〈受肉する光/ひかり/抽象の向こう側の具象〉デイヴィッド・ホックニー/David Hockneyの絵画、そして〈カメラ・ルミネセンス/camera luminescence〉
/2023/10/30/19:27//ありえないことがありえること//
デイヴィッド・ホックニー/David Hockneyの絵画の光/ひかりの中で/
デイヴィッド・ホックニー/David Hockneyの絵画が、
わたしたちに教えてくれること。
それは、わたし/わたしたちはわたし/わたしたちのそのまま、そのままのありようで、そのままの姿で、あらゆることをそのままにしたそのままで、わたしたちは向こう側へ辿り着くことができ、向こう側の存在となることができるということ。わたしたちが存在するこの場所で、この場所の存在でありながら、同時に、向こう側の存在になること。具象の存在であり個別的で局所的な具体的なものとして、それをそのままにしたままで、抽象の存在となり無形で普遍的で全体的な形而上学的なものとしてあること。ありえないことがありえることを、デイヴィッド・ホックニーの絵画が示してくれる。
〈受肉する光/ひかり〉〈抽象の向こう側の具象〉、David Hockneyの絵画
『春が来ることを忘れないで』
デイヴィッド・ホックニーの絵画が存在する。地上の光/ひかりが、そのまま天上の光/ひかりとなり、春のひかりとしてわたし/わたしたちに降り注ぐ。わたし/わたしたちは肉の体を持って生きる天上の光/ひかりに包まれることになる。絵画が絵の具で描かれた平面から離れ、光/ひかりそのものへと。
彼の絵画は具象でも抽象でもない地点に存在している。さらにそれは絵画であるということからも自由となる。絵画の極点として絵画でありながら絵画ならざるものとして変貌し出現するデイヴィッド・ホックニーの絵画。表現される見掛けの主題/モチーフの身近さの招き寄せる平穏とは裏腹に、それは未踏の領域にわたしたちを誘うことになる。絵画の革命がそこに存在する。
注意深く、繊細なる歩みで、デイヴィッド・ホックニーの絵画〈受肉する光/ひかり〉の誕生の物語を開始することにしよう。わたしたちはありえないことがありえる/ありえていることを知り歓びの光/ひかりに包まれるだろう。
/No.1//絵画と画家たち、あるいは、物質と光の遊戯/闘争を巡る物語について
絵画とは物質と光の遊戯と闘争を巡る物語であり、平面に封印された物質によって作り出された光の劇であり舞踏/ダンスである。画家は「絵の具と絵筆とカンヴァス」(あるいは、点・線・面的なるものと色彩的なるもの、描写の技法、平面的なるもの、の三つ)を用い限定された枠の中の空間に、舞台装置/道具/脚本/俳優/音楽/照明/効果等々、世界に存在するあらゆるものを持ち込んで、絵画という物質の光の劇を構築する。絵画という光Ⅹ物質の饗宴
時に、暗闇の洞窟の壁に、時に、信仰の家の巨大な天井と壁に、時に、部屋の中の画架に立て掛けた木枠の中の小さな布地に、時に、雑踏の中のストリートに、時に、電子映像のピクセルに。変転する絵画の形式。分化する絵画の目的と方法。しかし、絵画が絵画である限り、絵画という物質に時間が流れ、光の物語/劇が語られることになる。絵画の平面の中、光の舞踏/ダンス
絵画には一瞬、そして、永遠が存在している。内的なるものと外的なるものが具象と抽象の姿で現われ、一瞬と永遠の中で語られ、音楽が奏でられる。
/No.2//栄華を極めた巨大なる絵画の王国は、滅亡する。/写真術と映画術に奪われる記録性/内的なるものの表出の技法として、絵画は変貌する。
