たかぱん

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たかぱん

お読みくださり、まことにありがとうございます。プロテスタントのキリスト者・父・塾教師・偏向的な本好きとして、生き生きと歩むことができるような言葉を聖書から誰かに提供できたら、と願っています。書くことに力を注いでおりますが、ここから何かを拾ってくださればなによりです。

マガジン

  • ショートメッセージ

    聖書から日々黙想をしている中で、短いひとまとまりのメッセージを書き留めています。それをおすそわけします。ご面倒ですが、聖書箇所について聖書を開くか、検索してくださると、いっそう身近に感じられるとお薦めいたします。

  • 聖書と信

    聖書はひとを生かすもの、という思いこみだけで、お薦めします。信仰というと引かれそうですが、信頼などの信として、ひとや世界を大切にする思いが、少しでも重なったらステキだな、と思いつつ伝えてみますね。

  • 教育のはしくれ

    塾産業の中で教育などと偉そうには言いませんが、父親として息子たちと向き合ってきた一人としての体験と意見。時代的に早すぎた「イクメン」としての背景から、言葉を零してみます。

  • 世の中どうよ

    世の中、社会、不満もありましょう。憤りもありましょう。ほっとするニュースがあればいいですね。自分もその中に確かに存在する、その世の中。少しでも別の視点があれば、シェアしたいなと思います。

  • こころ

    ひとのこころ、見つめてみます。自分のこころから、誰かのこころへ。こころからこころへ伝わるものがあり、こころにあるものが、その人をつくり、世界をつくる。そんな素朴な思いに胸を躍らせながら。

最近の記事

気づきのあったヨブはこのとき

ヨブ9:1-12    神を忘れる者、神を敬わない者であってはならない。完全な者であれ。シュア人ビルダドが言ったことに対して、ヨブが反論します。人は神に対して正しくあることはできない。神と争うことなどできないだろう。神の知恵に刃向かうつもりは自分にはないし、神の力に抵抗することを考えはしない。ヨブの言い分はこの後もしばらく続きます。   そして、人の思う正しさなど、神の前には何の意味もないんだ、と塞ぎ込むような言い方すら始めます。不条理に悲惨な目に遭って、生きる気力すらなくし

    • 言葉の変化

      「ちゅらさん」の再放送を見ている。主人公の恵里ちゃんのぶっとんだところには、むしろ心が洗われるような気もするのだが、看護婦になっての成長もまた見所ではある。ドラマは元々2001年に放送されていた。   と、ここまで、何か引っかかるところはなかっただろうか。言葉である。ドラマではすべて「看護婦」という語が飛び交っていた。いまは「看護師」という。男女雇用機会均等法などの背景があり、男女の呼称の区別を撤廃したのである。それが、2002年のことだった。ドラマは、ぎりぎり、その前の時代

      • 厳しい叱責の向こうに

        箴言1:24-33    知恵が巷で喜び歌う。広場で声を挙げる。この声の呼びかけは、ここでは懲らしめでした。それを拒む者たちへの叱責の言葉を、今日は聞きます。呼びかけても、あなたがたは拒みます。「あなたがた」と訳してありますが、「おまえたち」の方が内容をよく伝えるような気がします。もちろんこの「知恵」は擬人化されています。神のことです。   この知恵は、神のメッセージそのものなのです。神は呼びかけます。手を伸べます。だが、この人間たちは忠告を無視します。「知らぬ振り」とまで述

        • 母を通じて思い出すことなど

          もう6年も経つなんて、信じられない。母を送った日。その知らせは夜中に届き、駆けつけたが、もう息がないことは、分かっていた。いろいろあって、私ひとりが医師の最後の仕事に立ち合うこととなった。   教会に来てくれたことは、ある。だが、とても信仰をもっていたとは言えない。母が誰よりも好きだったのは、父親であったが、住職だった。母の実家は、だから寺である。年に二度ほど訪ねただろうか。山を越えるので、私はいつも車酔いをして峠でもどしていた。そこに通ったのは、祖父が亡くなるまでだから、私

