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蜜柑空【掌編】

 蜜柑の皮に爪を当てると甘酸っぱい果汁が飛んだ。テーブルに雫が一粒。その一粒の水面に僕の顔が映る。感情のない顔。僕はそれほど悲しくはないんだ。
 同級生の高村からメッセージが届いた。
「明けましておめでとう」
 高村とは三年以上会っていない。故郷に帰るたびに一緒に食事をする仲。だけど、三年以上故郷に帰れていないから。こうやって、正月にメッセージを送り合うだけ。
「明けましておめでとう。今年こそそっちに帰りたいよ。そしたらまたメシでも行こう」
 返信する。
「もちろんだよ。ところで、吉田って覚えてる?」
 吉田。何度か遊んだことがある。明るく人当たりがいい奴だ。嫌いじゃなかった。
「吉田、覚えてるよ。どうかした?」
「先月、亡くなったんだ」
 吉田が死んだ。
 僕は返信する前に、テーブルの上に転がっていた蜜柑を手に取り、軽く宙に向かって投げた。掌で受け取って蜜柑を見つめる。窓から光が差して、蜜柑の皮を艶めかせた。窓の向こうを見やると、オレンジ色の光が雲の隙間から滝のように流れていた。窓ガラスから溢れ出す光が僕の部屋に注がれる。
「どうして?」
「病気だって」
「何の?」
「わからんけど」
 蜜柑の皮を剥いた。甘酸っぱい香りが鼻をくすぐる。
「若すぎるよな」
「ああ。結婚したばっかりだったらしい」
 残された奥さんの気持ちを想像したら悲しくなった。だけど、僕は蜜柑を口に入れる。甘酸っぱい果汁が口に広がり喉を潤した。
「それは悲しいな」
「悲しいよ」
 なんて言いあいながらも僕は涙なんて流さずに、蜜柑を頬張っている。おそらく、高村も涙なんて流していないだろう。
 僕は冷たい人間だろうか。いや、高村が死んだら絶対に泣くと思う。吉田の事は嫌いではなかったけれど、涙を流せるほど思い入れがないだけだ。そう、言い聞かせるけれど、少しだけ後ろめたい。だから、これ以上、吉田の会話をするのは止めることにした。
「お互い健康には気を付けないとだな」
「そうだな。健康第一でお互い頑張ろう」
「了解」
 高村との会話はそれで終了した。蜜柑の果実は全て僕の胃袋にある。残ったのは皮だけ。僕はその皮を手に取る。椅子に座ったままゴミ箱へ放り投げるつもりだった。だけど、僕は、逆の方向へ投げていた。窓へ向かって。
 蜜柑の皮は窓ガラスにぶつかった。ぶつかった皮はガラスにへばりつくこともなく、床に落ちた。
 窓ガラスの向こうから夕陽の波が押し寄せてくる。黄金色の飛沫を飛ばしながら。僕は飲み込まれる。蜜柑の香りがした。
 誰かが死んで泣くのは嫌だ。だから、少しで好きな人には僕より長生きしてほしい。でも、僕が死んで誰かを悲しませるのも心が痛む。だったら、僕は誰からも大切にされないように生きて、そして、誰よりも早く死ぬしか。
 そんなこと、可能なのか。
 僕はカーテンを閉めて、押し寄せる夕陽の波を堰き止めた。

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