だが、時が流れ、わが世の春を謳歌し栄華を極めた巨大なる絵画の王国は、滅亡することになる。写真術に現実の風景/光景の記録を譲り渡す、あるいは、奪い取られる。絵画の描写が写真術の光の完璧さに屈服する。さらに動く現実を固定化することに成功した映画術に光の劇の時間の流れを映像として剥奪されてしまう。絵画の中の光と時間は写真と映像によって蹂躙され破壊される。絵画は敗北する。完膚無きまで。絵画は世界を描写する技法の幾つかの中の一つにすぎないとして玉座から引き摺り落される。絵画の終わり
しかし、絵画の純粋な記録性の終焉を意味するその事態が、絵画の新たなる可能性を切り開くことになる。言葉でもなく音楽となることもできない内的なるものの表出のための技法としての絵画。絵画自身を呪縛することに作用していた外的なるものの記録性が結果的に放棄され、絵画は自由となり、内的なるものへと向かう。絵画に内的なるものの表れとして、記録のための写実から切り離された、物質と光の直接的な相互作用が生まれることになる。
/No.3//具象と抽象、及び、以外/混沌の果て、絵画は画家の存在のための方便として墜落する。///高度資本主義システムの濁流の中を、波乗りする猛獣使いの画家たち
必然として、絵画は現実の写し絵であることから離脱し、現実的具象から非現実的具象へ、具象から抽象へと跳躍する。内的なるものの表れとして絵画という物質に全てが許されることになる。画家は思うがままに絵画を創造する。顧みるべきものは自分自身の内的なるものだけとなる。具象と抽象が融合し氾濫する。絵画という物質は意味/無意味からさえも切り離されて行く。
拡散と孤立と自閉。絵画は絵画のようなものと絵画ではないようなものとの区別さえ失い、偏狭と傲慢と無知の中で自滅して行く。絵画はそれが絵画であることの根拠を画家に全面的に依存した結果、絵画が絵画であることの根拠を自ら失う。画家の存在のための方便としての絵画。画家の語りの道具/ツールへ堕落する。美術の中の王として君臨していた絵画はすでに存在しない
20世紀に誕生し21世紀に精巧に組み立てられたコンピュータとインターネットが結合し達成された高度資本主義システムの濁流の中を、波乗りよろしく軽快にしかし必死にサーフボードから落下しないようにそれを掴んで、波の表面を泳ぐ画家たち。あるいは、それはまるで移動サーカスのテントの中のようでもある。鞭をしならせ動物たちを従わせる猛獣使いの創造者、猛獣の演技としての創造作品、華麗なる舞台、拍手喝采の観客たち、何もかもが見世物として開示される。波乗りと猛獣使い。画家たちはいつのまにか絵画を創造する者たちというはじまりの時を忘れてしまう。忘却の果ての絵画。
21世紀、画家は絵画を創造するだけでは画家として存在することができない。絵画の定義が画家に委ねられてしまったからだ。画家なのか、定義/批評者なのか、それとも、波乗りなのか、はたまた、猛獣使いなのか。画家たちは内的なるものの表れとして絵画を沈黙の中に置く事を断念/放棄してしまう
画家が自身の創造を自身の言葉で語ることを蔑ろにしてはいけない。さらに波乗りも猛獣使いも侮辱するつもりはない。波に乗ること、見世物小屋で観客を集めること、とても大事だとも思う。溺れることなく雑踏の中を生き延びるためにはそれらは必要なことなんだ。でも、創造の渦中の創造者が創造について正確に語ろうとすることは凄く危険で困難なことであり、ナルシシズムの罠がそこには待ち構えている。そして、画家は波乗りでもなければ猛獣使いでもない。絵画を描くということは内的な何かをそっと秘密の場所で光の中で広げることだとわたしは思う。絵画が暗闇の中に深く沈み溺れる。
/No.4// 絵画に選ばれし者、デイヴィッド・ホックニー、あるいは、抽象を超越した具象の絵画革命について、急がば回れ!
