魔なんだよ」
「見ているだけでイライラする」
「生きている価値ない」
 サクラさんは、私を痛みつけながら吐き捨てた。
 抵抗は出来なかった。恐怖で身体が動かなかったし、声も出せなかったから。ただ、涙だけが溢れた。嗚咽する私を見てサクラさんは、何かに満足したかのように笑顔を浮かべた。
 仕事のストレスが溜まっているのかもしれない。時々、電話で仕事の愚痴を誰かに話していたから。私に対してストレスを発散して気分を晴らしているのだろう。
 誰かに相談なんて出来なかった。
 嫁に暴力を振るわれているなんて、情けない話だから。話すだけでも惨めな気持ちになってしまうから。
 それに。
 私は本当に生きる価値なんてないのかも。
 最近、そう考えるようにもなって。
 ホームセンターでロープを買った。輪っかを作り天井の梁に結んだ。普段は見つからないように隠している。
 実際に実行はしない。ただ、ソレがあるっていうだけで、気持ちが落ち着いた。

 最近、友達が出来たんです。随分と年上の友達です。私のお祖母ちゃんと同い年なんです。
 出会ったのはバイト先のカフェです。カフェ……。嘘です。本当は昔ながらの喫茶店です。叔父さんが経営していて、夏休みの間だけ、アルバイトすることになったんですよ。
 そのバイト先に毎日いらっしゃるおばあちゃんが、私の新しいお友達です。
 穏やかな口調で話されて、笑顔が優しくて、上品なおばあちゃん。伊藤さんです。
 伊藤さんは、いつも窓側の席に座ります。コーヒーは苦手で、カモミールティを注文されます。そして、文庫本を開いて、三十分ほどで帰られます。
 いつもどんな本を読んでいるんだろう。気になって訊ねたら、何と、私の好きな山田詠美の作品で。
 伊藤さんみたいな年配の方も読まれるんだと、意外に思いましたし、それに、親近感と興味も湧いてきて、毎日話掛けていました。
 伊藤さんは、穏やかで上品なのはもちろんなんですが、尊敬できる方です。以前、学校での人間関係の悩みを話したら
「アホな人と戦っても時間の無駄よ。それよりカモミールティ飲んで、本読んでる方がずっと有意義」
 なんて言って、私の気持ちを随分と楽にもしてくれました。本当に素敵な方。大好きな方です。
「今度、伊藤さんの家に遊びに行きたいなぁ」
 何気なく言ってみたら、伊藤さんは急に表情を曇らせました。やっぱり、失礼だったかなと
「すいません、お邪魔ですよね」
 撤回しようとしたら
「そんなことないわよ。是非、遊びに来て。昼間なら家族もいないし一人きりだから」
 伊藤さんはそう言って、家の地図をメモ用紙に書いてくださいました。
「ありがとうございます。今度、美味しいケーキ買って行きますから」
「まぁ、嬉しい。待ってるわね」
 あの日以来、伊藤さんがお店にぱったり来なくなってしまいました。
 何かあったのでしょうか。心配です。家の地図だけじゃなくて、電話番号も教えてもらえばよかったと後悔しています。
 心配で堪らなくなった私は、バイトが休みの日に、ケーキを買って、伊藤さんの家を訪ねてみることにしました。
 伊藤さんの家は、私のバイト先から歩いて十分ほどの一軒家でした。古いけれど趣のある家。庭の草木が鬱蒼としています。三年前に旦那さんが他界していると仰っていたから、庭の手入れが行き届いていないのかもしれません。
 その鬱蒼とした樹木から降り注ぐ蝉の声。隣の家からは子供たちの笑い声が聞こえます。雲一つない青空を見上げ、大きく息を吐きました。
 伊藤さんが元気でありますように。
 そう願いながら、玄関の古びた呼び鈴を押しました。

 輪っかの向こうに広がる夏空。正しいことしかない夏空。輪っかをくぐったら、この理不尽な世界から抜け出せる。
 おいでよ。
 輪っかの向こうから手招きする夏空。くぐろう。そう決心した時だった。
 鈴の音が鳴った。その鈴の音は私の手首を引いて、椅子から引きずり下ろした。
 声がする。呼び止める声がする。
「伊藤さーん」
 幻聴なんかじゃない。
「ケーキ食べましょー」
 隣家から聞こえる子供達の声よりも、ずっと無邪気な声。理不尽の全てを破壊するくらいに。

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