たかぱん

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たかぱん

お読みくださり、まことにありがとうございます。プロテスタントのキリスト者・父・塾教師・偏向的な本好きとして、生き生きと歩むことができるような言葉を聖書から誰かに提供できたら、と願っています。書くことに力を注いでおりますが、ここから何かを拾ってくださればなによりです。

マガジン

  • 世の中どうよ

    世の中、社会、不満もありましょう。憤りもありましょう。ほっとするニュースがあればいいですね。自分もその中に確かに存在する、その世の中。少しでも別の視点があれば、シェアしたいなと思います。

  • ショートメッセージ

    聖書から日々黙想をしている中で、短いひとまとまりのメッセージを書き留めています。それをおすそわけします。ご面倒ですが、聖書箇所について聖書を開くか、検索してくださると、いっそう身近に感じられるとお薦めいたします。

  • こころ

    ひとのこころ、見つめてみます。自分のこころから、誰かのこころへ。こころからこころへ伝わるものがあり、こころにあるものが、その人をつくり、世界をつくる。そんな素朴な思いに胸を躍らせながら。

  • レスポンス

    礼拝説教は、神の言葉。いのちある説教に対しては、それを受けていまここでおまえはどうするのだ、という問いかけがあります。何らかの形で、それへの応答を、祈りのように告げることが必要だと考えました。

  • 表メッセージ

    もう裏だなんて思わない。堂々と、幸せのニュースをお伝えします。日曜日の礼拝ごとに、一週間の生きる力を、人生を変える力を、神の言葉がもっていると確信していますから、それを指し示す取り次ぎをお手伝いします。

最近の記事

タブレット端末

会社で、集団健診が行われる。年に一度、定期的な検査だ。面倒な気もするし、胃透視はなかなかハードである。検査結果もいろいろ引っかかってきたが、病気を見つけてもらった、という意味ではありがたいことこの上ない。   但し、近年9月にそれが割り当てられている。できれば、9月というのは避けてほしい。夏期講習で乱れた生活と疲労した体を背負った結果が、そこに出てくることがあると思うからだ。   仕事は午後、いまは夕方近くからなので、朝一番の健康診断となると、丸1日を会社に拘束されるような恰

    • 離れ去る人々と問われる一人と

      ヨハネ6:66-69    「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を得、私はその人を終わりの日に復活させる」(6:54)などというイエスの言葉を聞いて、それまでイエスの教えに耳を傾けていた人々は、とても聞いていられない、と呆れました。これが教義となり、それを信じた後の時代の私たちにしてみれば、これこそキリスト教だとよく分かるのですが。   確かに象徴的な表現が使われています。肉や血を、という言葉をまともに文字通りの意味で解したら、まるでカニバリズムです。初期の教会への一般

      • 人目を気にしない

        小学3年生。よく勉強ができる子たちである。詳述は避けるが、国語のパズル的な問題があって、そこにある漢字で二字熟語をつくり、書き出すものがあった。子どもたちは見抜いた。「目」と「人」とで熟語を作ればよい。さあ、「目人」か「人目」か、どちらかひとつだ。ここで、全員が「目人」を選んで書いた。   「あら、『ひとめ』って言葉、使うでしょう」と私が問うが、きょとんとしている。「『ひとめ』を気にする、なんて言いますよね」と私がダメを押すが、子どもたちはぽかんとして、「知らない」と答えた。

        • 黙示録の結び

          2023年4月23日に始まった、黙示録の連続講解説教が、ついに今日で結ばれる。間に、クリスマスその他必要に応じて他の箇所から語られることもあり、また、もう1人の説教者が半分近く説教に立つことも通例である。それからゲストの説教者が語ることもあるため、ほぼ1年半にわたり、黙示録すべてから説教がなされることとなった。   しかも、黙示録である。語るに難しいとされる。また、新約聖書の、あるいは旧新約聖書併せて考えての、聖書の完結部分のようなものである。緊張が走る説教が続いたことだろう

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        • 本とのつきあい
          211本