        気づきのあったヨブはこのとき

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        記事

          知恵の初めについて

          箴言1:1-7    聖書の言葉を神からの言葉とするなら、それを無条件に正しいと受け容れるものでしょう。しかし、旧約聖書には、そもそもそのような問いを疑問のように投げかけることが、あるはずがありません。神の存在を問うような発想そのものがありえないのです。どんな言葉で飾ろうと、それを根拠づけることなどできないし、それをする気にもならないのです。   これは諭しであり、分別ある言葉です。そこからは、正義・公正・公平がもたらされます。人には遠慮と慎みと知識を与えることでしょう。神か

          知恵の初めについて

          背負い、担い、救い出す

          2024年の敬老の日という国民の祝日は、9月16日である。この時期に、教会でもその趣旨を受けた礼拝を開くことがある。ここでは9月8日にそれが行われた。   教会でも高齢化が進み、敬老の祝福の対象が、60歳だなどということもなく、80歳になってようやく、ということになった。驚くことに、80歳以上の方が、80名以上いるという。だが、悲しいことだが、この1年で6名の方が地上の教会から名前を外すこととなった。   説教者は、黙示録の連続講解説教の牧師ではない。その最終回は次週となる。

          背負い、担い、救い出す

          祝福し合えるところ (詩編121:1-8, 使徒9:26-31)

          ◆詩編 詩編を愛する人はきっとたくさんいることでしょう。これから聖書を読みたいが、どこから読んだらよいか、という質問を受けることがありますが、多くの場合、私は詩編をお薦めします。詩編は、深く解釈しようとすれば難しいものだと思いますが、文字数も少ないし、感情移入もしやすいので、多くの人に安心して紹介できるのです。   詩編は、150の詩が集められた、旧約聖書のひとつの巻です。冒頭の第1編は、詩編全体の表題のような役割を果たしている、とも言われます。これは人間の「幸い」の道なの

          祝福し合えるところ (詩編121:1-8, 使徒9:26-31)

          『「何回説明しても伝わらない」はなぜ起こるのか?』(今井むつみ・日経BPマーケティング)

          1年前に、中公新書で『言語の本質』を共著とし、珍しく非常に売れ行きを呈した。認知科学という分野で言語について迫るもの、特にオノマトペを正面から扱って、一般人に注文されたのである。出版社が、その流れに注目しないわけがない。今回は、「何回説明しても伝わらない」という、日常的にありがちなテーマを看板にして、新書ではなく単行本形式でやや多めの論述を世に問うた。新書に比較すると大幅な売れ行きとは行かなかったことだろうが、ビジネスの現場では、もっと火が点いてよいように思う。   ちゃんと

          『「何回説明しても伝わらない」はなぜ起こるのか?』(今井むつみ・日経BPマーケティング)

          知恵を求めた結果として

          箴言2:1-9    「神の知識を見いだすだろう」という結論がここにあります。尋ね、そして探すなら、という条件によってであるように見えます。箴言は、繰り返すような表現の中で、同じ「知恵」を様々に言い換えて持ち出します。詩編119編の例にあるように、神の戒めこそが知恵であり、英知・分別そして知識と言葉を替えますが、指しているものは多分同じです。   新約の徒としては、これを神の言葉・聖書の言葉と受け止めてもよいはずです。ここにも1節に「私の言葉」つまり神の言葉という言い方が掲げ

          知恵を求めた結果として

          量か質かの伝道

          日本のクリスチャンは、人口の1%。もうずいぶん前からそれが常識となっている。いったいいつからなのだろう。人口比で捉えると、『キリスト教年鑑』には、戦後からじわじわと増えて、半世紀前辺りからいまに続くまでずっと横ばいのような恰好になっている。そして0.8%程度で推移しており、1%という数には達していない。凡そ統計のとり方そのものが難しいのであるが、私もたぶん1%というのは多すぎるだろうと予感している。   そもそも、何を以てクリスチャンとカウントするのか、曖昧である。実際に教会