デイヴィッド・ホックニー、彼もまた濁流の最中にいた。しかし、彼は、彼の絵画についての強固な確信が、騒然たる現代美術の波に飲み込まれ溺れ、迷子になることから救うことになる。デイヴィッド・ホックニーは絵画を信じ、絵画もまたデイヴィッド・ホックニーを信じていた。デイヴィッド・ホックニーは絵画に愛された稀有な存在なのだ。同時代の画家の誰も彼と同じように絵画からの愛を授けられた者はいない。と思う。その意味に於いて、デイヴィッド・ホックニーとは絵画に選ばれし画家の中の画家だと言える。
なぜ、絵画が彼を選び、彼がそれにどのように答えたか、話はいよいよ本題に入ることになる。でも、その前に重要な事柄について語らなければならない。抽象と具象の話。具象でも抽象でもない地点にあるデイヴィッド・ホックニーの絵画のために避けて通ることができない。彼の絵画を具象絵画と捉えることは誤りではない。しかしそれは普通の意味での具象絵画ではない。クロード・モネの睡蓮、あるいは、ポール・セザンヌの林檎の次の段階の絵画。デイヴィッド・ホックニーの絵画は抽象を超越した具象なんだ。デイヴィッド・ホックニーが行った絵画革命について、そのために、急がば回れ!
/No.5///具象と抽象、及び、〈観る〉こと。/具象と抽象の交差する地点、//デイヴィッド・ホックニーの絵画を語る前提として。
抽象。無数の具象の骨格を時間をかけて熟成し蒸留し濾過し精製して、ようやくほんの僅かに取り出せることができるもの。具象の心臓を鼓動させる目に見えない聴くことのできない何か。鮮明な輪郭を持ち定形の個的な存在である具象の内部にあり、具象を駆動させ具象と伴に生成消滅する抽象。抽象は具象の対極ではない。抽象には具象の生と死が織り込まれ溶け込んでいる
抽象を抽象として手のひらに広げてみれば、シンプルで透明で曖昧で不定形な存在のありようの頼りなさに驚く。同時に、存在の普遍性に慄くことになる。抽象は存在の形式によって、抽象は具象が決別することができなかった個別性を棄て、深く広大に世界全体を覆い、遍く存在し貫通することになる
遍在する透明な必然としての抽象とその時その場所の不透明な偶然としての具象。出来事の中に具象と抽象が重ね合わされている。具象から抽象が生まれ、抽象の中で具象の影が蠢くように揺れ動く。抽象の中に無数の具象が透過され、具象の中に単数の抽象が沈潜している。人は事柄を語る時、事柄という具象を語りつつ、その中で息づいている抽象について語ることになる。
〈観る〉とは「入れ子構造に折りたたまれた具象と抽象の複雑に向き合い、世界の複合的重層性を垂直に横断し掴むこと」である。局所の中に大局を大局の中に局所を、部分の中に全体を全体の中に部分を観る。具象の中に抽象を、抽象の中に具象を観る。〈観る〉は具象と抽象の相反と同一の中にある
絵画という物質が語る光を巡る劇/ダンスには〈観る〉ことのありようが直接に刻み込まれる。従って、絵画の中には出来事の風景/光景だけではなく「人が出来事をどのように観た/観ているのか」その事態もまた痕跡として残される。絵画という場では観られた風景/光景と観るという行為と観られたものを固定する絵画技法の三者が一体化して完成される。対象と行為と方法。風景/光景と画家と絵の具の画材道具の一切。すべて一体として絵画が決定する。
抽象を超越した具象であるデイヴィッド・ホックニーの絵画は、〈観る〉こと、具象であること、抽象であること、事の本質を前提として語られる。
/No.6//デイヴィッド・ホックニーの絵画革命かけがえのないことを、わたしたちは見過ごしてしまっているのかもしれない。
デイヴィッド・ホックニーは人生の多くの時間をかけて複雑なジグザグした経路を辿り、その場所に到着する。本当は経路のひとつひとつを訪れ丁寧に彼の思考と絵画を読み解かなればならない。でも、今回、それは行わない。
