たかぱん

お読みくださり、まことにありがとうございます。プロテスタントのキリスト者・父・塾教師・…

たかぱん

お読みくださり、まことにありがとうございます。プロテスタントのキリスト者・父・塾教師・偏向的な本好きとして、生き生きと歩むことができるような言葉を聖書から誰かに提供できたら、と願っています。書くことに力を注いでおりますが、ここから何かを拾ってくださればなによりです。

マガジン

  • 教育のはしくれ

    塾産業の中で教育などと偉そうには言いませんが、父親として息子たちと向き合ってきた一人としての体験と意見。時代的に早すぎた「イクメン」としての背景から、言葉を零してみます。

  • 本とのつきあい

    本に埋もれて生きています。2900冊くらいは書評という形で記録に残しているので、ちびちびとご覧になれるように配備していきます。でもあまりに鮮度のなくなったものはご勘弁。

  • こころ

    ひとのこころ、見つめてみます。自分のこころから、誰かのこころへ。こころからこころへ伝わるものがあり、こころにあるものが、その人をつくり、世界をつくる。そんな素朴な思いに胸を躍らせながら。

  • ショートメッセージ

    聖書から日々黙想をしている中で、短いひとまとまりのメッセージを書き留めています。それをおすそわけします。ご面倒ですが、聖書箇所について聖書を開くか、検索してくださると、いっそう身近に感じられるとお薦めいたします。

  • 教会の問題

    キリスト教会はとても居心地のよいところです。でも、満点を期待してはいけないでしょう。たくさんの問題を抱えています。とくに内側にいると見えないものを、なんとか見ようとするひねた者が、少しくらいいてもよいのではないか、と……。

最近の記事

『宗教と子ども』(毎日新聞取材班・明石書店)

当然、と言ってもよいと思う。2022年7月8日の安倍元首相銃撃事件から、毎日新聞社に、ひとつの取材が始まった。   宗教とは何か。これを問うことも始まった。特にその狙撃犯が位置しているという「宗教2世」という存在に、世間が関心をもった。次第にその眼差しは、彼らを被害者だという世論を巻き起こしてゆく。そして、子どもに宗教を教えてはいけない、というような風潮が、「無宗教」を自称する人々により、唯一の正義のように合唱されるようになった。   毎日新聞は、社会問題に対する動きが早いと

    • 隠れた差別感

      エフェソ2:11-22    「無割礼」とイスラエル人が呼ぶとき、そこには侮蔑の意がこめられていたと思います。ダビデが、ペリシテ人のことをそのように呼んだことがあります。今、この書でエフェソの教会の人々に、この言葉が向けられています。軽蔑の意が隠れているのかどうか、分かりません。でも、この箇所には、根深い差別感覚が含まれているような気がします。   イスラエルの優越は、神との契約に基づくと思われますが、異邦人にあるのは希望のない人生だと決めつけています。もちろん、神の国の希望

      • 教会の問題

        教会もまた、ひとつの組織である。だが、新約聖書で「教会」と訳されている語は、私たちがイメージするものとはだいぶ違うように思われる。   もちろん、建物のことではない。これは教会の説教でもあり、鉄板の説明である。また、「共同体」であるとか、「信じる人々」のことであるとか、いろいろ注釈が加えられるのも、よくあることである。「呼び集められたもの」という、語源的な説明も、常識的である。そうして「一つ」になった、むしろ人間であるほうに、教会というものの本質はあるものと見られているであろ

        • イザヤ書が閉じられる

          イザヤ66:18-23    「私は来る」との預言を以て、大預言書イザヤ書が閉じられます。第三イザヤなどと呼ばれていますが、学説はどうでもよいのです。とにかくイザヤ書がこれで終わるのです。世界中の人々が集められます。神は、人間の行いと考えをご存じです。相応しい人々がそこに集められます。人々は神の栄光を見ます。神はそこにしるしを置くといいます。   誰の目にも、それは明らかになるのです。生き残った者たちを世界中に神は遣わし、主について知らない人々に、神の栄光を告げ知らせます。そ

