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#福島県
フクシマからの報告 2022年春 除染解体で消えゆくふるさと 福島第一原発3.5キロの商店街で 11年を経てゆっくり姿を現した破壊 これは戦争と同じではないのか?
下の2枚の写真を見比べてほしい。同じ、福島県大熊町にあるJR常磐線・大野駅の跨線橋に立って撮影したものだ。13ヶ月の間に、駅前にあった4階建てのビジネスホテルがそっくり姿を消した。
同駅は、福島第一原発から西に約3.5キロ。事故前は、原発に往来する人が利用する最寄り駅だった。東日本大震災のあった2011年3月11日夜に全町民1万1505人に避難が命じられ、大熊町から人の姿が消えた。
原発直近の
フクシマからの報告 2019年春 原発事故難民3人を再訪 帰郷・失望 単身帰還 隣町避難 8年後の今も事故前の暮らしは戻らず
ここに一枚の写真がある。福島第一原発事故から約半年後の2011年9月5日、山形県米沢市で撮影したものだ。原発事故直後から撮りためてきた写真アーカイブを探してみたら、出てきた。
木幡(こはた)竜一さん(左)と但野(ただの)雄一さんが写っている。当時、二人は福島県南相馬市から避難して、米沢市の小さなビジネスホテルを避難所として割り当てられていた。そこを訪ねた時のものだ。
それに先立つ2011年
<フクシマからの報告 2020年春> 津波と原発事故で消えてしまった JR富岡駅前の商店街を再訪 住民の95%が消えた町で ホテル経営に挑戦する地元民に会った
東日本大震災による津波と原発事故で、消えてしまった街がある。福島県富岡町にあるJR富岡駅(常磐線)一帯である。地名では「仏浜」という。前回の本欄で書いた「夜ノ森駅」の一つ南、東京寄りの駅である。
「浜」という地名の通り、海岸からわずか500メートル。ホームから海が見える。静かなときは波が砕ける音が聞こえる。電車は1時間に1〜2本。1898年開業。小さな木造駅舎が立つ、ひなびた駅だった。
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フクシマからの報告 2020年秋 沿線30㌔廃墟が続く 山街道を行く 人口帰還率6% 浪江町を歩いた 写真ルポ(下)
前回に続いて、福島県浪江町からの報告を書く。
上巻は同町の平野部・海岸部の市街地の様子を書いた。今回は方角を東から西に反転して、阿武隈山地の山間部を訪ねる。
前回のおさらいをしておこう。
浪江町は東西に長い。西の町境から太平洋岸まで35㌔ある。東京圏でいえばJR東京駅から八王子駅の距離に近い。福島第一原発のある双葉町の北隣。町の中心部は原発からは約8㌔しか離れていない。
2011年3月1
フクシマからの報告 2021年冬 10年前見た行方不明の家族を探すチラシそのお父さんにようやく会えた 自宅跡は核のゴミ捨て場に それでもなお娘の体を捜し続ける
2021年3月で福島第一原発事故の取材を始めて10年が経つ。その10年の間、ずっと気がかりでありながら、取材をする勇気が出なかったことがある。
震災直後の2011年の春、私は福島県南相馬市に入った。同市は原発から約25㌔のところにある「浜通り」(太平洋沿岸)地方の基幹市だ。
原発から20㌔圏が国の命令で「警戒区域」として立ち入り禁止にされ、30㌔圏は屋内退避になったころの話だ。私は、まさにその
フクシマからの報告 2021年冬 渋谷区より広い核のゴミ捨て場が 4500人のふるさとをのみこんだ 撤去されるのは2045年 帰還人口2.5%の大熊町を歩く
福島第一原発事故の被災地に行けば、延々と続く黒いフレコンバッグの山を目にしないことはない(下の写真は2014年5月14日、福島県大熊町で)。
中身は除染ではぎとられた汚染土や、解体された家屋の廃材である。福島第一原発の原子炉から噴き出し、一帯を汚染した放射性物質が含まれている。
政府は、住民を強制避難させている間、ばらまかれた放射性物質を除染し、それが済むと「帰ってよろしい」と避難を解除した。
フクシマからの報告 2021年春 震災10年目の3月11日 被災現場に行った 津波犠牲者の墓参者に群がる 新聞テレビ記者の狂騒を目撃した
東日本大震災から10年の2021年3月11日、福島県浜通り地方(太平洋沿岸部)のかつての「強制避難区域」の現場に立ってみた。そこでどんな光景が見えるのか、この目で見て、歴史の記録に残そうと思ったからだ。
2011年3〜4月、福島第一原発から半径20㌔の半円が描かれ、中にいた住民9万6561人に国が強制的に避難を命じたのはご記憶かと思う。
半円形に飛び地の飯舘村を加えた面積は858.4平方キロ
フクシマからの報告 2021年春 茨城県ひたちなか市にホットスポット 眼前はJR常磐線車両の洗車場 福島第一原発事故の汚染を運んだのか?
