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「パリに暮らして」 第13話

 柊二さんが、話を聞いてくれるかい? と言ったのは、その時だった。
「君は、実に三十年ぶりに巡り合った日本人女性なんだ」
 柊二さんはぽつりと言った。
「えっ? 三十年間、一度も日本人女性に出会わなかったの?」
 私は驚いて聞いた。柊二さんは笑いながら答えた。
「いや、勿論、パリに住んでいれば、日本人の女性と会う機会は沢山あるよ。だけどその中で誰かと知り合って親しくなったりするっていうのはなかなか難しい。ちょっと会話しても、お互いに何だかしっくりこなかったりしてね。だから君と出会って話が出来た時は、正直本当に嬉しかった」
「そうなの。ちょっと意外だったな」
 私は正直に言った。自分のことを〝不良中年〟などと呼び、フランスにおける三十年の世渡りを経て随分遊び人の雰囲気を発散していた柊二さんが言うには、本当に意外な言葉だったから。けれど今日夕食の席で老夫婦に語った時のように、珍しく柊二さんは弱気な自分を見せているようだった。
「君は今や僕にとって大切な存在なんだ。それだけはわかっていてほしい。そして、できればこの話を聞いてほしい。誰にでもできる話じゃないんだ。君にしか話したくない。そして、君にだけは聞いてほしい」
 柊二さんは、酔って饒舌じょうぜつになっているだけなのだろうか。それとも、ワインの酔いのせいで、普段は押し込めて暮らしている何かの抑圧の蓋が取り払われて、それが噴き出そうとしているところなのだろうか。判断はつかなかったけれど、柊二さんの声はその時とても真剣だったので、私は黙ってうなづいた。
 
 
 
