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アラジー【掌編】

 爪は伸びる。放って置いても伸びる。仕事が辛くても伸びる。ご飯の味がしなくても伸びる。傘を忘れて雨に濡れても伸びる。長い間一緒に暮らしていた人間の言葉が理解できなくなっても伸びる。

 だから私は今爪を切っている。爪切りから音が響く。連続する音の切れ間から、人間の言葉が時折紛れるけれど、私の耳はそれを理解できないでいる。雑音。爪切りの音の方がまだ心地いい。

 私は爪を切りながら思い出していた。今日の仕事の事。外国人のお客様から代わりにレストランの予約を取ってくれないかと頼まれた。指定されたレストランに電話すると、店員からアレルギーの有無を訊ねられた。電話を保留し、お客様に英語でアレルギーを持っているか訊ねるが通じない。見かねた同僚が代わりに英語で訊ねてくれた。彼の英語の発音を聞いて、私は間違いに気づく。

「アラジー」

 左手の小指の爪を切りながら、私は小さく呟いた。「アレルギー」は「アラジー」と発音しないと通じない。今日はそれを学んだ。

「え、何?」

 さっきから、私に何か話しかけていた人間の声が届いた。今の言葉は理解できた。ずっと無言だった私から発せられた言葉に、何かを期待していたのかもしれない。しかし、それは、その人間に向けたものではない。説明するのも面倒なので、私は何も答えずに、足の爪を切り始める。

 花粉症デビューをしたかもしれない。去年までは平気だったのに最近鼻水が出る。コップの水が溢れるように、突然花粉症になるというケースはあるらしい。

 これもそういうことなんだろうか。よく理解していたつもりだった人間の言動が、ある日突然、全く理解不能になる事。これも、アラジーの原理と一緒なのか。

 親指、人差し指、中指、薬指がぼやけていた。涙が溢れていたからだ。鼻水なのか涙なのかわからない滴が一つ、ぽたりと足の甲に落ちる。これはアラジーだからだ。悲しいからじゃない。

 鼻をすすりながら、小指の爪を切る。

 パチン。

 鳴り響く大きな音。部屋に反響する音。何か大きなモノを切断する音。

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