理由は、「デイヴィッド・ホックニーが最後に辿り着いた場所のこと、そのかけがえのないことを、わたしたちは見過ごしてしまっているのかもしれない。」と思うからだ。そうだとすれば、わたしが行わなければならないことは、デイヴィッド・ホックニーの軌跡の細部を追跡することではない。今現在、デイヴィッド・ホックニーが最後に辿り着いた場所のこと、その意味を明確に言葉にして語ることだと思う。他の誰かが思う彼の絵画と大きく異なっているのかもしれない。誰かと共感/共有することは難しい話かもしれない
しかし、それでも、デイヴィッド・ホックニーの絵画革命を語る必要があるんだ。彼の絵画を平明さの中に閉じ込めてはいけない。絵画の創造の歴史の中で幾度も行われた決定的で致命的な誤りを繰り返してはいけない。わたしのために、わたしたちのために、画家のために、そして、絵画のために。
デイヴィッド・ホックニーの絵画とは、ありえないことがありえていること
/No.7//デイヴィッド・ホックニー/David Hockneyの絵画の変転の全貌、あるいは、彼の絵画との戦いの記録。/www.hockney.com/
デイヴィッド・ホックニー/David Hockneyの絵画の複雑なジグザグした路。彼の絵画の創造と彼に於ける画家であることとの局所的な戦闘の勝利と敗北について、絵画との戦いの彼の戦略と戦術について、試行錯誤の顛末、その長大な話は別の機会とする。彼の継続的な局所戦は巨大なる絵画の歴史との格闘でもあるからだ。絵画への愛と憎しみ、傷だらけのWarrior/ウォーリアー/戦士の戦記。以下のリンクを辿り、絵画の変転の全貌を確かめて欲しい。
/No.8//画家から〈光学機械/装置〉に変貌するデイヴィッド・ホックニー/絵画革命のWarriorウォーリアー/〈風景/光景そのもの〉の絵画を描くために、あるいは、絵画の根源的なパラドックスからの逃走
光学機械/装置としてのデイヴィッド・ホックニー。わたしたちはデイヴィッド・ホックニーが画家ではなく、光学機械/装置であることを知らなければならない。彼を画家と認識してしまうと、彼の絵画の本質の多くを見失しなってしまう。内的なるものとしての絵画という物質は否定されることになる。
デイヴィッド・ホックニーの絵画革命は画家と絵画の否定の地点から誕生する。絵画革命としか言い表し得ない理由。彼は円熟した物分かりの良い心優しき画家ではない。絵画革命の只中で格闘中の荒々しきWarrior/ウォーリアー/戦士だ。現代美術の魔獣たちが跋扈する弱肉強食の荒地で、剣と盾を手に、絵画の革命者・デイヴィッド・ホックニーが戦う、その全てを見よ!
画家はあらゆる風景/光景を描き出そうとする。戸外で陽射しを浴び風の中、肉眼で捉えた風景/光景、既に失われた記憶の中にしか存在しない風景/光景想像力の生み出す風景/光景、夢の中で遭遇する謎の風景/光景、形ならざる色彩ならざる風景/光景、さらに風景/光景ならざる風景/光景まで、世界全て全きの自由の中で、画家は目を開き、あるいは、目を閉じ、眼前に広がる風景/光景を自身が会得した奥義を尽し描写する。画家は世界のすべてを描く。
画家は絵画という物質のすべてのありようを決定することができる。画家の自由と孤独。すべてが画家の手の中にある。画家は「絵筆と絵の具とカンヴァス」によっていかなるかたちにも絵画を形成することができる。そのことを裏返せば、画家の生み出す絵画という物質のすべてが、画家の内的なるものとならざるを得ないことを意味している。画家は絵画の何から何まで全部を決めないといけない。自由であるはずなのに、自己からは自由となることができないとうこと。いつのまにか世界に存在する光の中の風景/光景が画家の自己の中の風景/光景となる。風景/光景そのものへと迫りながら、風景/光景から遠ざかるという画家の絵画の創造に於ける根源的なパラドックス。
デイヴィッド・ホックニーは〈絵画を描くために〉画家の宿命的なパラドックスから自由となることを試みる。彼は〈絵画を描くために〉意識的に無意識的に自身が画家であること、内的なるものを絵画という物質として表出し吐き出す者であること、20/21世紀の画家の根拠から距離を取り遊離する。