今回は、単純な事実の報告と問題提起をする。
茨城県ひたちなか市のJR常磐線の車両基地のそばの一点で、線量計が周囲の5~7倍の高線量を指した。つまりホットスポットができていた。その目の前には、JR常磐線の車両を洗浄する施設がある。
JR常磐線は、福島第一原発から直近で1.5キロ、高線量に汚染された地帯を行き交っている。そこを通過した車両を洗う「洗車場」の前に、突然高線量の場所がある。
これは
フクシマからの報告 2021年夏 俳人・中里夏彦さんが語る原発事故・下 頭では帰れないとわかっていても 心は帰りたいと願い続ける 奪われたふるさとの記憶
前回の本欄で、福島県・双葉町出身の俳人・中里夏彦さん(64)のお盆のお墓参りに同行した報告を書いた。
中里さんが生まれ育った家は、福島第一原発から西に5キロ(道路沿い。直線距離で3キロ)にある。噴き出した放射性物質の雲(プルーム)の直撃を浴び、10年後の現在も立ち入りが禁止されている。いやそれどころか、双葉町全体が人口ゼロの無人地帯である。
2021年8月13日に撮影した冒頭の写真でもわかる
フクシマからの報告 2022年冬 原発事故被害地の農業は どれぐらい回復したのか? 福島産米の価格は事故前を上回り 「風評被害」はもはや実在しない 被害地から農業者が激減したことこそ実害
今回のテーマは「福島第一原発事故被害地の農業はどれぐらい回復したのか」である。
福島第一原発事故が起きてから、2022年3月11日でまる11年である。同原発から噴き出した放射性物質が農地や住宅地、工業・港湾地帯に降り注いで建物や土壌を汚染し、10年以上が経過した。
特に汚染の重篤だった同原発から半径20キロ内の地域から、国は住民約9万1,000人を強制避難させた。「住民が全員強制避難」というこ
<フクシマからの報告>2020年夏 「私はモルモットでいい」 放射能に汚染された村で 9年間土壌や食品を測り続ける 伊藤延由さん(76)の記録
福島第一原発事故でもっともひどい放射性物質の汚染を浴びた村に住み続け、自分や自宅の被曝量を測る。除染前と除染後を比較する。
山菜を採り、作物を育て、その線量を測る。土壌の汚染を測る。それをインターネットやSNSで公開する。
そんな地道な作業を、事故発生時から9年以上続けている人がいる。
伊藤延由(いとう・のぶよし)さんという。現在76歳。伊藤さんが住んでいるのは、福島県飯舘村という標
フクシマからの報告 2020年秋 商店街・モール・ボウリング場… 町がまるごと消えていく 3年で住民の帰還率6% 原発から8キロの浪江町 写真ルポ(上)
今回は2回に分けて、福島県浪江町の現状を写真を中心に報告したいと思う。
2011年3月11日の福島第一原発事故で、全住民が強制避難させられた原発20キロ圏内の市町村のひとつである。町の中心部から原発までは、南へ約8キロほどの距離だ。
原発事故当時は2万1434人の住民がいた。強制避難の対象になった11市町村の中では、人口最多の大きな町だった。
避難が解除されたのは6年後の2017年3月。しか
フクシマからの報告 2021年春 家が消え小中学校が消えた ふるさとが失われ思い出も消えていく 原発事故が破壊した大切なもの 故郷の記憶を守る23歳秋元さんの物語
秋元菜々美さん(23)は福島県富岡町夜ノ森で生まれ育った。
富岡町は、福島第一原発の立地する大熊町の南隣にある。秋元さんの家のあったJR「夜ノ森駅」前からクルマに乗ると、同原発の前まで15分ほどで着いてしまう。
東日本大震災が襲った2011年3月11日、秋元さんは13歳だった。中学1年が終わろうとする春休み前の一日だった。
秋元さんの家は、富岡町は福島第一原発から南に8キロほど南に
<フクシマからの報告 2021年秋> やはり放射性物質を運んでいた 福島第一原発から1キロを走るJR常磐線 茨城県ひたちなか市にある 洗車場と隣接公園の土壌線量データ入手 仙台・品川間を走る列車の汚染を確認
今回、JR常磐線の車両に付着した放射性物質の実測データを入手したので、記事を無料で公開する。懸念したとおり、同線の車両は福島第一原発から出た放射性物質を運んでいた。
2020年3月にJR常磐線(東京・上野〜宮城・仙台)が東日本大震災以来9年ぶりに全線開通した時、私が懸念したのは、福島第一原発事故で噴き出した放射性物質を、車両が付着したまま沿線に運んでばら撒いてしまうのではないかという点だった。悪