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走る人【掌編】

 口から吐き出される蒸気は空に昇る。朝陽の果汁に浸され桃色に染まり、横切った小鳥の羽根を撫でた。僕の足音に小鳥の囀りが交ざる。ドラム音のように鳴り響くのは僕の鼓動。
 仕事を辞めた僕は、早朝にランニングをするのが日課になった。通勤する大人も通学する学生もいない。世界に一人きりになった気分だ。冬の早朝はとても寒いけれど、走って十分ほどすれば、身体が温まり気にならなくなる。むしろ、冷たい風が眠気を吹き飛ばしてくれる。
 眠気が吹き飛んだ頭に浮かぶのは、罪悪感だ。前職を辞めたせいで、僕は沢山の人に迷惑をかけたから。だけど、もう限界だった。心も身体も。ずっと、ずっと、僕は走り続けていた。そして、ある日突然、脚が動かなくなった。一歩も。
 ずっと仕事で走り続けて来た僕は、辞めた途端、何をしたらいいのか、わからなくなった。僕は何が好きで何をしたいのか。これから先の事を考えると苦しくて仕方なくて。何もしていない自分が歯がゆくて。そして、ある朝目覚めた僕は、外へ飛び出し走り出していた。
 僕は根っからのランナーなのかもしれない。走り続けていないと不安なんだ。立ち止まったら、もう二度と歩き出せない気がして。
 走る。走る。走る。呼吸、足音、鼓動、何もかもが、僕が生きている証明だ。溢れ出す。僕は生きてる。生きてる。
 仕事を辞める直前の僕は、明らかにおかしかった。まず夜眠れなくなった。そして、食べられなくなった。それから、笑わなくなった。生きているのに、生きている実感が湧いてこなくて。僕の身体から僕がいなくなって、空っぽになっていくようだった。
 早朝に走るようになってからは、空っぽの僕に、沢山のモノが注がれていった。それが、僕の血となり肉となった。僕の指先を動かし、腕を動かし、脚を動かした。
 汗の滴は、冬の空気にさらされて、一瞬で冷たくなる。その冷たさが、背中をなぞった時、僕は不意に振り返りそうになる。だけど、振り返ってはいけない。それは、手招きする過去と一緒だ。その冷たさは獣のように大口を開け、僕を飲み込んでしまうだろう。凍えてまた動けなくなってしまう。走り続けなければいけないんだ。立ち止まらず前だけを見て。走る。走る。走る。

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