たかぱん

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たかぱん

お読みくださり、まことにありがとうございます。プロテスタントのキリスト者・父・塾教師・偏向的な本好きとして、生き生きと歩むことができるような言葉を聖書から誰かに提供できたら、と願っています。書くことに力を注いでおりますが、ここから何かを拾ってくださればなによりです。

マガジン

  • ショートメッセージ

    聖書から日々黙想をしている中で、短いひとまとまりのメッセージを書き留めています。それをおすそわけします。ご面倒ですが、聖書箇所について聖書を開くか、検索してくださると、いっそう身近に感じられるとお薦めいたします。

  • 聖書と信

    聖書はひとを生かすもの、という思いこみだけで、お薦めします。信仰というと引かれそうですが、信頼などの信として、ひとや世界を大切にする思いが、少しでも重なったらステキだな、と思いつつ伝えてみますね。

  • 本とのつきあい

    本に埋もれて生きています。2900冊くらいは書評という形で記録に残しているので、ちびちびとご覧になれるように配備していきます。でもあまりに鮮度のなくなったものはご勘弁。

  • コロナ禍

    新型コロナウイルスの感染拡大の中、できるだけ誤った情報は流すまいと心がけていますが、これに対する人の心と、教会の対処など、人間の側の話を提言できればと願っています。共にこの時代を生きる同胞として、皆さまと考えていけたら。

  • レスポンス

    礼拝説教は、神の言葉。いのちある説教に対しては、それを受けていまここでおまえはどうするのだ、という問いかけがあります。何らかの形で、それへの応答を、祈りのように告げることが必要だと考えました。

最近の記事

良くなりたいか

ヨハネ5:1-9    イエスがユダやからガリラヤに来て、二つ目の「しるし」を行いました。その後イエスは祭りのため、ユダヤに再び戻り、エルサレムに上りました。ヨハネが書いた時代、もうこのエルサレムに、ユダヤ人は自由にで入れできないようになっていたと思われます。しかし、イエスはそのエルサレムで活動をした、という記録を残さねばなりません。   ヨハネの叙述はかなり細かいものです。ベトザタの池と五つの回廊が紹介されます。どうやら病人が集まってきているようです。「病気の人、目の見えな

    • 『まことの説教を求めて 加藤常昭の説教論』(藤原導夫・キリスト新聞社)

      これは「説教塾ブックレット」の一冊である。「説教塾紀要」の中から、一般にも提供すべきである部分を取りだして単行本として発行するものである。今回はその「紀要」からというよりも、加藤常昭先生の多くの著作の中から、四冊を以て、その説教論のエッセンスとして説教について学ぶ機会をもっていた著者が、まとまったものをこうしてひとつの形にしたものであるようだ。   その説教論を批判検討しようという意図はない。専ら、その偉業を称えつつ、私たちがそこから読み取り、引き受けなければならないことをま

      • 当人の反応だけが見えてこない

        マルコ7:31-37    マルコにとり、イエスの足取りは、一つのストーリーを経過しています。周辺を旅し、ガリラヤ湖へまた戻ってきました。人々がイエスの前に、一人の人を連れて来ます。女ではなさそうですが、病や障害の当事者はしばしば女であることを避けているように見えます。もちろん、病については女の例はいくつもありますが、特別に「女」と記すようです。   「耳が聞こえず口の利けない人」がそこに現れます。概してこの二つは同時進行します。ろう者にはろう文化というものがある、と今ならば

        • 小林和夫先生を偲んで

          小林和夫先生の訃報が飛び込んできた。   恩人の一人である。   細かなプロセスを説明し尽くすことはしないが、私は成人した後、京都で哲学を営んでいた中で、聖書に触れ、強烈な体験を経て信仰が与えられた。どこか教会に行きたいと願い、下宿の近くに通える教会を見つけた。ただ、そこは異端と呼ばれても仕方がないような教団に属するところだった。   私はすでに、FEBCの無料聖書講座を受けていた。自分で聖書を読み、そこで神と出会ったものの、教理と向き合うことも必要だと感じたからだ。   す