「デイヴィッド・ホックニーの20/21世紀の画家の根拠からの浮遊についての細部」はここでは書かない。話は前後し、部分的に重複することになるけれど、『/No.7//デイヴィッド・ホックニー/David Hockneyの絵画の変転の全貌、あるいは、彼の絵画との戦いの記録』のリンクを辿り、彼の創造の格闘の記録を目の当たりにして欲しい。必然としての絵画革命その道行きを。
そして、デイヴィッド・ホックニーは〈風景/光景〉の要請により、自身が画家であることを停止する。デイヴィッド・ホックニーは画家から〈光学機械/装置〉へと変貌する。彼は〈風景/光景そのもの〉を描くために自己を放棄する。それが、彼が「〈風景/光景そのもの〉の〈絵画を描くために〉」必要不可欠なことであったことは言うまでもない。かくして、デイヴィッド・ホックニーは〈光学機械/装置〉として〈風景/光景そのもの〉を切り取り描写することになる。〈光学機械/装置〉が画家の自己の内側へ取り込んだはずの風景/光景を自己の外側へと取り出す。〈風景/光景そのもの〉の光が溢れる。
以後、彼の絵画は画家が描き出す内的なるものとしての絵画という物質ではなくなる。絵画の創造が、画家の内面の表出から離れ、〈光学機械/装置〉の画像/映像の結像となる。デイヴィッド・ホックニーという名前の画家の内面は〈光学機械/装置〉を組み立てるものとして存在し作用し、彼は絵画の創造の根源的なパラドックスから脱出/逃走し自由になる。光学絵画革命の誕生。
デイヴィッド・ホックニーの絵画革命、画家から〈光学機械/装置〉への変貌
わたしたちの目の前に存在するものは、そうした意味に於いて絵画ではない〈デイヴィッド・ホックニー製の光学機械/装置〉が映し出した映像がそこに
/No.9//発光する部屋/カメラ・ルミネセンス/(camera luminescence)
デイヴィッド・ホックニー製の〈光学機械/装置〉に呼び名を付けるとすればカメラ・ルミネセンス(camera luminescence「発光する部屋」)となる。
カメラ・オブスクラ(camera obscura、ラテン語の「暗い部屋」の意味/カメラ・オブスキュラ/写真の原理による投影像を得る装置/カメラ・オブスクラに由来する写真機の「カメラ」という名前)。さらに、カメラ・ルシーダ(camera lucida、「明るい部屋」、ヨハネス・ケプラーが著書『屈折光学』(1611年)で記述した装置)。そして、21世紀、デイヴィッド・ホックニーのカメラ・ルミネセンス(camera luminescence、「発光する部屋」)。
カメラ・オブスクラ、カメラ・ルシーダ、カメラ・ルミネセンス。カメラ・オブスクラは写真術と映画術を生み出し、カメラ・ルシーダは今も尚写実のための魔法の器具としてあり、カメラ・ルミネセンスはデイヴィッド・ホックニーによって体現された。機構/仕組みも構造もそれぞれ全く異なるのだが、そこには人類の世界に溢れ返る光を精密に像/イメージとして描写/固定することへの欲望の営為の記憶が存在している。人は未だ営為の途上にある。デイヴィッド・ホックニーはダゲレオタイプのルイ・ジャック・マンデ・ダゲール、シネマトグラフのリュミエール兄弟と続く光の画像/映像形成装置の発明者たちの系譜に連なる者であり、後継者の一人ということになる
しかし、デイヴィッド・ホックニーとダゲール、リュミエール兄弟との間には明解な深淵が存在する。彼らと異なるのは、デイヴィッド・ホックニーのカメラ・ルミネセンス(camera luminescence、「発光する部屋」)がデイヴィッド・ホックニー自身であること。デイヴィッド・ホックニーの絵画革命は、画家である生身の自分自身の身体を〈光学機械/装置〉に変身させる、という誰も成し得なかった空前絶後の方法によって達成され完成に向かう。
デイヴィッド・ホックニーが〈光学機械/装置〉であるという不可解で奇怪な事態。受け入れることは困難なことかもしれない。でもその事態を飲み込むことなく、彼が最後に辿り着いた場所で行った絵画革命の真の意味を理解することはできない。とわたしは思う。デイヴィッド・ホックニーの絵画革命が何を成したのか、核を刳り貫くことになる。いよいよ話は最終話となる。