        記事

          日数を重ねた者 (ヨブ32:1-10, 使徒2:14-21)

          ◆老いの域 後期だか前期だか知りませんが、自分が「高齢者」という括りに入ってきたことを、認めなければならない人が、ここにも何人もいらっしゃることでしょう。私も、シルバーシートがあったら、自分も座っていいかな、と思うときには、そういう言い訳を用いることにしています。   でも、自分が老人になる、という設定は、自分の人生にはなかったという人もいるでしょう。「おじいちゃん・おばあちゃん、いつまでも長生きしてね」と、自分が子どもの頃には口にするのが常識でした。成人しても、高齢者は自

          日数を重ねた者 (ヨブ32:1-10, 使徒2:14-21)

          なんとしても知恵を求めよと言われて

          箴言4:6-8    「知恵を得よ、分別を得よ」(5)が、すべてを物語っています。父が子に諭しているという形式ですが、この要点をベースに、言葉がアレンジされています。今回注目するのは、そのうちの3節分です。それらの頭の部分を並べると、知恵を捨てるな・得よ。尊べ、と迫ってきます。これらは必ずしもこの順番での手順を示しているのではないと思われます。   各節の最後の部分を拾うのもいい。分別を愛せ・得よ、と並び、最後は「知恵を抱けば、それはあなたを重んじる」と寄せてきます。節毎にテ

          なんとしても知恵を求めよと言われて

          『福音主義教会形成の課題』(加藤常昭・新教出版社)

          シリーズ名が「今日のキリスト教双書」であり、その第15弾となっている。私が手に取った時点で、発行から半世紀。それで「今日」と言われても、複雑な心境である。発行から50年して、加藤先生も天へ旅立った。しかしすでにこの時点で、牧師としても神学者としても活躍しており、力ある説を告げている。その意味では、「今日」という言葉に偽りがあるようには思えない。私たちは、もっとよくない情況にある、とも言えるからだ。   本書の原稿ソースは様々である。論文的に単独で書かれたもの、雑誌にその都度掲

          『福音主義教会形成の課題』(加藤常昭・新教出版社)

          気づきのあったヨブはこのとき

          ヨブ9:1-12    神を忘れる者、神を敬わない者であってはならない。完全な者であれ。シュア人ビルダドが言ったことに対して、ヨブが反論します。人は神に対して正しくあることはできない。神と争うことなどできないだろう。神の知恵に刃向かうつもりは自分にはないし、神の力に抵抗することを考えはしない。ヨブの言い分はこの後もしばらく続きます。   そして、人の思う正しさなど、神の前には何の意味もないんだ、と塞ぎ込むような言い方すら始めます。不条理に悲惨な目に遭って、生きる気力すらなくし

          気づきのあったヨブはこのとき

          言葉の変化

          「ちゅらさん」の再放送を見ている。主人公の恵里ちゃんのぶっとんだところには、むしろ心が洗われるような気もするのだが、看護婦になっての成長もまた見所ではある。ドラマは元々2001年に放送されていた。   と、ここまで、何か引っかかるところはなかっただろうか。言葉である。ドラマではすべて「看護婦」という語が飛び交っていた。いまは「看護師」という。男女雇用機会均等法などの背景があり、男女の呼称の区別を撤廃したのである。それが、2002年のことだった。ドラマは、ぎりぎり、その前の時代

          言葉の変化

          厳しい叱責の向こうに

          箴言1:24-33    知恵が巷で喜び歌う。広場で声を挙げる。この声の呼びかけは、ここでは懲らしめでした。それを拒む者たちへの叱責の言葉を、今日は聞きます。呼びかけても、あなたがたは拒みます。「あなたがた」と訳してありますが、「おまえたち」の方が内容をよく伝えるような気がします。もちろんこの「知恵」は擬人化されています。神のことです。   この知恵は、神のメッセージそのものなのです。神は呼びかけます。手を伸べます。だが、この人間たちは忠告を無視します。「知らぬ振り」とまで述

