マガジンのカバー画像

ショートメッセージ

674
聖書から日々黙想をしている中で、短いひとまとまりのメッセージを書き留めています。それをおすそわけします。ご面倒ですが、聖書箇所について聖書を開くか、検索してくださると、いっそう身…
運営しているクリエイター

記事一覧

終わりの時のために求められていること

終わりの時のために求められていること

ユダ17-21 
 
「終わりの時」のことを警告します。それは「イエス・キリストの使徒たちが前もって語った言葉」であるといいます。使徒たちという立場の者たちの、権威が確立していたことが分かります。イエスの言葉が最も尊いことは、誰にでも想像できます。けれどもイエスの言葉は、その語録があったのだろうし、すでに福音書が既知のものとなっていました。
 
もちろん、後の「正典」という考えや権威が備わっていた

もっとみる
離れ去る人々と問われる一人と

離れ去る人々と問われる一人と

ヨハネ6:66-69 
 
「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を得、私はその人を終わりの日に復活させる」(6:54)などというイエスの言葉を聞いて、それまでイエスの教えに耳を傾けていた人々は、とても聞いていられない、と呆れました。これが教義となり、それを信じた後の時代の私たちにしてみれば、これこそキリスト教だとよく分かるのですが。
 
確かに象徴的な表現が使われています。肉や血を、という言

もっとみる
なんとしても知恵を求めよと言われて

なんとしても知恵を求めよと言われて

箴言4:6-8 
 
「知恵を得よ、分別を得よ」(5)が、すべてを物語っています。父が子に諭しているという形式ですが、この要点をベースに、言葉がアレンジされています。今回注目するのは、そのうちの3節分です。それらの頭の部分を並べると、知恵を捨てるな・得よ。尊べ、と迫ってきます。これらは必ずしもこの順番での手順を示しているのではないと思われます。
 
各節の最後の部分を拾うのもいい。分別を愛せ・得よ

もっとみる
気づきのあったヨブはこのとき

気づきのあったヨブはこのとき

ヨブ9:1-12 
 
神を忘れる者、神を敬わない者であってはならない。完全な者であれ。シュア人ビルダドが言ったことに対して、ヨブが反論します。人は神に対して正しくあることはできない。神と争うことなどできないだろう。神の知恵に刃向かうつもりは自分にはないし、神の力に抵抗することを考えはしない。ヨブの言い分はこの後もしばらく続きます。
 
そして、人の思う正しさなど、神の前には何の意味もないんだ、と

もっとみる
厳しい叱責の向こうに

厳しい叱責の向こうに

箴言1:24-33 
 
知恵が巷で喜び歌う。広場で声を挙げる。この声の呼びかけは、ここでは懲らしめでした。それを拒む者たちへの叱責の言葉を、今日は聞きます。呼びかけても、あなたがたは拒みます。「あなたがた」と訳してありますが、「おまえたち」の方が内容をよく伝えるような気がします。もちろんこの「知恵」は擬人化されています。神のことです。
 
この知恵は、神のメッセージそのものなのです。神は呼びかけ

もっとみる
知恵の初めについて

知恵の初めについて

箴言1:1-7 
 
聖書の言葉を神からの言葉とするなら、それを無条件に正しいと受け容れるものでしょう。しかし、旧約聖書には、そもそもそのような問いを疑問のように投げかけることが、あるはずがありません。神の存在を問うような発想そのものがありえないのです。どんな言葉で飾ろうと、それを根拠づけることなどできないし、それをする気にもならないのです。
 
これは諭しであり、分別ある言葉です。そこからは、正

もっとみる
知恵を求めた結果として

知恵を求めた結果として

箴言2:1-9 
 
「神の知識を見いだすだろう」という結論がここにあります。尋ね、そして探すなら、という条件によってであるように見えます。箴言は、繰り返すような表現の中で、同じ「知恵」を様々に言い換えて持ち出します。詩編119編の例にあるように、神の戒めこそが知恵であり、英知・分別そして知識と言葉を替えますが、指しているものは多分同じです。
 