/No.10// カメラ・ルミネセンス(camera luminescence「発光する部屋」)が風景/光景から光を取り出す。/絵画という物質から絵画という静止した光へ。
デイヴィッド・ホックニー製の〈光学機械/装置〉、カメラ・ルミネセンス(camera luminescence「発光する部屋」)によって撮影された画像/映像は、風景/光景の像/イメージが何かしらの物質へ固定されたものではなく、〈風景/光景そのもの〉の〈静止した光〉となる。カメラ・ルミネセンスは風景/光景から物質と戯れ争う光を光のまま取り出す。絵画という物質から絵画という光へ。カメラ・ルミネセンス/camera luminescence/発光する部屋/の名前の示す通り、絵画は輝ける静止した光となり、わたしたちの前に取り出される。写真術/映画術が〈光学機械/装置〉を用いて光を物質/情報に現像し定着させる術とすれば、カメラ・ルミネセンス(camera luminescence)は世界の風景/光景を構成する光そのものを静止する光の結晶とする術となる。
外見的には見掛け的には、絵の具と絵筆とカンヴァスなりiPadなりで、風景/光景がこれまで通りに、絵画という物質/情報として導き出されているように見えてしまう。しかし、そうではない。デイヴィッド・ホックニーの絵画では、「カメラ・ルミネセンス(camera luminescence「発光する部屋」)によって撮影された絵画という輝ける静止した光」としなければ、言い表すことのできない出来事が生じているからだ。アナログ/デジタル以上、以外の。
そこにはありえないことがありえている。わたしは語らなければならない。論理を超えて存在するデイヴィッド・ホックニー/David Hockneの絵画、ありえないことがありえていることを。わたしの言葉の限界を超え、語ろう。
/No.11//〈受肉する光/ひかり〉、そして、〈抽象の向こう側の具象〉
デイヴィッド・ホックニー/David Hockneyの絵画の光/ひかり。
絵画は風景/光景自身の光へと変転する。デイヴィッド・ホックニーの絵画は絵画であることを超えて、風景/光景そのものの光へと変容する。描写からそれ自身へ。デイヴィッド・ホックニーは描写することを止める。カメラ・ルミネセンス(camera luminescence、「発光する部屋」)が起動し、世界に存在する風景/光景は像/イメージとしての絵画という画家に描かれた物質の反射光から風景/光景それ自身の発光へ。静止する光へ変換される風景/光景
誰もが飛び去ることを痛みと伴に受け入れることしかなかった光が、地上で静止する。風景/光景が発光し静止する。絵画が発光する光そのものとして取り出される。デイヴィッド・ホックニーの絵画は地上の光のまま天上の光となり、光/ひかりが受肉する。出現する。肉を持ち肉を生きる光/ひかりが。
デイヴィッド・ホックニー/David Hockneyの絵画:〈受肉する光/ひかり〉
そして、〈抽象の向こう側の具象〉
絵画は光となることによって具象でありながら抽象を超越することになる。絵画という物質の形式としての具象が、絵画という光の形式としての具象となる。具象が抽象を超越する。具象を内包する抽象を具象が内包し、抽象を内包する具象を抽象が内包する、その入れ子的内包構造が超越される。
具象が具象でありながら、抽象でもあるということ、あるいは、具象が具象でもなく抽象が抽象でもなくなること。デイヴィッド・ホックニー/David Hockneの絵画は〈受肉する光/ひかり〉〈抽象の向こう側の具象〉となる。