 
 ――柊二さんは、二十代の頃、コンサルタント会社に勤めていたが、ある時大学時代の同級生と意気投合し、彼と組んでフランスの近代絵画を輸入販売する事業を立ち上げることになった。柊二さんがまずフランスへ飛んで、パリに現地事務所を立ち上げる手筈てはずになっていた。
 大学でフランス語を専攻していた柊二さんは、勤めていた会社を辞めて、夢と希望に胸を膨らませて日本をあとにした。知り合いもコネも何もない状態から、散々苦労した挙句、何とかビルの一室を確保し、事務所を整えて、ある程度メドがついたところだった。さてここから、と思っていた矢先に、その友人が突然資金を持って行方をくらましてしまったのだ。
 柊二さんは、無一文の状態でパリの街に独りぼっちで残されてしまった。
「まだ若かったんだ。あまりにも簡単に騙されてしまった。……でも、あの時ほど人間不信に陥ったことはなかった」
 溜め息をついて、柊二さんは言った。
 すぐに帰国して、友人を探し出そうかと思ったが、電話にもメールにも一切返答のない相手をどうやって探したらいいのか途方に暮れた。何よりも、信頼してこれから長く一緒に仕事をしていこうと思っていた親友の裏切りが、柊二さんを打ちすえた。何をする気力も失い、怒りと哀しみを抱えたまま、パリの街を彷徨さまよい歩いた。
 そんな時、ひょんなことから柊二さんは、一人のフランス人女性と出会った。それが、柊二さんの働いているあの〝故人の美術館〟の創始者、ジュヌヴィエーヴ・ペランだった。生活に困っている柊二さんを見て、よかったら自分のところで働かないかと誘ってくれたのだという。暗い思いを抱えたまま、日本に帰ろうかどうか迷っていた柊二さんは、深く考えずにこの誘いに乗った。
 マダム・ペランの個人的な美術館で管理や清掃を任されることになった柊二さんは、この年配の女性に感謝した。彼女は生命力に満ちあふれた女性だった。彼女といると、不思議な安心感とともに、失ってしまっていた気力がまた甦ってくるような気がした。ジュヌヴィエーヴの持つ、年上の女性ならではの鷹揚おうような魅力に囚われていたのか、雨のそぼ降る秋の夕暮れ、誰もいない美術館で彼女がそっと手を握ってきた時、全然不快な気はしなかった。
「その時彼女は五十三歳、僕は二十四だった。親子ほど歳が離れていたけど、どうしてだろう、相手が外国人だからかな、歳の差がどうという概念は浮かばなかった。それともその時僕はもう、フランスの色に染まりかけていたのかもしれないね」
 だから数日して彼女からデートに誘われた時、断る理由はひとつもなかった。当時彼女は既に独身の資産家であり、無一文の柊二さんが彼女と付き合うということは、体のいいヒモのようなものになるということを意味していたけれど、柊二さんとしては、そんなことを気にしている余裕もなかったし、実際、年齢にも関わらずジュヌヴィエーヴは魅力的な女性だった。そして、フランスという国の文化風土では、そういった恋愛は社会の中のありふれた一例に過ぎなかった。
 ジュヌヴィエーヴには、離婚した夫との間にもうけた一人娘がいた。それがリザだった。柊二さんが彼女に初めて出会ったのは、柊二さんが二十七歳、リザが十六歳の時だった。
「彼女はその時リセの二年生で、ちょうど難しい年頃だった」
 柊二さんは言った。リザは母親が恋人を持つということに、普段から不快感を示していた。それで、まだ付き合い始めたばかりの頃には、ジュヌヴィエーヴは柊二さんとの関係を娘にはっきりと知られないようにした。リザは柊二さんを、モンマルトルの母親の住居兼サロンに集まる沢山の彼女の男友達の一人だと伝えられていた。
 けれどその頃にはまだ珍しかった東洋人である柊二さんに、リザはある種の興味を抱いたようだった。彼女は段々と、しまいには毎日のように、アジア文化について、日本について、そして柊二さんの個人的なことまで質問をしてくるようになった。彼女が柊二さんとやっと距離を縮められたと思っていたその矢先、ジュヌヴィエーヴと柊二さんが結婚を考えているということを知ると、彼女は激怒した。
 その怒りようは常軌を逸していて、その夜のうちにリザは家出を決行したほどだった。ジュヌヴィエーヴと柊二さんは二人して方々を探し歩いて、男友達の家にいるところをようやく見つけ出した。
「本当は最初から、少しずつ感じてはいたんだ……」
 柊二さんは少し声を落として言った。
 それは、長い時間をかけて熟成される発酵物のように、徐々に、微妙な加減で変化していったものだった。リザの態度……彼女の自分を見る時の瞳の動き……。柊二さんは、この少女から大人になろうとしていた一人の女性が、自分を激しく求めているのを感じざるを得なくなっていった。
「彼女はひと言も口に出して言ったことはなかった」
 柊二さんは、遠い過去を思い出すような、胡乱うろんな声でそう言った。
 状況が変ったのは、十年前のことだった。マダム・ジュヌヴィエーヴ・ペランが病に倒れた。それまでいつでも健康そのものだった彼女が癌に侵されているとわかった時には、もう手遅れだった。柊二さんとリザは、たった二人の家族としてジュヌヴィエーヴに寄り添い、昼夜問わず付きっきりの看護をした。フランスでの一番の恩人でもあり、愛する伴侶でもある彼女を失うことは、柊二さんにとっては耐えがたい苦しみだった。日々迫り来るその時に怯えながら、あと一日、あと一時間だけでも、どうか長く生きてくれと祈りながら、力を失っていくその手を握り続けた。
 リザが自分の気持ちを打ち明けたのは、母の葬儀から一週間が経った日曜の午後だった。街路樹の下、カフェのテラス席でコーヒーを飲みながらリザはこう告白した。あなたは最初から、母の友人でもなく、恋人でもなかった。私のなかでは、一度だってあなたをそんな風に思ったことはなかったわ。彼女の言おうとしていることは明白だった。彼女にとって、柊二さんは初めて出会ったその時から、はっきりと恋愛の対象だったと。あなたのような人に会ったことはなかった。あなたのような人と巡り会えて、幸せだと思った。だからあなたには決して母の恋人になんてなってほしくはなかったし、あなたの娘のようなものになることなんて、とても考えられなかった。
 あなたはずっと、私の愛する人なのよ。
 熱のこもった瞳を真っ直ぐに向けて、そう言われた瞬間、柊二さんはどうしていいかわからなかった。ただ、目の前にいる美しい女性が、全く別の経緯で知り合えた相手なら良かったのに、そう思っただけだった。
 残念ながら、と、柊二さんは言った。君は僕の生涯の恩人であり愛する人であるジュヌヴィエーヴ・ペランの娘なんだ。僕は彼女を決して忘れないし、これからも愛し続ける。僕と彼女との間に、君に入る余地はないと思うんだがね。
 そんなのおかしいわ! 鋭い声で、リザは叫んだ。その天使のような容姿とは裏腹に、激し過ぎる気性の持ち主であることを、この時柊二さんは初めて知った。彼女は話し続けた。そんなの認めない。ママンはあなたより三十歳近くも年上だったのよ。ママンのことを愛していたというのはわかるけれど、でも本当のこと言うと、あなたとママンは似合わないってずっと思ってた。私との方が、きっと合うわ。私と過ごしてみたらわかる。それに、私はママンの娘よ。ママンの血を受け継いだ娘なのよ。そう……あなたに子供をさずけてあげることだってできるわ。そうよ、私はまだ産める。それはママンがしたくてもできなかったことだわよね。お願い。私を見て。女としての私をあなたに見て欲しいの。
 リザが爆発したように、本音を暴露するのを、柊二さんは呆気に取られて見つめていた。彼女は二十年来ずっと心に秘めていたことを全部吐き出しているのだ。そうか、そういう風に考えていたのか。最後に彼女が言った二つのことが、柊二さんの心に引っかかった。あなたとママンは似合わない。へえ、そうかい。それはどうも。あなたに子供を授けてあげることができる? ママンにはできなかったこと? ――それはリザがその時咄嗟とっさに思いついたことだったのかもしれないし、長い間心の中でくすぶらせていた思いだったのかもしれなかった。しかし―――。ジュヌヴィエーヴとの子供ならまだしも(彼は子供が欲しいと思ったことは一度もなかった)、その時柊二さんはこの娘との間に子供など決して有り得ないと思った。
 結局この日、リザは著しく柊二さんの不興を買っただけで終わることになった。おそらく彼女は、目の前で愛する男が自分に興ざめしていくのに気づくこともなかったろう。柊二さんが無言でテラスを去った時、彼女はまだ自分の話をするのに夢中だったので、突然退席されたことに不意打ちをくらったように、呆然と宙を見つめていたのだった。
 