        『宗教と子ども』(毎日新聞取材班・明石書店)

        マガジン

        • 教育のはしくれ
          75本
        • 本とのつきあい
          187本
        • こころ
          144本
        • ショートメッセージ
          608本
        • 教会の問題
          173本
        • 世の中どうよ
          158本

        記事

          どうしてそんなことができるのか

          凶悪事件に、若者が群がっていたということで、ワイドショー関係は盛んに話題にした。世間を驚かす殺人事件だと、時に容疑者の「心の闇」を暴こうとする世間。それは浅薄でよくないことだ、と私は常々考えており、幾度も見解を述べた。だが今回は、容疑者たち自身が浅薄であることが目を惹いている。闇バイトとでも言うのか、残酷なことでも、淡々とやってのけているという風景が、報道から見えてきたというのだ。   これをワイドショー関係で、その大人たちが、近ごろの若者は分からん、という角度でしきりにコメ

          どうしてそんなことができるのか

          信仰深そうに見せていても

          ホセア6:1-6    「さあ、我々は主のもとに帰ろう」と聞くと、主に対して誠実な民の声のようです。主は癒やし、包んでくださるという信頼が、ここにあります。「主は主は二日の後に我々を生き返らせ三日目に起き上がらせてくださる」とは、イエスの復活を預言しているかのようではありませんか。イスラエルは確かに、主に背く姿勢を見せていました。   しかし、主を覚え、主が立ち直らせてくださると信じていることを表明している、そう受け止めれば、これは麗しい言葉であるように見えます。「我々は主の

          信仰深そうに見せていても

          絶望ゆえの勝利

          黙示録を読み解くひとときが続く。17章が開かれたが、ここから18章辺りまでが、実に黙示録らしいというか、謎めいた記述が犇めいているという。それは荒唐無稽なもののように見えるかもしれない。だが、こういう表現に出会ってこそ、私たちは知る。世界を、別の眼差しで見るようにさせてくれるのだ。説教者はその点に触れた後、キリスト者と教会は、この黙示録があったからこそ、歴史の中で闘い続けることができたのだ、と断言した。黙示録あってこそ。そこに、黙示録の意義がある。   天使の一人が私に、「こ

          絶望ゆえの勝利

          偽りの証言を超えて (出エジプト20:16, 申命記5:20)【十戒⑨】

          ◆偽証と嘘 隣人について偽りの証言をしてはならない。(出エジプト20:16)   出エジプト記も申命記も、殆ど変わりはありません(原語にわずかな違いはある)。「偽りの証言をしてはならない」とは、やはり裁判でのことでしょう。十戒というと、それぞれが自分にとって切実な問題であり得たものでした。神に対するものはもちろんですが、殺すな、盗むな、というように、一人ひとりの日常の倫理に関わる問題です(日常的に殺すということはないにしても、そうならないように注意しながら生活している)。

          偽りの証言を超えて (出エジプト20:16, 申命記5:20)【十戒⑨】

          『現代思想04 2024vol.52-5 特集・<子ども>を考える』(青土社)

          曲がりなりにも教育を生業としている以上、「子ども」が特集されたら、読まねばなるまい。「現代思想」は、多くの論者の声を集め、内容的にも水準が高い。そして同じことを何人もが述べるのではなく、多角的な視点を紹介してくれる。「こどもの日」ということで、こどもへ眼差しを向けてみよう。   確かに多角的だった。全般的な対談に続いては、「家族」「法律」「制度」「学び」「未来」といった概略に沿った形で、論述が進んでゆく。   「親ガチャ」という言葉についても、マスコミがセンセーショナルに、ま

          『現代思想04 2024vol.52-5 特集・<子ども>を考える』(青土社)

          共に苦闘するパウロ

          フィリピ1:27-30    私は今にも殺されるかもしれない。だが、できれば、もうしばらく生きていたい。生きてあなたがたに会いたい。こんなパウロの心の揺れを吐露するような文面が見えます。その後、視点をフィリピ教会の人々へと移します。教会も、また苦しいではないか。敵によって苦しめられているではないか。だが、その苦しみすら、神から与えられているのだ。   私たちは他人に対して、このような言い方をすべきではありません。あなたの苦しみは恵みである、などといけしゃあしゃあと言ってのける

