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神との関係の中で生かされている

詩編145:9-16 
 
ダビデの作とされる詩編はたくさんあります。中には、ダビデの名を冠しているだけで、作者は別だ、ということもあるようです。この詩はどうでしょう。確かなことは、アルファベット順に最初の文字を置いて歌うという、技巧的な詩であるということ。神の業を思い巡らす詩人は、神の視点をなんとか得ようとしますが、なかなか難しいもの。
 
それでも、神と人とのつながりを見つめることはできます。神と人とはどういう関係にあるか、そこに目を注ぐということだけでも、実は難しいものなのです。今日はその詩の中盤だけを味わいます。主は恵み深い。すべてのものに憐れみを与えます。それを受け止めかどうか、それが人にできる精一杯のことであるように思われます。
 
そうやって初めて主に感謝することができるし、そのことが主に忠実であるのだ、ということになります。人が信心深いからどうなる、という論理ではありません。忠実さとて、別のところから結果として与えられるものだ、という見方をしています。そうしてますます、神の栄光を述べ、神の力強さを語るようになる、と理解するのです。
 
神を伝えるためです。あるいは、結果として神を伝えることになると考えます。主は王です。永遠に王です。イスラエルの神は、イスラエル民族だけの王に終わらず、全地の王として君臨します。世界を創造した神なのです。こうして神の偉大さに注目して詩人がひとまず言葉を止めると、次には、人との関係のほうに注目することにします。
 
もちろん、神が人に何をしてくださるか、ということです。「主は、倒れそうな人を皆支え/うずくまる人を皆立ち上がらせる」という言葉を、人は自分の力とすることができるでしょうか。自分がそうやって助けられているのだ、と受け止めることができるでしょうか。立ち上がらせてくださる、その言葉を握りしめて、力とすることができるでしょうか。
 
さらに、恵みを受けるのは人間だけではないことにも気づきます。「すべてのもの」と言われています。主に向けて「待ち望む」のは、人間だけの特権ではないようです。食べ物が主から与えられます。主は、手を開きます。腕組みして自分の中に閉じこもっているような態度ではありません。手を開き、胸を開いて、恵みを渡します。
 
「命あるものすべての望みを満ち足らせる」というのです。私もまた、その恵みの中にあり、恵みに与っています。そして、凡ゆる生き物もまた、主の恵みの視野に入れられています。だからこの詩は、この後最後になってですが、「すべての肉なるものは/代々とこしえに聖なる御名をたたえます」(134:21)と結ぶのです。

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