        良くなりたいか

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          137本

        記事

          救いを与える神の義

          詩編85:2-14    「我らの救いの神よ」との呼びかけに、詩人の心がたっぷり詰まっています。この後「救いを与えてください」と願い、「救いは主を畏れる者に近く」ある、としています。この詩は、イスラエルを歌っています。「私たち」を与格を中心に配し、神が私たちにこのようにして下さい、という形を繰り返しています。   個人を挙げるかのように見えても、つねに「私たち」を想定しています。すると、言い訳ができなくなります。民族の一つの歴史がはっきりとしているからです。民は過ちを犯しまし

          救いを与える神の義

          命の水の川

          ヨハネの黙示録を辿る連続講解説教も、ついに最後の章に辿り着いた。まだもう少し大切なことは待っているが、幻の世界は、とりあえず動きを止めている。大団円はすでに始まっており、血生臭い戦いはすでに終わりを告げている。   夏休みは辛いことがある。今年はまだよいほうだったが、日曜日の出勤が強いられることがあるのだ。18日は、その一日であったため、この感動的な説教を、ライブで聴くことはできなかった。ただ、ありがたいもので、録画という形で巡り会うことはできる。昔だったら通り過ぎてしまうだ

          命の水の川

          説教・出会い・我が事・従え

          こうした宣教において起こることは、キリストと聴衆との出会いである。そこでは説教は、既に起こった出来事、イエス・キリストの歴史の証言である。そしてこの証言において、イエス・キリストの歴史 die Historia Jesu Christi が、われわれと同時のものとなる。いっさいの距離は消え、見物していたような態度は捨てられ、このキリストの歴史は自分のために起こったのだと受け取るようになる。具体的な危機の中にある自分を訪ね求め、慰めてくださる、キリストのあわれみの物語として、こ

          説教・出会い・我が事・従え

          暑さから守られる (イザヤ25:1-10, 黙示録7:11-17)

          ◆行く夏の中で 暑い夏でした。短い梅雨の後、夏休みの時期に入る前から、猛暑と呼ぶに相応しい暑さがやってきました。地域によっては異なるかと思いますが、そのために健康被害があったり、大雨と洪水の被害に遭ったりした方もいます。お見舞いの気持ちを申し上げます。中には、民家で汗を流して、という教会もありますから一概には言えませんが、教会の礼拝は、概ね冷房の効いた場所で過ごすことができていたのではないでしょうか。   京都の夏が終わりました。8月16日、五山の送り火で、京都の夏も送るこ

          暑さから守られる (イザヤ25:1-10, 黙示録7:11-17)

          癒やされたのでなく病から解放された

          ルカ13:10-13    安息日でした。ユダヤ人は、ローマ帝国の支配下でも、安息日を守り続けていました。逆に言えば、ローマ側はこれを寛容に認めていた、ということになります。自治的な形式を以て統治するのがモットーだったせいもありますが、決して宗教や文化を否定し抑えつけて異民族を支配していたわけではありません。政治的反逆には厳しかったとしても。   この安息日規定についてのごたごたは、専らユダヤ教内でのトラブルです。「安息日に、イエスはある会堂で教えておられた」ことは、その火種

          癒やされたのでなく病から解放された

          福知山のこころ

          この8月半ばの休暇に、福知山へ旅してきた。義母に会うためだ。コロナ禍の中、義父を喪ったが、直接の血族でない私は、その傍で助けることができなかった。もちろん妻は、福岡から福知山へ幾度か行った。私は、ようやく昨年行けたが、かつてのように車を運転してではなく、新幹線を利用して、ホテルで一泊するというスケジュールで行動するものだった。   義兄が車で、あちこち連れて行ってくれた。感謝に堪えない。また、施設のスタッフも、いろいろ気を使ってくれ、過ぎた対応を受けてありがたく思う。   盆