新約の徒としては、これを神の言葉・聖書の言葉と受け

もっとみる
将来の暗雲を宿す祝福

将来の暗雲を宿す祝福

列王記上3:3-15 
 
ソロモン王は、ダビデの掟に従って歩んでいましたが、「高き所でいけにえを献げ、香をたいていた」といいます。「高き所」について、聖書は激しく弾劾はしていないものの、良い評価を下してはいません。主の神殿へのベストな接し方には至らないような形で、それでも主を拝していたのでしょうか。そうしていたソロモンは、主の祝福を受けます。
 
いけにえを献げるために、ソロモンはギブオンの高き

もっとみる
神との関係の中で生かされている

神との関係の中で生かされている

詩編145:9-16 
 
ダビデの作とされる詩編はたくさんあります。中には、ダビデの名を冠しているだけで、作者は別だ、ということもあるようです。この詩はどうでしょう。確かなことは、アルファベット順に最初の文字を置いて歌うという、技巧的な詩であるということ。神の業を思い巡らす詩人は、神の視点をなんとか得ようとしますが、なかなか難しいもの。
 
それでも、神と人とのつながりを見つめることはできます。

もっとみる
どうやってそこに立つか

どうやってそこに立つか

ヨシュア1:1-9 
 
モーセとて人間です。出エジプトの役割を果たすと、主はヨシュアを選び、イスラエルの次の段階を任せることにしました。ヨシュアの次は、それほどの力をもったリーダーが統率できなかったようですから、ヨシュアはカナンの地に定着するための大きな働きを果たしたと言えるでしょう。「強く、雄々しくあれ」と主はヨシュアに繰り返します。
 
そうでないと、ためらいや弱気があって、攻めきれないとい

もっとみる
主は見ておられないとでも言うのか

主は見ておられないとでも言うのか

哀歌3:25-36 
 
哀歌の5つの章は、5つの詩からできています。それぞれが、アルファベットによる詩となっており、技巧を凝らして作られています。邦訳では、その工夫が伝わってこないのが惜しいと思います。主の恵み深さがここにはまず並び、主に希望を置き、主を探し求める者、主の救いを待ち望む者に恵み深い、ということが書かれてあります。
 
このとき、「若い時に軛を負う者」がことさらに取り上げられている

もっとみる
人道的判断について

人道的判断について

出エジプト1:15-21 
 
エジプトにおけるヘブライ人ヨセフの働きも、数百年の時と共に忘れ去られてしまいます。エジプト王はいま、いわば難民問題に対して、非人道的な命令を下したのでした。基本的人権もなにもありません。王の思惑ひとつで、庶民の生活や命など吹っ飛ぶような時代です。難民の生活を苦しめて人口が増えないように、と企んだのでした。
 
さらに、それでも難民が減らないとなると、国が脅かされると

もっとみる
キリスト者の心構え

キリスト者の心構え

コロサイ3:12-17 
 
「あなたがたはキリストと共に復活された」(3:1)のだから。ここから始まる章では、「だから」が効果的に使われています。こうせよ、こうしてはならない、このようにイエス・キリストよ、との指針が次々と登場します。キリスト者にとり、さしあたり参考になることが多い箇所です。生活の指針に用いたい言葉にたくさん出会います。
 
「神に選ばれた者、聖なる、愛されている者」と呼ばれてい

もっとみる
良くなりたいか

良くなりたいか

ヨハネ5:1-9 
 
イエスがユダやからガリラヤに来て、二つ目の「しるし」を行いました。その後イエスは祭りのため、ユダヤに再び戻り、エルサレムに上りました。ヨハネが書いた時代、もうこのエルサレムに、ユダヤ人は自由にで入れできないようになっていたと思われます。しかし、イエスはそのエルサレムで活動をした、という記録を残さねばなりません。
 
ヨハネの叙述はかなり細かいものです。ベトザタの池と五つの回

もっとみる