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ショートメッセージ

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聖書から日々黙想をしている中で、短いひとまとまりのメッセージを書き留めています。それをおすそわけします。ご面倒ですが、聖書箇所について聖書を開くか、検索してくださると、いっそう身… もっと読む
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記事一覧

共に苦闘するパウロ

共に苦闘するパウロ

フィリピ1:27-30 
 
私は今にも殺されるかもしれない。だが、できれば、もうしばらく生きていたい。生きてあなたがたに会いたい。こんなパウロの心の揺れを吐露するような文面が見えます。その後、視点をフィリピ教会の人々へと移します。教会も、また苦しいではないか。敵によって苦しめられているではないか。だが、その苦しみすら、神から与えられているのだ。
 
私たちは他人に対して、このような言い方をすべき

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信じる故の勇気

信じる故の勇気

ヨハネ16:25-33 
 
「もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る」とイエスが言います。その「時」とはいつのことでしょう。誰の、どんな時なのでしょう。これを読む私たちにとっても、まだその「時」は来ていないのでしょうか。だったら、私たちに神のすべてが明らかになっているはずがない、というのも当たり前でしょうか。
 
ところが、イエスの十字架と復活の時を、ここでは指しているように見

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私が苦しめたのだ

私が苦しめたのだ

イザヤ53:4-8 
 
苦難の僕の歌の一部から聴きます。人々に見捨てられたその人は、私たちの病を担い、痛みを負いました。「私たち」と「人々」とは別人なのでしょうか。「私たち」の中に「私」がいるのだとしたら、ここではいま「私」に限定した形で味わってみたいと思います。私がこの人を軽蔑し、見捨てたのです。
 
しかし私の病と痛み、あるいは悲しみを、この人は背負いました。私はこの人が勝手に神に打たれて病

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呼びかけよとの声

呼びかけよとの声

イザヤ40:9-11 
 
「慰めよ、私の民を」と、40章はそれまでの様相を変えて、イザヤの名で新しいメッセージをもたらします。この民に呼びかけよ。主の言葉が飛びます。誰が誰に向けて呼びかけるのでしょうか。主がまず、預言者に呼びかけています。それから、預言者がイスラエルの民に向けて呼びかけています。神の言葉はこうして私たちに届きます。
 
神の言葉はとこしえに立つ、そんな有名な言葉が聞かれる中、こ

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人と神との織りなす歴史

人と神との織りなす歴史

詩編78:12-31 
 
「しかし、彼らは」神に背を向けました。そもそもイスラエルは、神に導かれ、恵みを受けて来たのです。ここには出エジプトの歴史から語られます。詩人は歴史を丁寧に辿り、如何に神が民を愛しく導いてきたかを描きますが、人々は神に逆らいます。神に背きます。つまり、それを「罪」と呼ぶのが、聖書の聖書らしいスタンスでありました。
 
「しかし、神は」がこれに応答されてきます。こういうふう

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主を忘れないように

主を忘れないように

申命記8:11-20 
 
主を忘れることがないように。これが主眼です。「戒めと法と掟とを守りなさい」ばかりが目に入ってくるかもしれません。神に従え、という矢が降ってくるのを覚える心理もあるでしょう。でも、主を忘れてはいけない、ここが中心です。今の自分たちの生き方が、どうして支えられているのか、考えてみるように。申命記が誘うままに動きましょう。
 
確かに「炎の蛇とさそりのいる、水のない乾いた、広

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主は苦しめ、そして導く

主は苦しめ、そして導く

申命記8:1-10 
 
主は「あなたを苦しめ、試み」たそうです。それから、主は「あなたを苦しめ、飢えさせ」たといいます。なにげない一言を見逃さないようにしましょう。これがあるからこそ、「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」という命題が告げられ、私たちの目の前に突き出されたのです。
 
イエスが荒野で悪魔により攻撃されたとき、この言葉を以て退かせたというと

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捜し求める牧者

捜し求める牧者

エゼキエル34:11-16 
 
牧者は、羊の群れが散らされたとき、自分の群れを捜し出すもの。そのように、主なる神も、自分の群れを捜し出すのだといいます。イスラエルが、実際にこのような牧者を欠いていることで、主自らが動くのだそうです。主は、自分の群れを尋ね求めます。どこにいるのか、どこに行ったのか。名を呼び、絶望と闘いながら、尋ね求めているのです。
 
あらゆる所から救い出す覚悟を、散った側の羊は

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従ってはならない羊飼い

従ってはならない羊飼い

エレミヤ23:1-4 
 
「私の牧場」と主が仰せになった。これは主のものだといいます。主の牧場の羊の向けを散らしてしまう者に、災いあれ。滅ぼすというのは殺すことというよりも、群を群でくしてしまうという意味にとりたいと思いました。そうすると、イスラエルの民が分裂したり捕囚とされたりすることを示せるようにも思えます。
 
エレミヤは、バビロン捕囚を知っています。だからその悲惨で困難だったことを指摘し

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誰に呼びかけるのであっても

誰に呼びかけるのであっても

詩編100:1-5 
 
「全地よ」と呼びかけた相手は、人のことなのでしょうか。それとも被造物すべてであるのでしょうか。さしあたり人なのでしょうが、「主が私たちを造られた」というとき、「私たち」がどこまで及ぶのか、考えさせられます。この詩は、ダビデの作だとはされていません。「私たち」についても、どう受け止めてよいか難しいものです。
 
でも、イスラエルだけに対する呼びかけではないように思えてなりま

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どこか無邪気な復活劇

どこか無邪気な復活劇

ヨハネ20:19-23 
 
復活したイエスは、ヨハネ伝では、マグダラのマリアにしか、まだ姿を現していませんでした。ペトロともう一人の弟子が空の墓は見て知っていました。この二人はしかし、まだ十分理解していなかった、とヨハネは記しています。こうした弟子たちは皆、ユダヤ人たちの襲撃を恐れていたのか、さる家へ閉じこもっていました。
 
部屋に鍵をかけていたというのは、心にも鍵をかけていた、と言っているの

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イエスは教会と共にいる

イエスは教会と共にいる

マタイ28:16-20 
 
復活したイエスは、墓へ来た女たちに出会います。女たちは、まず空の墓を見ました。天使が現れて、イエスは復活した、と女たちに告げました。先にガリラヤへ行っているから、そこで会えるだろうというのです。女たちは、恐れながらも大喜びだという複雑な感情を胸に、弟子たちのいるところへと走りました。走ったというのです。
 
イエスは、その行く手に立っていて、女たちはイエスに出会います

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伝えたいこと

伝えたいこと

使徒2:14-24 
 
聖霊が降った。その後のことです。これは酔っ払いに違いない、と集まってきた人々が言ったため、それにペトロがすぐさま反応しました。「声を張り上げ、話し始めた」のでした。ペトロ自身「聖霊」に満たされ、「霊が語らせるままに、他国の詞で話しだした」うちの一人であったため、いわばしらふに急に戻ったような情況のように見えます。
 
ヨエル書を引用して、こんなにも落ち着いて理路整然と話せ

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心がいつでも戻ることができる場所

心がいつでも戻ることができる場所

申命記6:4-9 
 
申命記での十戒の提示が、この前にありました。モーセは、その掟とイスラエルの民との関係を説きにかかります。「聞け、イスラエルよ」の呼びかけは、今なお続いています。古の民族が聞いた声を、今私たちが耳にするのです。人類は、それほど変わってはいないのです。この申命記がいつどのように書かれたにしても、同じように響いてきます。
 
神の言葉を受けた者のもたらす知恵は、価値を落とすことな

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