          厳しい叱責の向こうに

          母を通じて思い出すことなど

          もう6年も経つなんて、信じられない。母を送った日。その知らせは夜中に届き、駆けつけたが、もう息がないことは、分かっていた。いろいろあって、私ひとりが医師の最後の仕事に立ち合うこととなった。   教会に来てくれたことは、ある。だが、とても信仰をもっていたとは言えない。母が誰よりも好きだったのは、父親であったが、住職だった。母の実家は、だから寺である。年に二度ほど訪ねただろうか。山を越えるので、私はいつも車酔いをして峠でもどしていた。そこに通ったのは、祖父が亡くなるまでだから、私

          母を通じて思い出すことなど

          知恵の初めについて

          箴言1:1-7    聖書の言葉を神からの言葉とするなら、それを無条件に正しいと受け容れるものでしょう。しかし、旧約聖書には、そもそもそのような問いを疑問のように投げかけることが、あるはずがありません。神の存在を問うような発想そのものがありえないのです。どんな言葉で飾ろうと、それを根拠づけることなどできないし、それをする気にもならないのです。   これは諭しであり、分別ある言葉です。そこからは、正義・公正・公平がもたらされます。人には遠慮と慎みと知識を与えることでしょう。神か

          知恵の初めについて

          背負い、担い、救い出す

          2024年の敬老の日という国民の祝日は、9月16日である。この時期に、教会でもその趣旨を受けた礼拝を開くことがある。ここでは9月8日にそれが行われた。   教会でも高齢化が進み、敬老の祝福の対象が、60歳だなどということもなく、80歳になってようやく、ということになった。驚くことに、80歳以上の方が、80名以上いるという。だが、悲しいことだが、この1年で6名の方が地上の教会から名前を外すこととなった。   説教者は、黙示録の連続講解説教の牧師ではない。その最終回は次週となる。

          背負い、担い、救い出す

          祝福し合えるところ (詩編121:1-8, 使徒9:26-31)

          ◆詩編 詩編を愛する人はきっとたくさんいることでしょう。これから聖書を読みたいが、どこから読んだらよいか、という質問を受けることがありますが、多くの場合、私は詩編をお薦めします。詩編は、深く解釈しようとすれば難しいものだと思いますが、文字数も少ないし、感情移入もしやすいので、多くの人に安心して紹介できるのです。   詩編は、150の詩が集められた、旧約聖書のひとつの巻です。冒頭の第1編は、詩編全体の表題のような役割を果たしている、とも言われます。これは人間の「幸い」の道なの

          祝福し合えるところ (詩編121:1-8, 使徒9:26-31)

          『「何回説明しても伝わらない」はなぜ起こるのか?』(今井むつみ・日経BPマーケティング)

          1年前に、中公新書で『言語の本質』を共著とし、珍しく非常に売れ行きを呈した。認知科学という分野で言語について迫るもの、特にオノマトペを正面から扱って、一般人に注文されたのである。出版社が、その流れに注目しないわけがない。今回は、「何回説明しても伝わらない」という、日常的にありがちなテーマを看板にして、新書ではなく単行本形式でやや多めの論述を世に問うた。新書に比較すると大幅な売れ行きとは行かなかったことだろうが、ビジネスの現場では、もっと火が点いてよいように思う。   ちゃんと

          『「何回説明しても伝わらない」はなぜ起こるのか?』(今井むつみ・日経BPマーケティング)

          知恵を求めた結果として

          箴言2:1-9    「神の知識を見いだすだろう」という結論がここにあります。尋ね、そして探すなら、という条件によってであるように見えます。箴言は、繰り返すような表現の中で、同じ「知恵」を様々に言い換えて持ち出します。詩編119編の例にあるように、神の戒めこそが知恵であり、英知・分別そして知識と言葉を替えますが、指しているものは多分同じです。   新約の徒としては、これを神の言葉・聖書の言葉と受け止めてもよいはずです。ここにも1節に「私の言葉」つまり神の言葉という言い方が掲げ

          知恵を求めた結果として