          福知山のこころ

          隣人への憐れみは裁きの対極

          ヤコブ2:8-13    「隣人を自分のように愛しなさい」と聖書に従ってこれを実行しているのなら、それでよいのだ。ヤコブはそのように言っているように見えます。レビ19:18に由来するものと思われます。しかしルカ伝のあのサマリア人の話のところで、イエスは、これを永遠の命のための律法だと答えた神学者に、これを実行せよ、と言い渡したのでした。   そんなことは知っている、と自惚れていた神学者に対して、このサマリア人と同じようにせよ、と言ったのです。自分が見下していたサマリア人なんか

          隣人への憐れみは裁きの対極

          『生かされて。』(イマキュレー・イリバギザ スティーヴ・アーウィン 堤江実訳)

          私は偶々続編としての『ゆるしへの道』から読んだ。そこでは、虐殺を乗り越えた話も書かれてあったが、少し端折った形で、その後の国連での働きの過程のほうに重きが置かれていた。そこでも嫌なことがあり、「ゆるし」というものが突きつけられたのだ。   本書は、いわば本編である。助け出されるまでの過程が、一つひとつ丁寧に描かれる。   これは、1994年、アフリカのルワンダで起こった虐殺事件の生き証人の報告である。本書が最初に世界に明かされ、人々に感動を与えた。百万人単位で殺されたツチ族の

          『生かされて。』(イマキュレー・イリバギザ スティーヴ・アーウィン 堤江実訳)

          神の国は義と平和と喜び

          ローマ14:17-19    つまらないことで争ったり、分裂したりするのは、やめよう。エッセンスは、ここにあります。ということは、教会は、そのときからも、つまらないことで壊れていたのです。異端問題は教義に関するため、信仰というレベルでは意見が合わない、ということはありえたでしょう。しかし、生活上の習慣やちょっとした思い込みの意地は要注意です。   それらが原因で論争になり、憎々しい思い出が拡がってゆくというのは悲しいことです。「キリストはそのきょうだいのために死んでくださった

          神の国は義と平和と喜び

          『加藤常昭説教全集25 ヨハネの黙示録』(加藤常昭・教文館)

          加藤常昭先生の説教集は、生前にひとつのまとまったものとして世に出たことが、小さな慰めであった。17年間を務めた鎌倉雪ノ下教会を退くこととなったが、最後の一年間を、ヨハネの黙示録を語るように、と長老会が決めたそうである。牧師に与えられた箇所ではなく、教会が決めるというのは、加藤先生にとっては当たり前なのかもしれないが、私にとっては新鮮であった。   しかしともかく、最後の連続講解説教が黙示録だというのは、感慨深い。これが始まったのが1996年。お分かりだろうか。1995年1月、

          『加藤常昭説教全集25 ヨハネの黙示録』(加藤常昭・教文館)

          良心と祝福

          ヘブライ13:18-22    「私たちは、正しい良心を持っていると確信して」いる、と言いました。正しい良心とは何か、と問うよりも、良心をもっていることを否定された可能性を想像してみたいと思います。キリストを掲げるグループは、「兄弟」と呼び合って怪しまれたかもしれません。聖餐を、肉を食し血を飲むと誤解され、怪しい噂を立てられてもいたでしょう。   当時の社会道徳からすると、キリスト教会の人々の生活は、不道徳であり非常識に見えたことでしょう。今でも新興宗教は、隠れて妙なことをし

          詩編第2編より

          黙示録を連続公開説教している説教者とは別の説教者による。ルカの福音書を拾い集めながらの説教が多かったが、前回から「詩編」に入っている。詩編は、信仰の入門のためにも心に響きやすいものが多い。他方、いまでもそうだが、多国語の詩の良さというものは、翻訳からは味わいにくいのも事実である。   正直苦しさを伴う、という告白もあった。だが、それを感じたままでいいと思う。神から、その詩編を通して何がもたらされたか。たとえば今回は詩編2編である。「なにゆえ」から始まっている。これは原語でもそ

          詩編第2編より