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眠る人【掌編】

 腕や脚や胴体に蔦が巻き付いて僕の身体を引きずり込んでいく。睡眠。
 ベッドというのは、眠る為にあるものだ。
 時々、そんな場所に他人が眠っている時がある。そういえば、僕はこの人に以前、合鍵を渡していたかもしれない。
 僕が眠る為の特別な場所を誰かに占領されているなんて。怒りよりも悲しみが湧いてくる。怒れない。それは僕のベッドに無断で眠る他人が愛おしいからではなく、ただ、怒る程の気力が僕の身体に残されていないからだ。
 空気を読み、感情を押し殺し、愛想笑いを浮かべる。それが僕の魂を毎日毎日削っていく。ようやく解放される時間には、部屋に帰る為に使えるほどの気力が、ほんの僅かに残っているだけ。その残り少ない気力を何とか使いながら、ようやく帰宅。
 ほとんど空っぽになった身体を引きずりながら、帰って来た部屋のベッドに、誰かが眠っている。そこは、僕が眠る為の場所なのに。明日使う為の力を回復させる場所。回復できないなら、僕はこのまま停止してしまう。
「帰ってくれ」
 声を振り絞ると共に涙が溢れた。僕はその場に崩れ落ち、他人が眠るベッドの端に額をのせる。
「お願いだから帰って」
 僕の声はそれほど大きくはなかったが、気配を感じたのか、ベッドに眠る他人は目を覚ました。
「……おかえり」
 彼女は顔を伏せたままの僕に声をかける。泣いてる顔は見られたくなかったから、顔をあげることはしない。
「ごめん、今日は帰ってくれるかな」
 懇願するような僕の声に、彼女は状況を察知してくれたのかもしれない。
「……わかった」
 それだけ言うと、ベッドから起き上がり、何も言わず部屋を出て行った。僕は見送ることもせずに、ベッドに額を乗せたまま。彼女が玄関のドアを閉める音を、背中で確認してから顔をあげた。ベッドから他人が去ったおかげで涙は止まった。
 彼女が怒らなかった事に安堵する。彼女の名前は何だっけ。思い出せない。ともかく、誰かと争う為に残り少ない気力を使うわけにはいかない。僕は残された僅かな気力を使い、シャワーを浴びる。それから、ようやく念願のベッドに横になる。
 やって来る。あの蔦が。僕の腕、脚、胴体。僕の身体に巻き付く。身を委ねて、僕は睡眠に引き込まれて落とされて行く。深い深い深い。底なんてない。なくていい。どこまでも落ちて行きたい。
 眠る。それだけが僕の希望。それだけを望みながら日々を乗り越えてきた。他に大切な事が沢山あったような気もする。遥か彼方に見える小さな光。手を伸ばしたところで届かない場所にある。だから、もう、手を伸ばすことさえしなくなった。
 アラーム音が僕を睡眠から引きずり出す。起きたくない。だけど、起きてまた僕は働かなければならない。朝目覚める時、僕は毎回自問する。何の為に今日もまた働くのだろう。空気を読み、感情を押し殺し、愛想笑いを浮かべて。また今日も魂が削られるのが、わかっているというのに。何の為、何の為、何の為だ。
 今日もまた、眠る為だ。

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