          量か質かの伝道

          将来の暗雲を宿す祝福

          列王記上3:3-15    ソロモン王は、ダビデの掟に従って歩んでいましたが、「高き所でいけにえを献げ、香をたいていた」といいます。「高き所」について、聖書は激しく弾劾はしていないものの、良い評価を下してはいません。主の神殿へのベストな接し方には至らないような形で、それでも主を拝していたのでしょうか。そうしていたソロモンは、主の祝福を受けます。   いけにえを献げるために、ソロモンはギブオンの高き所へ来ていました。そこは特に要所であったと説明されています。一千頭という途方もな

          将来の暗雲を宿す祝福

          小学生に受検の作文を指導するなら

          作文は、このような形でこのように書けばよい。そのような公式のようなものを教える先生もいます。でも私はそれがいいとは思いません。作文は、お上品に模範的な文章を見せればよい、とは思えないからです。作文は、もちろん国語の力を試すよい方法です。条件を読み取り、それをインプットした後、適切にアウトプットしてゆくために、練習をするほかに、高度な言語能力と構成能力が要求されます。言葉を多く知っているか、正しく使えるか、という点も、そこから見えてきます。   だから、実は「読む」経験が大切で

          小学生に受検の作文を指導するなら

          神との関係の中で生かされている

          詩編145:9-16    ダビデの作とされる詩編はたくさんあります。中には、ダビデの名を冠しているだけで、作者は別だ、ということもあるようです。この詩はどうでしょう。確かなことは、アルファベット順に最初の文字を置いて歌うという、技巧的な詩であるということ。神の業を思い巡らす詩人は、神の視点をなんとか得ようとしますが、なかなか難しいもの。   それでも、神と人とのつながりを見つめることはできます。神と人とはどういう関係にあるか、そこに目を注ぐということだけでも、実は難しいもの

          神との関係の中で生かされている

          『もう、ひとりにさせない』(奥田知志・いのちのことば社)

          読むのが怖かった。本の存在は知っていたが、怖かった。   これを読むと、自分がずたずたに切り刻まれるような気がしていたのだ。そして、今回書店で、どうしてもこれを買え、と本が告げた。覚悟した。   そして、ずたずたになった。   奥田牧師については、テレビなどでもよくお見かけする。政治的な発言もあるが、それは現実に政治的に動いているからである。そのため、ここでその活動について、ここで説明するなどという、野暮なことはしたくない。  福岡にいる者なので、実際にその礼拝説教を戴いたこ

          『もう、ひとりにさせない』(奥田知志・いのちのことば社)

          預言者の霊を受けている

          黙示録の連続講解説教も、これでラスト2となった。大団円直前スペシャルというところか。ところがこの教会、ここへきて、新しい聖書を今日から使うこととなった。聖書協会共同訳である。登場は2018年12月。私はもちろん即刻購入しているが、それはいろいろ誤植もあるものだったという。だがそれでもいい。新共同訳のときも、初版をすぐに手に入れた。私はそういう者だ。   これを導入するのには、それぞれの教会は慎重だった。まずカトリックも、発行後当面見送ることとしたし、プロテスタント教会も、果た

          預言者の霊を受けている

          揺れ動く地に立ちて (ルカ21:7-19, ゼカリヤ14:4-5)

          ◆災害は起こる 大きな災害に遭ったことがない者が、偉そうに言うことはできません。災害は、起こらないに越したことはありません。しかし、災いを避けることは、恐らく誰にもできません。思いもよらぬ災いが、人生を襲います。「どうしてこんなことが」と思うようなことが、平然と押し寄せてきます。自分の身の上に起こることもありますが、多くの場合、他人が災いに遭っているのを見聞きすることになります。   災いに遭うのは、悪いことをしたからだ。迷信めいたそのような言い方を、安全なところにいる者が

          揺れ動く地に立ちて (ルカ21:7-19, ゼカリヤ14:4-5)