 ――で、それ以来――。
 柊二さんは言った。
「リザと僕は、一応は雇い主と従業員という間柄できている。〝故人の美術館〟はリザに相続させたんだ。僕は彼女から母親を奪ったんだから、母親の遺産は渡してあげたいと思ってね。関係としては、父と娘のようなものだけど。リザは他に自分の仕事を持っているから、たまに彼女が美術館に顔を出す時だけ、僕らは一緒に仕事をする。複雑な関係さ。リザはずっと僕を諦められない。いつ何どきでも僕が他の女性といるところを見ると、あんな風に狂ったようになるんだ。君が訪ねて来てくれた時は、嫌な思いをさせたね。僕もあの時は、彼女の反応があまりにもわかり切っていたものだから、思わずふざけた態度を取ってしまった。謝るよ。リザは本当に激しい娘でね。僕への執着に取り憑かれているみたいなんだ。毎年ジュヌヴィエーヴの命日には一緒に墓参りをするというのにね……。墓の前でも、変わらず僕に愛を求めてくる。なかなかの強者だよ」
「でも、法的にも彼女は娘なんでしょ?」
 私は聞いた。柊二さんは、そうだとうなづいた。
「けれど、僕は彼女とは一緒に住まない。仕事場以外では、個人的に会わないことにしてるんだ。わかるだろ? プライベートで会えば、彼女は自分の気持ちをぶつけてくる。リザは我慢できなくて家にまで押しかけてくるんだ。その度に僕は引っ越してる。電話番号とメールアドレスは教えてあるけど、リザは僕が今どこに住んでいるのか知らない。もし見つけて訪ねて来たら、また引っ越すよ……」
 そこまで話すと、柊二さんは疲れたように、親指と人差し指で両方のまぶたを押さえた。そして、何かから解放されたような、それとも、困った問題に突き当たって思案するかのような、長い溜息をついた。
 
 
 
 
 ――「パリを出たら、チュニジアに行くんだって?」
 しばらくの沈黙のあと、目を開いて、突然柊二さんは言った。
「……聞いていたのね」
 私は言った。あの時の、ロベール・デュボワとの会話は、やはり柊二さんの耳に入っていたのだ。私はなぜか、悪だくみをしていてそれを暴かれたような気まずさを覚えて、咄嗟に目をらした。
「……では、君が愛した人というのは、チュニジアにいるんだ」
「そうよ」
 
 ここで、柊二さんは思い詰めたような声色になった。
「……前にも同じことを聞いたと思うけど、もしかして、物騒なことを考えているんじゃないだろうね?」
「……」
 私は何も答えなかった。考えていない、とは言えなかったから。ただ、柊二さんの目を、黙って見つめ返しただけだった。
「……頼むから、自分を危険にさらすようなことはしないでくれ」
 今度は私の両肩を掴んで、柊二さんは言った。

 ――わからない――

 私はその目を見つめ返すばかりだった。
「――せめて、衝動的な行動には出ないって、僕に約束してくれないか?」
 柊二さんは真剣な声で言った。まるで懇願こんがんしているようだった。
 
 ――衝動的な行動どころか――私は計画・・通りにやろうとしているのよ――。
 
 言葉にして口に出すことは、どうしてもできなかった。でも私は、確実に混乱していた。柊二さんの言葉によって、揺れ動き始めた心をどうしていいか、急にわからなくなった。私は定まらない視線で柊二さんの目を見つめ返しながら、彼のセーターのすそを握った。

「行くな」

 柊二さんは、私をいだいてそう言った。私はというと、彼のセーターをつかんだまま、胸に顔を埋めて、気持ちの混乱の嵐の中にいた。

 どうしたらいい。どうしたらいい。

 ……短時間で答えの出せる問題ではなかった。
 
 
 
 
 
 ――やがて私は顔を上げて言った。
「行かずに終わらせるわけにはいかない。これをやり遂げなければ、私は自分の足で歩くことが出来ない気がする。これはけじめなの。私の魂が、生きるか死ぬかの問題なのよ…。」
 
 柊二さんはじっと私の目を見ていた。……その中に何を見たのか、ただぽつりと言った。
「僕は分からず屋じゃない。ただ、君を失うということが、僕にとってどんなに痛手になるかは知っておいて」
 柊二さんは唇を私の唇に重ねてきた。甘くて切ない、ボルドーのワインの香りのするキスだった。
 
 
 ――君を信じてるよ、と柊二さんは言った。私は又、彼の胸に顔を埋めた。その匂いが、温もりが、愛おしかった。

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