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教会の問題

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キリスト教会はとても居心地のよいところです。でも、満点を期待してはいけないでしょう。たくさんの問題を抱えています。とくに内側にいると見えないものを、なんとか見ようとするひねた者が…
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#牧師

『牧師、閉鎖病棟に入る。』(沼田和也・実業之日本社)

『牧師、閉鎖病棟に入る。』(沼田和也・実業之日本社)

本書を探した経緯がある。簡潔にいうと、心を病む牧師についての資料はないか、という探し方をした。本当は、精神的に病んだ牧師をどう扱うか、というキリスト教的な対処が知りたかった。あるいは、牧師が心を病まないようにするためにはどうすればよいか、という観点の予防について知りたかった。
 
ところが、そういう本が見当たらない。かなり検索を掛けたが、なかなか引っかかってこない。アメリカにはそうした専門のカウン

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心を病む牧師

心を病む牧師

牧師自身の心は、誰が世話をするのだろうか。
 
プロテスタント教会では、牧師という。礼拝説教を担う。教会員の魂の配慮を司る。教会を訪ねる人を迎える。中には、心を病んだ人も来る。そもそも自分の罪に気づいたからこそ、聖書や教会を求める、というのが筋だ。心の悩みをもつのは当然かもしれないし、実際精神疾患を患っている人も来るだろう。
 
だから牧師は、カウンセリングも学ぶらしい。「牧会心理学」などの名前で

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他人の説教を読む礼拝

他人の説教を読む礼拝

アウグスティヌスの言葉らしい。説教者が、他人の説教を語る、ということについて述べているという。「有能ならざる説教者は、安んじて他人の説教を用いるように、と忠告している。」
 
ボーレンの『説教学Ⅰ』からの孫引きである。純粋に理論的に、というよりも、かなり情熱的な勢いも感じるこの本であるが、ここは冷静な態度を示しているように見える。他人の説教を語る、とはどういうことか。
 
牧師は、礼拝説教を、礼拝

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プロならば

プロならば

勤務する塾の前に道路があるが、信号無視は決してするな、というお達しになっている。生徒や保護者の目があるかもしれないところで、教師らしからぬことをしてはならぬ、という意味である。
 
学習塾の職員による不祥事が、今年大きく話題になった。被害に遭った子どもたちやご家族には、ここからも申し訳ない気持ちが起こる。不祥事というより、犯罪であり、取り返しのつかない深い傷を遺すものであった。これを受けて、スマホ

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教会と子どもたち(2)

教会と子どもたち(2)

牧師夫人と呼ばれる立場の人がいる。男性牧師の妻である。昔はステレオタイプにそういう人がいて、牧師夫人という呼び方が当たり前のように使われていた。いまでも当たり前ではないか、と思う人がいるかもしれない。特に、女性を牧師としてはならないとするグループからすれば、半ば常識であろう。
 
牧師には給与が出る。謝礼と呼ぼうと、給与である。教会への献金の中から一定の額が与えられる。最近は信徒が減り、また高齢化

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神の人事異動

神の人事異動

暦の上では、春である。立春を過ぎると、古人はもう春だと理解し、まだ冷たい風や凍てつく土しか感覚できなくても、必ず春がくる、否もう来ている、と言って前向きになっていたのだろう。
 
春は、異動の季節でもある。年度末から年度初めへと動き、学生ならずとも、新たな環境に身を置くことになる人が数多く現われる。
 
京都の母教会の牧師は、京都という地で、その異動を痛みを覚えて覚っていた。学生である。いまよりは

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聞く耳をもって聞く

聞く耳をもって聞く

信仰は一つ、と聖書の中に書いてあるからと言って、誰もが同じ信仰をもつべきだ、と言い始める人がいるから、厄介なことになる。否、古来キリスト教会の歴史は、そのようなことを根拠にして、強大な権力を保ってきたのが実情である。人間たるもの、権力欲が善意の陰に働くことを抑えることは、できなかったようである。また、それを見抜く目、意識する反省概念を持ち得ない、というのがその本性にあるのかもしれない。
 
なんと

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たしかにA、しかしB

たしかにA、しかしB

中学入試の作文を指導している。その中で、便利なフレーズとして「たしかにA、しかしB」の形を覚えてもらうことにしている。「別の意見のよいところを認めた上で、それでも自分はこちらがよいと思う」という場合の常套句である。
 
日本語だと「たしかに」の代わりに「なるほど」もよく使うだろう。小学生には似合わないので「たしかに」で教えている。これが英語だと、かなりいろいろな表現が取れるらしい。ドイツ語では、z

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命を与えた説教

命を与えた説教

すばらしい説教、というものが、いまはウェブ環境から受けられる。これはたいへんうれしい。ありがたい。命ある礼拝説教で、生きる力を受けることができる。なんという恵みだろうか。
 
ある人が、その説教を聞いた感想を届けてくれた。部分的に、ご紹介してみよう。
 
ずっと、辛い状態が続いている。仕事の上でも、教会環境の上でも、その他具体的に挙げれば枚挙に暇がないほどに、辛いことに包まれている。とくにこの一週

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ひとの痛みを

ひとの痛みを

当事者に、なれるわけがない。だのに、当事者のことを分かっているかのように、振舞うのは、失礼なことでもあるし、「ええかっこし」であるとも言える。
 
分かっているのではない。無力感に打ちのめされた、と言えば、自己中心であるに過ぎないかもしれないが、正直なところ、そう言うのが、一番言いたいことに沿うような気がする。
 
1995年1月17日、未明のあの揺れは、まず私が気づいた。カタカタカタカタ……それ

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救いの体験

救いの体験

妻が、新しい教会で転入会の「証詞」をしたとき、何人かの人から珍しがられたのだという。「そんなはっきりとした救いの経験があるなんて……」のように。私もたぶんそう見られたのだろう。というのは、その教会で、自分はこんなところから救われたのだ、という話を聞く機会が、あまりないからだ。
 
例外はもちろんある。ある人は、自分の若いときの体験談をきちんと話す。いまでも若いうちだが、一人の牧師である。この人は、

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最後の提言

最後の提言

最近、私の中の常識ががたがたと揺さぶられ、崩されることがよくある。私だけがおかしくなったのだろうか、と暗い気持ちにもなる。以下、純粋に分からないこと、なんとかそれを理解しようとした末の、勝手な推測と意見を含めた内容を述べることとする。とはいえ、事実を踏まえたものであることは、当然である。
 
まずは私の偏見めいた感想から。取り上げた聖書箇所が全く言っていないようなことを結論とする「説教」。それは、

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祈りと説教

祈りと説教

ほかの人のために祈ることを、「執り成し」という。京都の教会にいたときは、私もずいぶん若かったから、お年寄りの教会での祈りを、しみじみ聞いていた。Nさんというおばあちゃんがいて、もう礼拝にもあまり出てくることができませんでしたから、牧師がそのNさんをよく訪ねていたので、礼拝説教の中でも触れることがあった。
 
祈りの課題を、もはやなかなか覚えていられない。そこで考えたNさんは、紙に書くことにした。こ

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聞くに堪えない

聞くに堪えない

隠退(引退)牧師たる加藤常昭氏へのインタビューが、NHKラジオR2で2週にわたって放送された。私の場合は録音させてもらったが、6月半ばまで、ウェブサイトで聞くことができるので、関心をもたれた方は、直接アクセスできる。加藤氏は哲学を学んだ方でもあり、その話は、明快で、筋が通っている。評価はいろいろあるかもしれないが、今日の日本の教会の説教に多大な影響を与えた人の声を、一度受け止めるとよろしいかと思う

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