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『牧師、閉鎖病棟に入る。』(沼田和也・実業之日本社)

本書を探した経緯がある。簡潔にいうと、心を病む牧師についての資料はないか、という探し方をした。本当は、精神的に病んだ牧師をどう扱うか、というキリスト教的な対処が知りたかった。あるいは、牧師が心を病まないようにするためにはどうすればよいか、という観点の予防について知りたかった。
 
ところが、そういう本が見当たらない。かなり検索を掛けたが、なかなか引っかかってこない。アメリカにはそうした専門のカウンセラーもいると聞く。だが、日本の牧師の心を助ける手立ては、全く考えられていないようなのだ。もちろん牧師に限らない。信徒のリーダーや伝道師レベルも含めると、私は片手が埋まるほどの人数の、実際の人々に出会っている。素人判断をすることはできないが、うち一人は重症な精神疾患に間違いないと思う。他もほぼ間違いないものもいるし、かなり疑わしいというレベルを含めての、その人数カウントなのである。だが、これに対処するシステムが、どうやら日本にはないらしい。その重症な人物も、長らく教会を牧会していることになっているが、もう教会は崩壊寸前である。だが、繰り返すけれども、こうしたことに対処する方策もないし、予防もあまり考えられていないという日本の有様が、少なくとも「検索」によって、浮かび上がってきた(「いのちのことば社」から2冊出ているように思われ、うち一つは、信徒が牧師とその家族のメンタルに対してどうするかの方向性を扱っているように見えたが、高価で流通しているので私は手出しができないでいる)。
 
さて、本書は、実によいタイトルである。妙に抽象的なタイトルを付けて、中身と合わないではないか、と言われないだけの具体性を持っている。というのも、別のある本で、表向きが抽象的だったために、ある精神病の当事者だという投稿者が、「患者がどうすればよいかを知りたかったのに載っていない、糞だ」のように書いていたのだ。とてもそのような内容を期待させるような題ではなかったので、これは著者が気の毒である。
 
著者自身が書いていることなので、ここでは遠慮なくお伝えするが、この牧師、教会付属の園長でもある牧師で、多忙だった。それが、副園長と講論になり、激昂する。落ちこんでいる夫を見て、妻が、入院を勧めたのだという。この妻という人も、いわゆる牧師夫人という立場になるせいであるのかどうか分からないが、心を病んで精神科に入院したことがある。だからこそ、夫の牧師の状態が、入院に値することが分かったのだ。
 
もちろん、診断や検査がある。その結果、この牧師は、「閉鎖病棟」に入ることが決まった。精神病の類でも、重症者のための隔離された特別な病棟である。自分や他人を傷つけることを防ぐために、割れるコップはなく、鏡もないという。また、ジャージの紐は抜かれて、歩くときには押さえながら歩かなければならないという。紐のようなものが、こういう場所では厳禁であることについては、説明を要しないと思う。
 
若い子たちが集まる。物珍しさなのか、著者がそれなりに物わかりがよくて優しいからなつくのか、話を聞いてほしいという欲求が叶えられるのかもしれない。人懐っこい彼らだが、他人の心情を察するということができない。それどころか、閉鎖病棟に長くいるような子である。「どうして人を殺してはいけないのか分かりません」と、普通にいう。著者もいろいろ接しているうちに、気づく。「ほんとうに、分からないのだ」と。
 
私も心当たりがある。全く他人の心が分からない人がいる。実は私も元々そのようなタイプに近かった。だが、そこに罪を知り、イエス・キリストに出会って変えられた。人並みにはなっているだろうとは思う(がそのこと自体が間違っているという可能性を常に忘れたくない)。だが、そういう立場から見てみると、教会の中にも、いくら社会的立場があっても、全く他人の心が理解できない人が、いたのである。私もその人から精神的危害を実際受けた。なんで話が通じないのか、最初は理解できなかったが、後に「ほんとうに分からないのだ」ということに気づくと、どうしてそういうことをするのか、いくらかは納得できるようになった、という具合である。
 
さて、著者についてだが、よくぞこれだけ冷静に事態を記憶しているものだ、と驚くほどに、様々なことがここに記録され、叙述されている。まるで、一般人が、「潜入レポート」とか何とか言って、組織に入り、取材をしてきたかのようなのである。しかし、主治医と意見が合わず口論を繰り返したなどのことも書いてあり、それはまた、自分の状態を後からよく認識したからこそ、こうして過去のことを起こして綴っているのかもしれない、とも思う。
 
これからお読みになる方のためにも、中に書いてあることを自慢げにここにバラしてしまうようなことはもちろんしない。ただ、この「主治医」という人物には、注目しておくことをお勧めしよう。実はこの主治医もクリスチャンである。だから、牧師という立場もよく理解しており、その意味では著者は幸運であった。よけいな説明をする必要がなくなったからである。だが、治療に関しては主治医は厳しい。医学的立場から、妥協はしない。だから、よく衝突したようなのである。
 
結局、牧師の心の病に対してどうすればよいか、というような処方は、本書には一切なかった。閉鎖病棟とはどういうところかを世間に知らしめるには相応しい本だった。また、こうした病棟には実に稀なインテリの観察眼が十分に活かされて、しかも罪や救いということの分かっている人の綴ったものであるから、自分の内面を見つめ、それを描くということにおいては、貴重な資料となることだろう。ただ、日本のキリスト教会は、いまこうした牧師などの心の病を助けたり支えたりするようなことには、全く関心がない。というよりは、そんなことにかまけているような場合ではないのだ。それどころではないのだ。だからまた、よけはに悪循環として、牧師の心の病が発症していくことになるのではないか、とも思う。恐らく、ひとが普通に思うよりもずっと、牧師などの立場にいる人々の精神状態は、悪い。かなりの精神疾患患者が、実務を執っていると私は予想している。身近なところを見渡してもそうなのだから、全国的にそうだろう、と思うのだ。
 
さて、私は本書を、やはり知らないことについて学ぶような気持ち、またそこに登場する一人ひとり(これはプライバシーを守る形で、注意深く描かれており、中には複数の人の例をひとりの人物として描いたようなところもあるという)からも、思わされるところが多々あったのだが、その中で、心が揺さぶられ、涙が止まらなかったところがある。ネタバレはしたくないので、それが何であるかはここには明かさない。ただ、ひとつだけ言ってもよいか、ということはお伝えしよう。
 
そこに、イエス・キリストがいたのである。それは、著者が確かにキリストと出会った人であることを証ししていた。間接的にではあるが、私もまた、イエス・キリストにこの本を読みながら、新たな出会いを経験した。もしもまだそういう体験をお持ちでない方がいたら、本書はその場となるかもしれない。

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