あらためてこの事態を正確に述べるならば、「絵画という物質がデイヴィッド・ホックニーのカメラ・ルミネセンス(camera luminescence「発光する部屋」)によって絵画という光に変容し、絵画という光の形式としての具象が絵画という物質の形式としての抽象を超越する事態」となる。カメラ・ルミネセンス(camera luminescence)が光を静止させることによって具象が〈抽象の向こう側の具象〉へ転化する。〈抽象の向こう側の具象〉の恵み。
抽象の誘惑。繰り返し繰り返しデイヴィッド・ホックニーを襲う誘惑。風景を解体し、かたちと色彩のエッセンスを取り出し、抽象として表現する抽象の誘惑。彼はそれを振り払う。クロード・モネの「睡蓮」、ポール・セザンヌの「林檎」、そして、デイヴィッド・ホックニーの絵画。〈抽象の向こう側の具象〉としての絵画。厖大な絵画の歴史の中で生じるほんの僅かな奇跡的な出来事。わたしたちは抽象を超越する具象の存在を目の当たりにする。
〈受肉する光/ひかり〉、そして、〈抽象の向こう側の具象〉
デイヴィッド・ホックニーの絵画、ありえないことがありえていること。 ありえないことはありえないのではない。ありえないことはありえるのだ。ここはここでありそこはここでありここはそこでありあそこはここへと。 わたしたちはわたしたちのそのままの姿で、わたしたちの向こう側へ行く。
No.12//春の到来 イースト・ヨークシャー、ウォルドゲート 2011年/ The Arrival of Spring in Woldgate,East Yorkshire in 2011(twenty eleven) /
あとがき/01//〈わたし/わたしたちの領域〉から逸脱するデイヴィッド・ホックニーの絵画、あるいは、〈自己表現〉という病の偏狭と傲慢と痛ましさ
〈わたし/わたしたちの領域〉から逸脱するデイヴィッド・ホックニーの絵画
デイヴィッド・ホックニーの絵画は光学機械/装置による所産と言える。そうした意味に於いて、彼の絵画は必ずしも〈自己表現〉ではないことになる。それをデイヴィッド・ホックニーと彼の絵画の否定とするのか、あるいは、肯定とするのか。現代を生きる者が誰も逃れることのできない「〈自己表現〉という病」に対する向き合い方が示されることになる。デイヴィッド・ホックニーの絵画はわたしたちの創造/表現の現在と未来のありようの形までも射程に収めている。〈自己表現〉という病にデイヴィッド・ホックニーは深く沈んだ後、潜り抜け、〈自己表現〉とは異なる未踏の領域へと向かう。
〈自己表現〉という病。〈自己表現〉が病であることは言うまでもない。表現の対象が方法を問わず自己であることを避けることができず、自己以外のもの/ことを人が表現することが不可能であること。自己以外を表すことができないわたしたち。囚われ以外の何であろうか。病と言わず何と言う。〈自己表現〉が病であるという明白から目を背け、〈自己表現〉だけがわたしたち人間の自由の勝利であるかのような轟々たる賛美。世界の中の自己が自己の中の世界と入れ替わる。〈自己表現〉という病の偏狭と傲慢と痛ましさ。
存在するそれの放つ美しさ。紫の花が咲き、青い空を白い雲が泳ぐ。一片の風景の存在の美、さえ人は、美しいという気持ち/感情として〈自己表現〉の枠の中に押し込める。純粋なる存在の美しさに向き合うことの、単純にして複雑なる困難さ。表現者はいつも存在の美しさのために自己と戦い敗れる。
わたしたちは良くも悪くも自己から自由になることはできない。わたしがわたしである根拠としての自己。そこからわたしたちは一歩も外へ出ることができない。自己に閉じ込められたわたしたち。わたしたちは、わたしたちがわたしたちである理由である「〈自己表現〉という病」から逃れられない。
芸術の創造の最大の難問。自然科学は無慈悲にも神と自己を手放す。しかし、それが宇宙の法則の探究に成功させる。見出される秩序の広大さと深遠さ。自然科学は宇宙の大きさに等しいものを手に入れる。翻って、芸術の偏狭の醜悪さ。〈自己表現〉に限定される芸術の創造の自閉性。本来、芸術が根源的に宇宙大のもの/ことであるにもかかわらず、〈自己表現〉という病に罹患したわたしたちは自滅するように、〈自己表現〉の中に埋没し溺れる。
ほんとうだろうか?
