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人目を気にしない

小学3年生。よく勉強ができる子たちである。詳述は避けるが、国語のパズル的な問題があって、そこにある漢字で二字熟語をつくり、書き出すものがあった。子どもたちは見抜いた。「目」と「人」とで熟語を作ればよい。さあ、「目人」か「人目」か、どちらかひとつだ。ここで、全員が「目人」を選んで書いた。
 
「あら、『ひとめ』って言葉、使うでしょう」と私が問うが、きょとんとしている。「『ひとめ』を気にする、なんて言いますよね」と私がダメを押すが、子どもたちはぽかんとして、「知らない」と答えた。
 
なかなか言葉が通じないこと、知っていると思っていたことを知らないこと、それに慣れていた私であったが、ここでもまた、ショックを覚えた。いまの子は、人目を気にするという概念自体、身に着けないままに育つのだ。
 
とはいえ、自分も小三のときはそんなものだったのかもしれない、とも思う。だが、「人目を気にする」という言葉自体を知らない、ということはなかったような気がする。あるいは、私だけでなく、そういうことを先生は教室で普通に話していたのではないか、と思うのだ。記憶の問題だから、違うかもしれないけれど。
 
今度は中学生の話。前置詞「of」についての質問が出たときの説明の一例を挙げる。「one of them」という言い方があるんだ、と言った。「彼らのうちの一人」ということが何を言うときに使うか、分かるかな。「オレはどうせ彼女にとって、one of themなのだ」なんていう使い方なんだが。
 
中学生、きょとんとしている。説明すればするほど、こちらが惨めになるくらい、彼らには通じなかった。英語のできる子が多いクラスである。概して、恋愛ネタは、通じない。偶々、というのではない。どこでどのように、恋をするような話をしても、シラーッとしている空気が伝わってくる。決して照れ隠しのようなものではない。
 
アニメでも、「ひとを好きになる気持ちが分からない」という主役のキャラも、珍しくない。高校生くらいで、そうである。だからやがて気づいていく、というストーリーが多いのではあるが、あまりにもあっさりしている。「草食男子」などと言われたのもずいぶん昔だが、あっさりしている、と説明するにはあまりに埒外のような反応が多い。
 
アニメで思い出すが、仲間が互いに敬語で話している風景も、ごく当たり前になってきた。べらんめぇ口調で話し合うのは、最初からそうだしそんなムードで最後までいく。だが、よほどそういう勇ましいのでなければ、ほぼすべて、敬語関係なのである。
 
人間関係において、当たり障りのない付き合いをすること。互いに相手の心情や事情に踏み込まないこと。このあたりが標準になっているような気がする。他人とぶつかるのは御法度である。表面的に平和に付き合っていくことが望ましい。強い「つながり」のようなものを求める気持ちは起こらないかのように見えて仕方がない。もちろん、個人差が大きいことは承知の上でお話ししているのだけれども。
 
「人目」とは、他人との「つながり」の発端になるものである。「人目」は、他者を意識することだからである。自分が誰かから見られている、という意識があってこそ、自分と向き合い、なんらかの交流をする他者がそこにいると認められるのであり、その他者と自分との関係を考慮する運びになるのである。
 
「人目」という言葉を知っているかどうか、それは問わない。だが、「人目」を気にしないのが常態である、というケースはあるかもしれない。ここは成績の良いクラスである。だが、大きな声で喋るのが楽しくて仕方がない女子グループがある。特に中心的な子が、周囲を気にせず、喋る。喋り始めたら、止まらない。廊下でも、構わない。他の教室で授業があることも、全く気にしない。教室内でも、休み時間に勉強をしている生徒がいることも気にする様子はない。注意すればおとなしくなるのだが、喉元過ぎれば熱さを忘れる、である。
 
わざとやっているのではない。反省能力はあるにしても、自ら「人目」を気にする能力を欠いているかのようなのである。あるいは、それは一種の「幼さ」とでも呼ぶべきなのであろうか。そのように決めつけることは控えるが、疑いは残る。だとしても、そこに悪気を感じることはないので。他愛のない、子ども時代の一幕である、というくらいのことにしておくべきだろう。
 
そもそも日本人は、本来「人目」を気にしすぎてよくない、と言われていたことがあった。赤面恐怖症というものがある、という話が出たときにも、それは日本人特有のものだ、という意見すらあった。もっと自分というものをもて、と。他人がどうか、ということを気にしすぎていて、精神的に自立していない、というのだ。
 
だが、電車の中でよく分かることだが、傍若無人に振る舞う人間が、たいていそこにいる。大声で自分たちだけ楽しく話すが、それが音の暴力になることなど、気にかける様子もない。私などたまらず時折睨むのだが、それに気づいて態度を改めた人間など、かつて一人としていない。他人が座れないように座席に荷物を置くことまで含めると、凡そ人目を気にしている、などという欠片もない者がいることは、否定しようがない。
 
また、いわゆるSNSなどで暴言を吐き、誹謗中傷を繰り返しているような人間の様子を見ても、「人目」というものを全く気にしていないようにしか思えないことがある。もし何かその行動を諭すような書き込みをする人がいたとしよう。かの暴言の主はどうするか。ブロックするのである。不愉快だからだ。議論などしない。うるさい蚊はすぐに叩き潰してしまえ、二度と鳴かないように、という感じなのだろう。これで、自分に対してお説教をするような声は排除する。そして自分はお山の大将であり続ける。
 
もちろん、人目を気にしすぎるのも窮屈だ。自分を表現するのに、他人の視線を気にするな、とアドバイスしたくなることは沢山ある。自分は自分、と励ましてやりたくなることも多い。しかし、一部かもしれないが、人目を気にしない、あるいは気にすることができないタイプがいて、もしかすると増殖しているかもしれない、と危惧している。
 
人の気持ちが分からない、ということを等置するつもりはない。分からないものは分からないのであるから、仕方がない面がある。ただ、人の気持ちを知ろうとしない、知ろうとすることが完全に欠落している、というタイプについて言っているのである。
 
キリスト者は、「人目」を気にしていないにしても、「神目」を気にするものだろう。「人目」を気にすることができない場合、「神目」を気にすることができるはずがない。そして「神目」を気にするならば、当然関心は「人目」に向かうものである。神を愛し、人を愛する、という教えについて、また「なるほど」と肯けるような気がしてきた。

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