          共に苦闘するパウロ

          『説教25 説教塾紀要』(教文館)

          自分の手の届く世界ではなかった。説教のプロたちの営みは、遠い雲の上の世界だった。「説教塾紀要」の存在は知っていたが、自分が読むようなものではない、と思っていた。   だが、主宰の加藤常昭先生の最後の説教が掲載されていると聞き、迷わず購入の手続きをとった。2024年3月発行の最新版である。   2023年10月8日のその礼拝の末席を私は汚していた。加藤先生と時を共有してその説教を聴くのは、初めてだった。視力をほぼ失った中でのその語りは、一時間に及んだ。ご本人は、もっと語りたかっ

          『説教25 説教塾紀要』(教文館)

          信じる故の勇気

          ヨハネ16:25-33    「もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る」とイエスが言います。その「時」とはいつのことでしょう。誰の、どんな時なのでしょう。これを読む私たちにとっても、まだその「時」は来ていないのでしょうか。だったら、私たちに神のすべてが明らかになっているはずがない、というのも当たり前でしょうか。   ところが、イエスの十字架と復活の時を、ここでは指しているように見受けられます。そうなったとき、弟子たちは、イエスの名によって神に願うようになる、

          信じる故の勇気

          若葉のいろ

          「ファースト・オブ・メイ」と聞いて、ピンとくる人はかなりの年配になるだろうか。映画「小さな恋のメロディ」の挿入歌である。邦題は「若葉のころ」とつけられ、映画のシーンに相応しいタイトルとなった。ビージーズが、まだディスコサウンドに入る前の名作である。それは、5月1日を指すのだろうか。もっと広く指してもよいのだろうか。「駆け出し」の意味もあるというから、幼くて一途な恋をモチーフに、「子どもたちの世界」を描いたあの映画には、ぴったりの訳だったかもしれない。   黄緑、などという雑な

          若葉のいろ

          私が苦しめたのだ

          イザヤ53:4-8    苦難の僕の歌の一部から聴きます。人々に見捨てられたその人は、私たちの病を担い、痛みを負いました。「私たち」と「人々」とは別人なのでしょうか。「私たち」の中に「私」がいるのだとしたら、ここではいま「私」に限定した形で味わってみたいと思います。私がこの人を軽蔑し、見捨てたのです。   しかし私の病と痛み、あるいは悲しみを、この人は背負いました。私はこの人が勝手に神に打たれて病に冒されたのだ、と見下ろしています。何故この人が刺し貫かれたのでしょう。私が背い

          私が苦しめたのだ

          『説教ワークブック:豊かな説教のための15講』

          (トマス・H・トロウガー;レオノラ・タブス・ティスデール・吉村和雄訳・日本キリスト教団出版局)   私にとって3000円+税とは高価な本だ。だが、気になっていた。キリスト教の礼拝説教というものに執着のある私だから、テーマが気になる、というのも事実だ。だが、この共著の一人が、トロウガーであるという点が、どうしても見逃せなかった。『豊かな説教へ 想像力の働き』を読んだからだ。日本の説教塾でも、説教と想像力ということの大切さが強く叫ばれる。トロウガーを知ったのも、その関係であったか

          『説教ワークブック:豊かな説教のための15講』

          神の怒りから愛の歌へ

          4月26日午後、加藤常昭先生が召された。縁のある教会である。牧会したということではなかったが、あるいは、最も近いところにあった教会である。生涯最後の説教も、ここで語られた。歴史的礼拝だった。その説教は、ドキュメントとして公開されている、18年前の説教とパラレルなものだったが、視力を失った中で、原稿もなしに語るものだった。   黙示録の講解説教中である。だが、その初めと終わりは、加藤常昭先生に触れながらのものとなった。もちろん、それは取って付けたようなものではなく、内容に自然に

          神の怒りから愛の歌へ