わたしたちは〈わたしのこと/もの〉しか表現し得ないのだろうか?
芸術は〈自己表現〉という病からわたしを救済することができないのか?
違う違う、そうじゃない、そんなことはない!わたしは、わたしたちは、わたしのこと/ものしか表現し得ないかもしれないけれど、表現されたわたしのこと/ものを誰かに伝え送ることができるんだ。ことばによって線と色彩によってメロディとビートによって。そして、それは誰かに届き、誰かが受け止め、誰かと分かち合うことができる。発信された声の形が途上で壊れ、届いた時には姿形が変わっていても、しかしそれでも何かが誰かに届けられる。わたしから放たれたわたしのこと/ものが、わたし以外のもの/ことになる。
だから、〈自己表現〉とは自己を表現することではない。〈自己表現〉とは自己を起点にして自己の向こう側に存在する根源的なもの/ことを表現することなんだ。表現されたそれはわたしのこと/ものかもしれないけれど、わたしだけのこと/ものじゃない。わたしが表現したもの/ことは自己のもの/ことだけど自己のもの/ことじゃない。わたしのもの/ことでもあり、あなたのもの/ことでもあり、彼、彼女、彼・彼女ではない者のもの/ことでもあるんだ。 わたしたちはわたしたちでありながら、わたしを超えることができるんだ。
何かを表し現わすことは〈自己表現〉ではない。わたしたちは自己の領域で自己を超えた何かを表現している。自己による自己のための自己のファンタジー(幻想)を満足させるためだけの、自己の表現としての〈自己表現〉。表現がそうした〈自己表現〉に滞留するとすれば、自分以外の誰にも届くことはない。〈自己表現〉の業に憑りつかれた愚者たちの叫びと囁きが、合わせ鏡の中で無限に反響するエゴイスティックでグロテスクな現代の光と闇の混沌の灰色の世界を、芸術が稲妻のように切り裂き雷鳴が鳴り響く。芸術は〈自己表現〉という病を破壊し、わたし/わたしたちを救済することができる
デイヴィッド・ホックニーは絵画を描くために〈自己表現〉という病から、逃走し〈わたし/わたしたちの領域〉から逸脱する。彼は他の誰も成し得なかった方法で誰にも似ていない通路の途中で出口を見つけ出す。カメラ・ルミネセンス(camera luminescence)とは彼が絵画のために発見した脱出口。
デイヴィッド・ホックニー/David Hockneyの絵画の美しさの限りなく平明で透明な輝きは〈自己表現〉の病から自由であることから飛来する。絵画という恩寵を浴びる歓び。雑音と沈黙の混沌の中の、〈受肉する光/ひかり〉。
/あとがき/02/『春が来ることを忘れないで』/絵画の孤独が終わる。/ ありがとう、David Hockney。/
2020年3月、作品『No.118、2020年3月16日「春の到来 ノルマンディー 2020年」より』をオンライン上で公開。その時に添えられたメッセージ。
『春が来ることを忘れないで/
Do Remember They Can't Cancel the Spring』
イノセンス/無垢なる言葉をそのままの意味でそのままの形で受け入れて、いい。とわたしは思う。静謐の中の透明な絵画革命。絵画が絵画であるための絵画の革命。絵画はすべてを描くことができる。デイヴィッド・ホックニーの絵画革命は誰も置き去りにはしない。絵画はデイヴィッド・ホックニーによってはじめてすべての人に向けて開かれることになる。絵画の孤独が終わる。画家・デイヴィッド・ホックニー/David Hockneyのイノセンスの言葉がすべての人に贈られることになる。春がまた巡る、忘れない、信じよう!
ありがとう、デイヴィッド・ホックニー/David Hockney、ありがとう。
春の光/ひかりが、わたしたちを包み込み、 ありえないことがあらわれ、わたしたちの内部から、光/ひかりが溢れる時間のために〈了〉
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